たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

「ヴァンデミエールの翼」に見る、魂の入れ物と自由への羽。

「ぼくらの」めちゃめちゃ面白いですねえ。
アニメは「アンインストール」の曲の素晴らしさと鬱にしかなりえないような暗い展開で人気の様子。もちろん、マンガの方が残虐っぷりは濃いのですが、ちょっとシナリオも変わっていてどちらも面白いんでしょうネ。いい!

曲聴くだけで泣いてしまいそうなのは自分だけでしょうか。
 
さて、「ぼくらの」の容赦ないまでのえぐさは今話題になっているところですが、それ以前の鬼頭莫宏先生のなるたる」「ヴァンデミエールの翼」共に、読んだあとしばらく動けなくなりそうなほどの強烈な印象を受けた人は多いのではないでしょうか。
いずれも、絶望に打ちひしがれるような世界と、それでも見える不思議な希望の光に似た物を描いた傑作、あるいは怪作。今回は、自分の読書傾向を大きく左右した作品「ヴァンデミエールの翼」について、鬼頭先生の「魂の入れ物」という考え方と合わせてちょっと書いてみたいと思います。
 

●自立胴人形、ヴァンデミエール

この作品、オムニバスなのですがちょっと変わっていて、それぞれまったく別の話が進行しながら、色々絡み合って一つの大きな樹木のようになっています。

物語の中心になっているのは、自分自ら動く人形の少女、ヴァンデミエールです。このヴァンデミエールという言葉は、フランス革命期の9〜10月くらいのことをさす時期を表しており、「葡萄月」などと訳されることもあります。フランス革命期では「ヴァンデミエールの反乱」というのが記録に残されています。他に出てくる登場人物(テルミドールブリュメールなど)も全部そのへんのから取られているようですネ。
さて、面白いことにこのヴァンデミエール、一体の人形として描かれていません。4体?くらいあります。それぞれ、かなり個性豊かなヴァンデミエールたちです。
しかし、いずれにも共通しているのは、「自由が与えられていない」こと。
 

ヴァンデミエールの右手●

第一話「ヴァンデミエールの右手」ではサーカスの見世物として彼女は連れまわされ、そして指を食いちぎられます。

そこで、少年レイと出会い、絶望していた彼女が「自由」というものに触れてもいいんだ、ということに気づいてしまうわけです。
もうね、この流れが非常に繊細な上に、見ていて不安定にさせられてしかたないんですよ。
自由は限りなく希望の光に満ちた空間なわけじゃないですか。幼少期に「大人になったら自由になるんだ」と思ったときの、あのときめきを知ってしまったときの希望感。そして、同時に「与えられる責任という緊縛」「自由になることの対価」。あるいは、思い描いていた自由を得られない絶望。
もちろんすべての人がそれを感じているわけではないですが、小さなことから大きなことまで経験はあるはずだと思います。それは「空を飛べると信じていた」という思いかもしれません。「好きな子とずっといられる」ということかもしれません。

「自由」に触れた対価として、ヴァンデミエールは右手を失います。レイはヴァンデミエールの右手をもらうことでなんとか生き延びるものの、食いちぎられた指はそのままで、決して消えない「罰」としての刻印を受けることになります。
 
このシーン、すごい色々な解釈できるんですよね。
たとえば、右手を失うということがそのまま「利き腕を失う」ということかもしれません。また、生き方の選択肢を一つ削られた、と解釈することもできます。もうちょっと深読みして、後半で「自慰さえも禁じられた体なんです」というセリフと絡んで、去勢されて性を奪われた、とも読めます。
色々な読み方をすればするほど面白いんですよね。
個人的には、この後の話とも絡んで性的なイメージが非常に強いです。

レイ少年は、性的なにおいがただよう酒場に入れてもらえないんですよ。この酒場で、男達がヴァンデミエールの裸体(?)を楽しんでいるわけです。
自由というのが性的な解放かどうかは明言できませんが、その要素は意図的に盛り込まれている気がします。
 
そもそも、性なんて人形のヴァンデミエールにはないわけじゃないですか。だけど話が進み、さまざまな「ヴァンデミエール」が登場するにつれ、徐々に人形としての彼女は、自立していくんですよ。多くの代償と共に。
 

●さまざまなヴァンデミエール達の、自立への歩み●


第二話「ヴァンデミエールの白翼」では、別のヴァンデミエールが自ら自由を得るために、塔から飛び降ります。
1話のが自分の意思で動くことができなかったのに対し、こちらのヴァンデミエールは自分の意思で動いて、そして逃げられない呪縛を背負いながら墜落するんですよ。
まだ、自由を彼女自身が得ることは、できません。

第三話「テルミドールの時間」では、第一話で破壊され右腕を失った方のヴァンデミエールが再び現れます。
彼女のセリフが面白いんですよ。
「人間のまがい物、天使のまがい物、機械のまがい物」
機械ですらないんですネ。確かにヴァンデミエール達は得体のしれない力で動いています。あくまでまがいものなので、誰かが見ても理解できるような存在になることすらできません。少年たちには、「これ」が何なのかは、分かりえないのです。
彼女は自分の身を自分の意思で売ります。おもちゃ?雑貨?あくまでも「物体」。それでも、一歩自分として動き始めたのです。

第4話「フリュクティドールの火葬」で、黒髪で快活な、まったく別物のヴァンデミエールが登場します。
この話は比較的説明が多いのでわかりやすいです。この話に出てくる青年は、小さな小屋で乳母の言いつけの呪縛に縛られています。それをヴァンデミエールと共に打ち破り、「新たに出産される」ことに成功します。
今までの「逃げ場のない自由」から、自ら動こうとする自由へと変化していきます。

第5話「ブリュメールの悪戯」では、元気な少女ブリュメールと、おとなしい少女ヴァンデミエール(人形の形をしていないが羽の跡がある)が登場します。そして、ヴァンデミエールブリュメールを石で殴りつけ、その「魂」を持っていってしまいます。ブリュメールはというと、父親の心の裏の部分を汲み取ってしまったかのように、人形のようになってしまいます。
ブリュメール父親の中にどんな意識があったのかは、読者に任せられるところです。ただ、ヴァンデミエールはここで「魂の器」として機能しはじめます。

第6話「ヴァンデミエールの黒翼」では、第2話のように墜落を自ら選択するものの、ヴァンデミエールの意識には大きな違いが見られます。それは、少年と共に歩むことを彼女自らが選択したということ。もう自立ははじまり、「性の獲得」への一歩を踏み出し始めています。
それにしても、このカットのバランス、芸術的すぎますよね。

第7話「ヴァンデミエールの火葬」では、第4話の黒髪ヴァンデミエールが拾った子供を連れて育てています。彼女は「感じる部位を削られた体、自慰すらも禁じられた体なんです」といい、性を捨て去ります。そのかわり、自らを火葬することで「母」になります。

そして最終話「ヴァンデミエールの滑走」。登場するのは、第一話の右手を失ったヴァンデミエール。第一話で登場した少年レイは、老衰で死亡します。そのレイから、自分の右手を取り戻し、ヴァンデミエールは彼の死体とまぐわいます。
そして、「自由のまがいもの」である羽を捨て、本当の自由と性を受けて彼女は旅立って行きます。
 
駆け足で流れを書きましたが、もう情報量が半端じゃなく多いので、一回読んでもなかなかわかりずらいです。そして、10人いたら10通りの読み方が許されるような描写と、含みを持たせたまま話は終わります。
しかし、すべての話が錯綜しながら、一つのテーマに向かってまさに「滑走」していく様は圧巻。鬼頭先生の天才っぷりを、読み返すほどにまざまざと見せ付けられるのですヨ。
 

●鬼頭先生のサディスティック?やさしい視点?●


最終話より。第一話と対を成しているシーンです。
ブリュメールの魂を持ち去りながら、最終的にはレイの上で自立した魂を持ち、ヴァンデミエールは本当の意味での自由を持った人形になります。
「人間のまがい物、天使のまがい物、機械のまがい物」
確かに最後まで、「物」でした。人間ではありません。
でも、人間だって物なんじゃないか?
 
このテーマは鬼頭先生の作品すべてに通じるテーマな気がします。
鬼頭先生の描く作品の少年少女は、無惨な目にあう場合が非常に多いんですよね。ヴァンデミエールでもかなり残虐な目にあうシーンありますし、「なるたる」では黙々と殺されたり解体されたりします。「ぼくらの」では(以下ネタバレは致命的なので略)。
それに対して「少年少女へのサディズム」と取る人も多いと思います。淡々と暴力を振るわれ続ける少年少女は、痛々しさもありながらどこかからりと晴れています。でもあまりにも凄惨すぎて、最後まで読めない!という声も多いですネ。実際最後まで読むと、「なるたる」なんかはかなりしんどいです。
しかし、決してぐちゃぐちゃとした、内臓をつかむような凄惨さの感覚ではないんですよね。いや、実際人を刻んだりしてるわけですが、どうにもカサカサと乾いた木を刻むような感覚なんですよね。
実際、ヴァンデミエールは木でできた乾いた人形です。彼女は砕かれ、切られ、焼かれます。
それと、実は鬼頭先生の描く人間は等価値なのではないかな?と思いました。
 

●魂の入れ物としての物質●

鬼頭先生のキャラクターは非常に脚が細く、肉をあまり感じさせません。頬がこけるほどげっそりしたキャラクターも多いです。まるで、人形のようにすら見えてくることがあるんですよね。
しかし、人形と明らかに違って、キャラクター達の表情には恐ろしいほど個性と思惑が詰められています。
「ぼくらの」の中では、SF的解釈を交えながら「物体の存在は、情報の入れ替えにすぎない」と書いています。だから、人間も物体として、情報さえ移せば複製が可能だ、という話。しかしそこには「魂が乗らないから不可能」だと語ります。
人間も、人形も、物体なんでしょうね。ただ、そこに「魂」が宿っているか、自立しているかどうかが大きなカギになるのだと思いました。
といっても、魂はフワフワと浮かぶ霊体ではありません。押井守の言う「ゴースト」よりも、さらに自我や意識に近い感覚な気がします。
 
そういう意味で、非常に冷淡に人は死んでいくマンガが多いですが、同時にものすごくあたたかいんですよね、鬼頭先生の作品って。死があるから、「生ってなんだろう」という問いかけの輪郭が浮かぶ気がします。
ヴァンデミエールの翼」では人形として、その「魂の器」が描かれます。
そこには「悲しみ」の重みの比重が大きいのですが、確かに前に進もうとする意思、魂が宿っています。
もしかしたら、自分達も、ヴァンデミエールと共に育ち、死に、火葬し、新しく生まれた過程を経て、今の大人になっているのかもしれませんネ。
 
ヴァンデミエールの翼(1) (アフタヌーンKC) ヴァンデミエールの翼(2) <完> (アフタヌーンKC)
絶版なのでプレミア価格になっているようです。が、ときどきブックオフとかに転がっているので、見つける機会があったらぜひ。
 
〜関連リンク〜
パズルピースは紛失中
鬼頭先生のサイト。
鬼頭莫宏ファンサイト「滑走キ」
ヴァンデミエールの肉欲で、フロイト心理学と合わせた考察がされています。非常に面白いので、ぜひ!なるたる・ぼくらの感想も充実しています。
ヴァンデミエールの翼についての考察
漫画雑想記二 「ヴァンデミエールの翼」(1,2)
ヴァンデミエールの翼(ロリータ治療塔)
鬼頭莫宏 ヴァンデミエールの翼(植民地)