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引きこもりが使える特別な力?榎本ナリコの描く「力」の世界

今月のサンデーGXに、榎本ナリコ先生の読みきり短編「高卒エスパーHIKARI」が載っていました。
でかでかと「人類の存亡をかけたサイキック・バトル----そして切なく悲しいセックス…」と書かれているものだから、どんな作品になるのやら、「センチメントの季節」の再来!?とか思ったのですが、全然そんな話ではありませんでした。まあ、「高卒エスパー」っていう題名の時点で気づけって話ですよね。セックスしてないじゃん!
それどころかものすごい勢いで突き抜けたハイテンションコメディ。重いテーマはちょっとなあ、という人でも楽しめる内容になっています。それでいて中身はばっちり濃厚。さすがという感じの切れ味です。
 

●引きこもりエスパー協会へようこそ!●


もうばっちり最初から引きこもりモード全開ではじまります。1コマ見ただけでダメさが伝わるっていうのもすさまじいですよね。やっぱり布団+パソコン+フィギュアのコンビネーションがエッセンスなのでしょうか。まあフィギュアはともかくとして、PCが引きこもりアイテムであることは間違いないです。うん。自分もインドアな日はケータイとPCないと死んでしまいます。新・インターネット症候群という言葉は最近聞きませんが、まさに当てはまる予感。
おっかないことに、部屋で一日中PCの前に座っていると、妙な気分になってくるんですよね。疲れのせいもあるのかもしれませんが、価値観が普段ではありえない方向にトんでいきます。次の日に目覚めてから見てみたら、赤面ものの文章書いちゃったりとか。こわいこわい!自意識過剰になったりあらぬ妄想を信じたり。軽いトリップ状態。やっぱりパソコンは2時間おきくらいに一回休憩しないとあかんです、自分は。
まあ、そんなわけで主人公の光もマイワールド+インターネットにこもりっぱなしなわけですが、そこにお約束の美少女が飛び込んでくるわけです。とは言っても榎本ナリコワールドです、そうそうラブロマンスになりそうな空気はありません。

この子の言動もよくよくおかしくて、どこからどこまでが現実なのかわからないトリップ感にあふれています。なんせ1コマ目がアレなので、最初から彼の陰鬱とした脳内ワールドなんじゃないかと疑ってしまうほど。もちろんそういう見方で最後まで読んでも楽しめるのですが。
ところで、ここで「出会えた仲間」というところに注目したいところ。
何かをしてくれる人が来た、ではないし、何かをしてもらうために来た、というわけでもありません。あくまでも「仲間」なのです、この子にとって。
ここを読んでいて思いだしたのが、以前連載していた「力の在り処」という作品です。
 

●心に傷を負った者たちの、力●

この「力の在り処」という作品、出てくる主人公たち全員が心に傷を負っている、という設定が面白い。ある青年は引きこもり、ある少年は緘黙(かんもく)、ある少女はリスカ、その父はDV。出てくる人間みんな心に闇を抱えた陰鬱な状態からスタートします。だから漂う空気は重いのなんの。
しかし彼ら、ある一点に希望を見つけて明るく過ごせるようになるんですよ。
それは、なぜだかわからないけれど、同じように心に闇を抱えた人とともにいると、得たいのしれない「力」を発揮できるということ。

先ほどの光と同様、やってくるのは「仲間」を求める人たちです。
ここで興味深いのが、一人だと何も出来ないということ。3人以上集まらないといけないのです。
集まればどんどん力がみなぎってくる。心が開かれていく。
とはいっても全員一人ではどうにもならない傷を負っているので、集まったときに癒しの空間のようなものが形成されたとしても、それはいびつな箱にしかならないわけですよ。

実際、この力がどのようなものか、なぜあるのかについては読んでいけばわかります。しかし問題なのは彼らが背負った社会的弱者としての苦悩の葛藤の形と、それがどこに逃げ込もうとしていくのかです。
無力、役に立たない。
それらの言葉は時として非常に心をズタズタにしていき、怒りや恨みをも産みますが、同時に「自分はだめなんだ」という自虐を促すものへと変化していきます。その傷を癒すためにはどこに行けばいいのだろう?そこで「集まることによって発動する力」を手に入れたら、ぼくらはどうするんだろう?
この作品はちょっと特殊で、榎本ナリコ先生がおおまかなストーリーのエンディングを考えてから描いたのではなく、キャラクターが動いていくのに合わせて話をつむいでいった、という形式です。だからキャラクターの悩みそのものがあらわになるにつれて、モロに話がブレていきます。3人集まらなければいけないというシチュエーションで、一人がいなくなればそれは動かなくなるのだから当然ではあるのですが、その部分が非常にいい感じで歯がゆさとなって描かれています。
 

●人といること。●

一人きりでいると、妄想したものはすべてリアルです。
というのは、世界に一人しかいなかったら、その人が決めたことがすべて基準として成立するからです。
実はこの地球はオレが動かしている!といえば、それでいいわけです。今時間は止まっている!といえば、そういうことでもかまわないわけです。文句を言う人がいないわけですから。

そういう意味では、たった二人しか登場人物のいない「高卒エスパーHIKARI」の世界の基準はまったく曖昧であると言えます。ようは光がどう感じているかが全てなんです。かなりむちゃくちゃな出来事が連続しておきますが、そもそも二人しか出てこない世界でそれが本当なのかどうかすら怪しいです。
とりあえず全てが事実だったとしても。光はその世界で劇的な何かに出会うわけでもありません。引きこもりから脱出させられるわけですらないのです。
一応彼にも特殊な力と思われるモノはあります。
が、それは…それは…。力?
 
「力の在り処」で描かれていた力がなんだったのかはここでは書きません。しかし「集まらないと使えない」と言うのは大きなポイントで、ようは客観的に第三者が見て認識できるかどうかです。人が見て「君には力があるよ」と認めたときにはじめて「ああ、オレには力があるんだ」と応答できるわけです。
しかし、それが本当に力なのか?と言われるとなんとも微妙。本物の力は、一人でも発揮できるものじゃないだろうか、一人でも自分で理解できるものじゃないだろうか。だけど独りよがりにならないためにはどうすればいいのだろうか??
「力」という言葉の意味は、自分にもよくわかりません。筋力、財力、魅力、学力、体力と、色々な「力」があるわけですが、それが数値に出来るものあれば、できないものもあります。魅力なんて測れるものじゃないです。んじゃ基準はどこなんでしょう。
「高卒エスパーHIKARI」はドタバタコメディーですが、今後もし連載されることがあるとしたら、榎本ナリコ流の自意識と力の意味を切り込む角度の提示になるのではないかと思いました。今回の読みきりだけでも、なにげにそのへんはしっかりおさえられているので、ゲラゲラ笑いながら見るのも、じっくり他の作品と比較しながら楽しむのも面白いんじゃないかと思います。

にしても。気力と知恵のないデスノのLのような光、いろいろやればできそうなのに何もしない、っていうあたりがなんともはや。そしてそこに同じく「力があるんじゃないか」と夢想しちゃったりする自分の姿を見てみたり。ああ。
明日は、おいらの超能力が世界の誰かを救うんだゼ!…多分。
  寓話 (アクションコミックス)
個人的に、「寓話アレゴリア」が読みやすい上に深く沈めるので、オススメです。