たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

エロマンガ家海野螢の描くSF思考世界で、ショートカット娘と戯れよう。

●ショートカットで貧乳●

ちょっと今日は、自分が大好きな一人のマンガ家の話をしようと思います。
その人は海野螢先生です。
主にエロマンガジャンルで活躍されておられます。
 
この海野螢先生、3つほど他のマンガ家と一線を画す特徴があります。
一つはほぼ100%、ショートカットで貧乳の女の子がヒロインだということです。これは他称ではなく、自称です。公式サイトにも「ショートカット貧乳作家」と書かれています。すげえ!
そのショートカットにはバリエーションもあり、肌も褐色だったり真っ白だったりしますが、短髪貧乳ポイントだけは決してゆずられることはありません。そのこだわりだけでもあふれんばかりの愛を感じますよね。

「少女の異常な愛情」の「ナルシスの変貌」より。
褐色で健康的な肢体の少女がとても多いです。そして重要なのは「ロリータ」だから胸がないのでなく、「乳が大きくないから貧しい乳」なんですよ。そこをしっかり理解して描かれているので、陰毛が生えてしっかり貧乳してます。このへんでドキッとした人はまちがいなくキャラクターのツボは外れないと思います。
海野先生はそれをうまく配合する天才なので、それをオカズに求める人のためにも、それ専用な料理を用意してくれます。やったね。しかし大半はそうではなく、エロティシズムと、そのショートカット貧乳少女と、SF世界感を用いて「海野ワールド」を形成する一環になっています。そこが、すごいんですよ。
 

海野螢がSF視線で見る、この醜くもなだらかな世界●

そんなわけで二つ目は作品のはしばしに独自のSF感が流し込まれているということ。言葉の使い方物そうなのですが、登場人物の思考展開がSF的だったり、また設定全体を流れる思想がSFだったりします。SFがどこからどこまでをさすかというのは難しすぎる問題なので、簡単に「科学的で、フィクション」程度としておきましょう。

「少女の異常な愛情」の「UFOを見た日」より。
UFOがあるかないか、という論議は昔から続いていますが、「UFOがあると思う心が興味深い」というのも科学の見方の一つ。大槻ケンヂも言っていましたが「UFOが見えた」脳の仕組みが非常に興味深い。そしてそれは、時として恋愛やSEXの感情と同じように、説明できるものではないのです。
…という考え方、非常に面白いですよね。脳がその瞬間何を考えているのだろう?というのは海野作品のテーマになっていきます。時には片目が見えなくなって、その感覚の不安定さに恐怖し、体を寄せる相手を求めます。
また、昨日あったはずのお祭りは実はそこにはなかったり、町の真ん中にいるはずなのに、自分の姿が誰にも見えなくなったりもします。
であった少女は幻影のように消え、ロボットは人間に擬似恋愛をします。
そのとき、脳は何を考えているのでしょう?
このテーマは「恋愛」と「SEX」抜きに語ることができません。そのときにたかぶる感情が、もしかしたら「ないものを感知させているのかもしれない」のです。もしかしたら相手は存在しないかもしれません。もしかしたら自分の存在すら本物かわかりません。

「少女の異常な愛情」の「ナルシスの変貌」より。
デッサンをする側とされる側の間に生まれたのは、とても複雑で理解を脳が許容しきれないほどの感覚。それが性欲なのか、妄想なのかも明かされないまま終わります。
 
世界と、人間の脳と、高ぶる感情と、機械たちは行方のしれない場所へただ進んでいきます。それはこの世界が脳の見ている夢なのか、脳が世界に夢見られているのか。それすらもわからなくなるのです。
エロマンガではないめもり星人でもこのへんのことが扱われています。

「瞳をとじよ。さすればお前は見えるだろう」―サムエル・バトラー
 
眼に見えている物は、すべて存在しているのですか?眼に見えていないものはすべて存在していないのでしょうか。
UFOや幽霊だけではないです。自分の存在はどうですか?この世界はどうなのですか?脳が見ている夢なのではないでしょうか。脳が知覚していないところになにかあるのではないでしょうか。
一連のエロマンガにもこの点が非常に、エロを一つの人間の思考過程として含めながら色濃く出ているので、とてもじっくりと読むことができます。また、「めもり星人」ではエロ抜きで、人間の存在や世界の存在と脳の作るイメージの対比が繊細に行われているので、こちらも必見です。
 

●もしかしたら、世界はもう終わっているのかもしれません●

三つ目は廃墟や死人など、失われたものへの郷愁であふれていること。それが現実にはどうなっているのか、というのは先ほども書いたように「脳がそう感じているだけかもしれない」のです。

「思春期の終わり」より「パーフォレーション」。もっとも自分が好きなマンガの一つです。
閉館する映画館で、一人の青年が郷愁に満ちた映画を見ていて、感極まります。そのときの感情は、SEXするときの感情の高ぶりとなにか違いはあるのでしょうか?

ふと外に出ると、映画館は廃墟になっていました。
あの時見ていた映画は妄想だったのでしょうか。映画館での性行為は心の高ぶりにすぎなかったのでしょうか。今見ている廃墟は本当に廃墟なのでしょうか?
それらも、闇に葬られたまま物語は終わります。
答えは、ないんでしょうね。海野先生は失われたものに対し「あなたの感じることが、事実である」という見方で淡々とマンガを描くのです。これが最大の魅力です。
 

そんな世界では、死もあいまいです。いや、しっかりと死はありますが、あまりにもあっけなくすぎていくという事実だけが残るのです。だから、幽霊もたくさん訪れます。いや、幽霊ではないですね。確かなくなったはずのものの何かを自分の脳は見ている、というべきでしょうか。そのときの心の乱れる興奮をあらわすとしたら、やはりSEXでしょうね。そのようなわけで、海野先生のエロ作品の一部は、精神の動きを表現するためにエロシーンが必要不可欠になってきます。
 

●失われた少女への憧憬●

1でも書きましたが、海野先生はショートカットで貧乳の少女しか描きません。それは崇敬の念すらおこさせる、幻のような少女たちです。

「思春期の終わり」の「海月の骨無し」より。
どこの誰かしらない少女。突然夏の海に幻のように一人現れます。流されるがままに青年は少女と性行為に及ぶのですが、そのあと少女は言いました。
「くらげはどうしてひとをさすかしってる?じぶんがいたってしるしをこのよにのこしたいんだよ。とけちゃったあともね。」
 
ショートカットの美しい少女たちは性行為を繰り返し、幻のように消えていきます。
それは少年の見ている幻なのかもしれません。脳のきまぐれかもしれません。
しかし、そこにいた「しるし」をとして、性行為を行い、記憶に残していくのです。
時には「箱庭少女」のように、幻影として作り出されたプログラムの中にユートピアを見つけ、その人の思考はその中に移動してしまうこともあります。脳が考えることで存在するならば、求めて行った先が二次元であろうと、そちらに行ってしまいのでしょう。
 
そのような意味もこめて、この作品は「少女がいると思えばいる」「いないと思えばいない」のです。
ノスタルジックな感覚の中で見ている少女の姿は、本当は幻影なのかもしれませんよ。
ただ、共通してあるのは、そこに存在していた「少女性」に、心を深く動かされたという「しるし」なのです。
 

●エロとして楽しもう。SFとして楽しもう●

脳が感じている世界、というテーマは非常に大好きです。その存在はいったいなんなのだろう?と考えることは視点を切り替えるのにもとてもいいです。
そんな非日常を、かわいらしいショートカット貧乳少女で表現しきっている海野先生は本当にすばらしい。エロだけど、じゃなく「エロだからいい」と心から言えるマンガ家さんなのです。
はて、ここまで書くと「おかずにならないっス!」とおっしゃられる紳士諸君もいるかもしれないので念のために書いておくと、何も考えず読める作品もそこそこあるので問題ありません。ただ、ハッピーエンドよりは「あなたはどう感じますか、それが答えですよ」というオチが多いので、ネタとして読みたい人でそういうの苦手な人はちょっとすすめずらいです。
エロマンガは苦手だけど、じっくり考えられるマンガを読みたい。そんな人には猛烈にオススメします。
とりあえずめもり星人は非エロなのでおすすめしたいのですが、できればSEXのときの思考の動きが一つのポイントなので、ちょいエロありで18禁指定のない「空想少女綺譚」の方から入ることをオススメしたいです。エロ平気な人は、「思春期の終わり」を。エロいのを多めに見たい人は「少女の異常な愛情」。そして最近でたアンドロイド物「時計じかけのシズク」もゼヒ。海野先生が大好きで余裕があったら、プリキュアのなぎほの同人誌がとてもよいので、オススメです。
 
めもり星人 (ミッシィコミックス)空想少女綺譚 (ミッシィコミックス)

 
関連・海野屋(公式)