たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

「百合星人ナオコサン」に見る、失われる幼女と世界の幻影

百合星人ナオコサン (1) (Dengeki Comics EX)
電撃大王で連載されてたkashmirさんの「百合星人ナオコサン」がとうとう本になってしまいました。しかもまさか「We Love AKIBA-POP!」や「すもももももも」のMOSAIC.WAVさんが作ったCD付きとは、まさにオタク文化最先端なマンガすぎます。
kashmirさんは「l o w l i f e 」のHPがずっと好きで見ていましたが、ここしばらくで「○本の住人」「ナオコサン」と立て続けに出版され「ふふ、時代がkashmir先生に追いついたんだゼ?」とか勝手に思ってます。そのくらいkashmirさんのマンガとイラストはオタク的で前衛的すぎ。
題名に反してこの本全然百合じゃないです。どちらかというと、一言でまとめると「ようじょ」。
どんな内容かというと、

こんな中身。
 
 
表紙をはがしたところ。コバルト文庫とナオコサン。すごいぜ、間違って買いそうだゼ。
 
さて、この作品のナンセンスギャグ風味な内容は各地で語られているので、そのへんは詳しいレビューサイトを見ていただけるとよいかと。
しかし、kashmir先生の描く陰影は、ただのナンセンスギャグにとどまらず、「これから失われていく世界」のニオイを常に漂わせています。ナオコサンはその、終末に向かおうとするorもう終わってしまっている世界観の一部な気がします。
キーワードは「少女」と「廃墟」。ほら、うちのサイトが好きそうなキーワードが残りました。というわけで深読みしすぎだろうというツッコミは置いておいて深読みします。

  • ナオコサンの幼女は、幼女ではない。

このマンガとにかく「幼女」という言葉が頻発します。「めとみみできけ」さんによると実に44回。
本当に幼女が大好きなマンガですね、と言いたいところですが、実のところこの作品に出てくる幼女は幼女ではないです。

これは笑うコマなんですが、ちょっと一旦立ち止まって見てみます。
ナオコサンの世界では、幼女は最高級の存在として君臨しています。理由とかはまったくないのですが、それを中心軸としてナオコサンが行動しているので、いやがおうにも幼女は特別扱いです。ではその幼女たちはリアルな子どもかというとそうではないんですよネ。常温で液体の幼女とか、すでに人間ですらないし。
実際二次元の少女キャラはおしなべてイメージ化されているのですが、それを逆手にとって特別扱いすることで、人間の上の階層に幼女を据えてしまっているのがこのマンガのすごいところ。

一方これは「幼女のプロ」をお金で雇うナオコさんの図。
素直に笑えるシーンなんですが、冷静に考えるとこれはすごい発想です。
つまり、世界の希少価値としての「幼女」という存在があり、その存在は「誰かに作られているもの」だということですネ。需要があるから供給として作られた幼女がいる。そうしたときに「少女的記号の萌え」が「少女の存在そのもの」を乗り越えて特殊化していきます。二次元萌えの世界ではよく見られる逆転現象。
Q、とりあえずツンデレかどうかなの?本体よりぱんつなの?性格よりもメガネなの?
A、うん、そうだよ。それでいい。

 
ナオコサンのイメージする幼女・少女像はそこをうまく逆手にとっており、少女という瞬間のパーツを保存して永久コレクションにするかのようです。よみがえった古代の邪神が少女のメガネにだけ反応するあたり、その逆転っぷりが笑えるのですが、笑ったときオタク確定のツボをピンポイントに攻めてくるので、とりあえず電車の中とかで読んでにやけないように気をつけなければいけませんヨ。さすがに読まんか。

みなさんこんばんわ、ようじょです。
ようじょ生活50年。
(百合星式おゆうぎうた)

あっという間に失われるものであることは重々承知の上。
それを宝物のように大事に愛でる、というよりは、既に滅亡した文明を再現するかのような描かれ方です。いやいや、大げさじゃないッスよ。この世界では人間の上に据えられている少女・幼女の存在ですもの。

  • 少女と廃墟と喪失感


このマンガの主役ともいえるみすずちゃんは、廃墟マニアです。
その設定だけでも色々シュールなんですが、逆に言えば廃墟好きの人にはビビっとくるんじゃないかと思います。たとえば自分とか。

「少女と廃墟」は割と最近よく見られる題材だと思います。kashmirさんがかなり前から廃墟や失われた世界にたたずむ少女イラストを描いていたのは、サイトのほうで見ることが出来ます。世界に何もなくても少女だけはいる、という世界観とか、時間が止まったように廃墟群の中にいる少女とか。
絵柄的によく似合う、というのもあるのですが、「少女的なものが好きな人」と「廃墟好きな人」層はかぶる部分あるんじゃないかと思うんです。マンガの題材として頻繁に用いられますし、「リアルドールと行く廃墟めぐり」なんて記事がリアルドール雑誌に載っていたのを見たこともあります。極端な例だろうと言われるかもしれませんが、自分も廃墟にスーパードルフィーもって行って写真撮りたいですヨ。そういう願望ってないですか?ないですかそうですか。
 
丸田祥三写真集「少女物語 棄景Ⅳ」より。
廃墟写真を多く撮る写真家さんですが、「何が写っていないか」を目的として一時期廃墟を撮っていたというだけあって、その喪失感はかなりの強烈さをもって、暗いどころかポジティブに描かれています。少女がそこに入ることで、一瞬の世界と悠久の世界がごっちゃになります。まるで、世界が失われていくのを望んでいるかのよう。

ナオコサンの世界はあくまでもギャグマンガなので、あまりその「静」の部分は強調されていませんが、内表紙をめくったときに見られる機械的で廃墟のような塔を見るときに、明るいだけではないkashmir節が全開になります。
以前も書いたように、自分は「少女像」そのものは一瞬の幻影のように時間とともに消えていく存在だと言う見方をしています。だからナオコサンは底抜けに明るいマンガに見えていますが、廃墟や人工的幼女像のコンボによって、「これから失われる時間」あるいは「もう失われてしまった時間」を、ゆっくりとぬるま湯の中で温めなおしている、そしてそれを楽しんでいる気がしてならないのです。

  • 世界と少女は時間を止めてしまってこそ、なのかもしれない。

一見「苺ましまろ」のような「かわいいは正義!」のようなマンガに見えますが、ナオコサンのもつ毒は「性的な喚起」や「萌え」ではなく、「少女達の住む時間は既に失われている」という基盤のから噴出している気がします。少女・幼女がそのエッセンスだけを残して彫像となり、あとの感覚や世界はもう既に止まってしまっていいんじゃないの?と見ていて感じるのです。
考え方によっては、逆にそここそがオタク文化の「萌え」の発端部分かもしれませんネ。
 
とまあぐだぐだ書きましたが、オタクだという自負がある人ならニヤニヤ楽しめる(ゲラゲラではない)ので、オススメのマンガなのです。でも「○本の住人」以上に、オススメする相手を非常に悩むマンガなんですよねえ。少なくともオタクじゃない友人に貸してしまったら色々アウトな気がします。独特の言語感覚にノレれば最高に面白いです。まあなんだ、CD付きの間に買っちゃえ。
最後に百合分補給。

いやされたー


 
〜関連してるわけではないアイテム〜
少女物語―棄景〈4〉

〜関連記事〜
「百合的作品」群から見た少女幻想と、ネバーランド住人たち。

〜関連リンク〜
「l o w l i f e 」
百合星人はエロい人!? - 百合星人ナオコサン(1)(真・業魔殿書庫)
百合星人ナオコサン (百合な日々)
百合星人ナオコサンふらげした(めとみみできけ)
「百合星人ナオコサン1巻」発売 初回限定洗脳ソング主題歌CD付き(アキバBlog)
すももももももOP(youtube)