たまごまごごはん

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タカハシマコ「タイガーリリー」の、終わらない少女感覚

●百合感覚。●

その感情は百合 - 乙女ケーキ(真・業魔殿書庫)
百合という感情について、タカハシマコ先生が「乙女ケーキ」の中で書いていた言葉から考察しています。この話、百合に長けたLITさんだけあって、非常に面白いです。
何に対してもそうなのですが、ジャンルやカテゴリ分けは、時としてこだわりすぎて視野が狭まると、他の人がよいとしているものをも否定していく凶器になります。逆にうまく使えば、好きな作品の別の側面を見ることの出来るツールになります。なんか果物ナイフみたいですね。
ツンデレ」なんかもそうですが、行き詰ってしまうと本当に煮詰まり、何をしていたのかわからなくなることがあります。うまく「その過程を楽しむ」「結論は個々の判断」というあたりを押さえておくと一気に楽しさは増します。「百合」という言葉も同様なんでしょうね。ある程度自分定義をしておくことで、楽しさに磨きをかける、というのも手だとは思いますが、感覚は大切だなあとつくづく感じました。
そう、感覚なんですよね、百合作品のキモって。
 
以前、金田一蓮十郎先生の「マーメイドライン」の話を書きました。
「マーメイドライン〜あゆみとあいか〜」に見る、百合の形。
個人的にはこれものすごく百合の最たる部分を描いていたと思います。なんせ性別は男だけど心は女で女の子が好き、という挑戦的な作品でしたしネ。
でも、これこそ感覚として描かれる「百合」の面白さだと自分は思うのですよ。
 

●「少女性」の感覚●

以前から何度も書いているのですが、百合的作品群から見て「男性」「女性」と「少女性」は別物だと思っています。百合作品=少女オンリーというわけでは決してないのですが、イキイキとした少女の姿、という偶像に向かって憧れる心は男女とも持ち合わせています。作品の中でキャラクターと読者の心はその瞬間、「少女性」という生の中を飛び回っていきます。その少女性の中での情の交わしあいが、百合作品の楽しさの一つですよね。
先ほども挙げられていたタカハシマコ先生の「乙女ケーキ」はそのへんを存分に生かした作品が詰まっている宝石箱になっています。
その中で一編、コミック百合姫vol.2で見てからずっと心に強烈に残っていた作品が「タイガーリリー」

ぱっと見、普通に百合マンガにありそうなシチュエーションですが、何がすごいってこれ両方老婆だと言うこと。
マンガの最初からそれはすぐに明らかにされます。そしてこの少女の姿のまま、二人の関係は描かれていくのです。
心の状態や視点をマンガの中でそのまま描く、というのは他の作品でも見られる手法ですが、この作品ではとにかくこの二人の関係が独特で、ツンケンしつつもいかに情が通っていたのかを感じさせる不思議な描写として機能しています。そう、たとえ床に伏している老婆であろうと、ある人を思う瞬間は少女の心のままなのです。
 

高野文子「田辺のつる」●

このへんを味わうために是非読んでほしい作品が、高野文子先生の「田辺のつる」という作品。「絶対安全剃刀」という短編集に収録されています。
この作品も主人公は老婆なのですが、最初から最後まで幼女の姿で描かれます。

孫もいるこの老婆は、他のキャラとは異質なデフォルメをされています。
この描写が何をさしているのか、が読者側に託された問題。
ある人は老化によるボケを表現しているととるかもしれません。実際、ボケに近い行動をとる描写も多いです。
またある人は、老人の中に眠っている極めて純粋な部分だけを取り出して、幼児として描写しているととるかもしれません。何の裏もない、ストレートな感情表現と欲求を元に動くんですよね、彼女。
どちらが正解というものではないですが、こういう主観から見た姿をそのまま絵として差し込んでくる描き方は、非常に見ているこちら側を悩ませたり、直球でキャラの感情を叩き込んできたりします。
 
最近でこのへん面白いなあと思ったのは「スクール・ランブル」。播磨アイや八雲アイによるほかのキャラ(天満や沢近たち)の描写の仕方が自然で、読者にその独特な描写を通じてキャラクターたちの心理を感じさせる秀逸な作品だと思います。
あと、これは個人的に感じているだけですが、「まなびストレート!」や「らき☆すた」のキャラが年相応じゃないのも、そのへんの「幼さ」や「いつまでも続きそうな楽しい日々」の表現なんじゃないかな、と思ったりします。
 

●いつまでも少女の瞬間は終わらない●

こういう特別な描き方は、少年にももちろん使われると思いますが、特に「少女」に多いと思います。少女マンガでの「少女少女」しているキャラクター達も、もしかしたらそのへんの意識が少なからず含まれているかもしれません。
 
さて、「タイガーリリー」の話の中身ですが、…なんとしても読んでほしい作品なので、ここでは深くは語りません。だって、これで自分も百合観変わったんだもんよう。もうめちゃめちゃ読んでほしくて布教用に買おうかと思っているくらいんだよう。そのくらいすき。
面白いのは、これに出てくる二人の少女姿の老婆は、普通に結婚してるんですよね。そして子供います。多分孫もいます。決して、永遠を誓い合った二人とかそういうのではないです。依存しあっている関係でもなければ、恋慕の情を寄せ合い続けて年をとって…というわけでもない。適当な言葉でまとめてしまえば「仲良し」です。
しかし、この二人の関係を言葉でまとめてしまうのは野暮というもの。恋愛ではないけれど。ただの親友というのも言葉足らずだけれども。不思議な距離感と信頼感が包含された特別な二人なんです。
 
それを描くには、その心が生まれた瞬間でなくてはいけません。もちろん心は成長し変化するものだとしても、その時その瞬間に生まれた感情は、決して色あせずに宝石のように大切に心の中にしまっておくじゃないですか。だから、感じた瞬間のままの姿じゃないとだめなんですよ。
この老婆は、実際の姿格好年齢こそ老婆なものの、もう一人の女性に対して感じている感情は、女学生の若き頃の姿のままなのです。
 
「少女性」の持ち合わせているものだけが特別というわけではないですが、「少女性」でしか感じることの出来ない特別な感情はあるでしょう。男性はそれを感じることはできませんし、大人になった女性も懐かしみながら思い出すことしかできません。しかしどちらも、その少女達が笑い情を交し合う姿を通じて、擬似的に少女になることが出来ると思います。「タイガーリリー」という作品は、そんな純粋すぎて壊れそうな、あるいは壊れてしまった少女の姿を永遠に映し出す、古いフィルムなのかもしれません。上映された瞬間、読者もキャラもみんな少女になって情を交し合うのです。
自分にとっては、その感情が「百合」です。その感情が起きれば「百合的作品」です。
 
絶対安全剃刀―高野文子作品集  新装版 女の子は特別教
 
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少女の記号って、ものすごく特別。タカハシマコ先生の作品はどの作品もそれが大事にあっためられているから好き。「女の子は特別教」に入信します。
百合「的」作品をちょっと分類してみた。
「マーメイドライン〜あゆみとあいか〜」に見る、百合の形。