たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

「BLUE DROP」に見る、特別化されゆく「少女」の姿

●マンガの少女は芸術の域に向かっていると思うのヨ。●

澁澤龍彦「少女コレクション序説」を愛読し、進化の究極形態が少女だということを「エコール」で勉強して育ったたまごまごです。こんにちわ。
最近自分の中身が「百合星人ナオコサン」状態だなあと感じることがあります。というのは別に幼女好きというわけではなく、物語・マンガに出てくる少女イメージがあまりに美化されていて、記号化された少女に芸術を感じるようになってきたからです。
ああ、まって、石を投げないで。
というのもあまりオオゲサな話ではないと思ってるんですってばよ。いやほんと。
今の一部のアニメ・マンガ文化はある意味少女像を一つのシンボルにして育っているんじゃないかなと思うんですヨ。宮崎アニメの少女は言うまでもなく、「ネギま」などのような作品に至っては各種少女のエッセンスを濃縮することで、男でも女でもない「少女」が一つの性として完成しているんじゃないかなと思ってたりします。(もちろんリアリズムに向かう文化があるのもしかり。)
はて、「少女イメージ」を蒸留して純化していくと、その「少女イメージ」は「男性の都合のいい方向に従化されていく」か、「異性に心を傾けなくなる」かの二通りに向かっていくと思います。それが「男性視点の、憧憬としての百合」へと変貌していくんじゃないかな?なんて仮説を立ててみます。
今回はそんなお話。

BLUE DROP―吉富昭仁作品集 (電撃コミックス)
今回考えるきっかけになったのは、「BLUE DROP」。「EAT−MAN」や「RAY」の吉富昭仁先生のSF百合作品です。作品集となっていますが、基本的世界観はまるまる一冊を通して同じです。1つ目だけは世界は同じでも価値観が全然異なり、ストーリーのつながりもないので、今回はおいておきます。
この作品は世界観、絵の描き込み、SF、ストーリー、百合においてのこだわりが尋常じゃないので、手放しで絶賛しておきます。かなり作り込まれているので、男性視点からでも女性視点からでも十二分に楽しめるのではないかと。
 

●人の心に眠る「恐怖」と、それを破壊する「少女」●

簡単にこの世界を説明しておきます。
異星人は「思念凝結兵器」というものを地球に持ち込みました。これは人間の奥底に眠る「恐怖」を形にし、武器にするというかなり変わった兵器です。しかし怖いと思えば思うほどでかくなるわけで、気が付けばどうしようもないくらいに膨れ上がります

世界の半分近くは飲み込まれ続けており、人々は恐怖をどうすればいいかわからないまま暮らしています。
1000年前の戦争で使われたこれは、消し去ることができません。恐怖で出来てますからネ。人間から恐怖はどうやっても拭い去れないです。そんなわけで地形を変え、今でも恐怖を起こさせる存在として残り続けているのです。海にもそのかけらが残り、「海人」として人間を襲い続けています。
その異星人ですが、女性しかいないんだなこれが。女性を愛して、繁殖していきます。そしてそこに生まれたハーフが主人公の唯(YUI)。当然女の子が大好きです。

さて、そんなトンデモ設定なマンガですが、根っこには「少女は特別な存在」と言うのが強く流れています。最初の一編だけは少年ですが、他はすべて「少女」がテーマになっており、ほぼ少女しか登場しません。
「少女」は、この「恐怖」のカタチを破壊するための「ワクチン」として投与されます。マンガ内では「なぜだかわからないけど」「嗜好なんだろう」とありますが、最後まで読んでいくとなんとなく読者にはわかる仕組みになっています。

「恐怖」は人々の心に眠るどうしようもない感情。これを取り除くには「特別」が必要なわけです。
 

●特別化された存在としての「少女」たち●


特別な存在としての価値を付与された少女は、血も白くなります。髪の毛も真っ白になります。すでに「普通」ではなく「特別」になった少女。
待っているのは「ワクチン」という名前の「イケニエ」です。しかし、そんな理不尽極まりない運命が待ち構えているにもかかわらず、カサカサと乾いた空気をもって物語は進んでいきます。それは、あたかも「特別なのが当たり前」と言わんばかり。

血液、いや体液も当たり前のようになめとります。異星が女性だけだからといって、このシーンは普通に考えると特殊であることにかわりはありませんよネ。ちょっとドキドキしちゃったヨ。
ストーリー上では「ワクチン適合者は特別な存在として選ばれた」と言われますが、キャラクターの存在そのものが本当に特殊化していくんですよ。血は血でなくなり、人間としての汚さを排除して「少女性」だけを強く残したような、非常にエロティックな存在として描かれています。実際絵にも特徴があって、生身なのにツルツルカサカサした感じなんですよね、肌の描き方が。ワクチンになった少女達が硬質な感じで死んでいくからかもしれません。
その記号的な姿と、主人公唯による愛され方は、少女記号の結晶とも言える「人形」のようです。

実際、「海人」の回で語られているように、最初はワクチン役の少女は完全に作られた「ワクチン用合成人間」でした。それが時を経るうちに生きている人間から選ばれ、特別なものにされていくようになりました。
それが「美学」と呼ばれています。
 

●今、人がイメージする「少女」という性。●

この「特化少女」の描き方にはかなり賛否両論あると思いますが、ここに出てくる少女達を、人間の思い描く「少女像」と置き換えてみたいと思います。
人間は文学や芸術や娯楽の歴史の中で、少女を何者でもない「特殊な性」として置き換えてきました。そしてそれはあたかも「自己犠牲」を払う存在のように、イメージの中で従事させられるものになっていきます。
この作品でも語られているように、それは「戻りたい」という「懐古」のカタチだったりします。このままでありたい、この瞬間を失いたくない!その気持ちを描くには、儚さを持ち合わせた少女の姿がよく似合います。だから特別なんです。
少女のまま失われるから、そのイメージに眠る少女は永遠のものになります。うちのHPではしつこいくらいに書いてますが、「少女」が「女性」とは違う「性」を付与された時に、文学やマンガ作品に一つ新しい価値が生まれるのではないか、と自分は考えています。

個人的にはすーげーその瞬間を永遠にして閉じ込めておきたいですヨ。だって、本当にまばゆく描かれてるんだもん。リアルに描かれているものの、こういう「写真」に閉じ込めたようなシーンが多いのもこのマンガの特徴。
 

●失われる時間、失われる少女●

しかしひっくり返すと、それは一瞬で壊れることを分かっている「失われるもの」でもあります。以前「ナオコサン」のエントリでも書きましたが、少女でいられるのは一瞬の時間。すぐに「失われ」てしまいます。

廃墟の持つ「失った時間」「取り戻したい世界」と少女はよく似合うネ。
実際にこの時間はすぐに「失われ」てしまうのが、分かっています。だからこのカットはあまりにも美しく、ろうそくの火のようにゆらゆら揺れます。しかし、それをそのままの形で保存するために失ってしまうか、あるいはもう過去のものとして現実に立ち返るかが大きなポイントになってきます。
実際のところ、イメージとしてコレクションされる少女像は、「人間性」を失われるからその形を保つのかもしれません。現在のオタク文化における少女は、まさにそうでしょうね。特別な性を与えられて、人間の動物らしさを失い記号化されたときに、「少女」は結晶になっていきます。

しかし、「少女」は同時に、従来のものを破壊する価値観も持ち合わせています。それは人間として成長し、少女ではなくなることも含みます。主人公唯は、世界が「失われたものを懐古する」というループを押し付けと言い切り、そこから飛び出すことを望みます。価値観を破壊しようと考えて行動します。そこが、異星人とのハーフながらも非常に人間的なんですよね。
 
現実に生きる少女は、マンガに描かれる少女像に憧れつつも、既存の価値観からの脱却を望みます。枠にはめられた姿を嫌悪し、押し付けの美学を投げ捨てて新しい世界へ進もうとします。それが、このマンガでは異星人と人間とのハーフで、「少女が大好きな少女」唯として描かれています。
生身で生きようとする少女と、イメージ化されていく少女の百合。ものっそいハートに来たんだなこれが。
 

●普通の「少女」という幻想●

まあ、唯は全然普通じゃないわけですが。なのに他の少女よりはるかに普通に見えます。
彼女が少女を愛するのも、また普通に描かれているのがすごいところ。
百合作品としては、心の機微があまり描かれておらず、空気のように女の子同士が接しています。それがまたいいんだな。変に考えずに直情的に好いているんですよ、唯が。設定が「女しかいない星のハーフ」と割り切ったおかげで、「女」を意識しすぎないで「かわいいものはかわいい」的な愛情がたっぷり注がれているのがまたGOOD。

わりとおバカですね!(鼻血を拭きながら)
 
外伝的な「海人」で描かれている留美と清美の二人は、唯と違って微妙な関係を保っているのですが、そちらは「失われていくもの」。唯のは失われるかどうかなんて気にせず、ただただ前に前に進むだけ。それがこの作品の、凝固して陰鬱になりそうな空気をカラっとさわやかにしています。

何が「普通」なのか、それは読者にまかされたまま。
 
個人的には、あらゆる作品の中で「特別」な少女も、「普通」の少女も描かれるから面白いし、百合作品はそのような環境の中ではぐくまれていくのだと思っています。ただ、その二つがぶつかったとき、この作品のような愛情も生まれるし、パラドクスも生じるんだろうなと考えさせられました。
それでも。セットの中の出来事とはわかっていても、自分はまた幻想少女に惹かれていくのです。そして、時々それを打ち破る少女が自分の中に現れる。このループは終わることがないのかもしれません。そして、なんとなく自分もそれを望んでいる気がします。
また、特別を失い、普通に戻った少女像こそが、幻想なのかもしれません。
 
ところで。この作者の裸足へのこだわりは尋常じゃありません。「はだし」が好きな人は読むべきですはだし少女大好き。
 
〜関連記事〜
「百合的作品」群から見た少女幻想と、ネバーランド住人たち。
「百合星人ナオコサン」に見る、失われる幼女と世界の幻影
「エコール」に見る、少女達の閉ざされた楽園観
 
〜関連リンク〜
R A K U G A K I ー 3 X
作者、吉富昭仁先生のHP。もうとにかく女の子の足にこだわりすぎで最高です。RAYはまだ読んでないので、この機会に読んでおきたいところ。「連人 -ツレビト-」も気になります。