たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

オーケンの、「踊るダメ人間」と「人として軸がぶれている」の視線の方向。

ちょっとごたごたして更新遅れたのですが、WEB拍手に興味深いのがあったのでこれだけは書きたい!と思ったので取り上げます。

>オーケンの絶望ソング。どうせダメ人間だから、オレ思い切り軸ぶれてやるよ!
という説明にえらいポジティブ性を感じてしまって、思わずレスしてしまいました。
そこには社会に対して、認められるという淡い期待があるような気がしまうが、最近のネガティブというのはそんなレベルなのかなあと思ってしまいました。
オーケンはほとんど聞かずに、今回初めて聞いたのですが、そういう印象を払拭できず。どうなのでしょうか。
ネットという世界(異世界なのでしょうかね、ここは)こんなことをきいていいのかもわかりませんが、お答えいただければ。

自分はナゴム時代からの筋少ファンだったので、オーケンの表現方法が変わったときは、同じように驚いたりショック受けたり感動したものです。
まず、筋肉少女帯時代の歌詞ですが、初期から中期にかけてはかなりネガティブといっていいものだと思います。たとえば「断罪!断罪!また断罪!」に収録されているこの名曲。

ナチュラルに「ダメ人間」という言葉が使われているのは、この曲の影響がでかいと思います。
ダメ人間がいるこの世の中なんていらねえぜ!滅ぼすぜ!という鬱々とした気持ちを抱えているにもかかわらず、実は全部滅ぼしたら一番ダメ人間なお前が残るんじゃないのか?という空虚さにさいなまれる曲です。また「蜘蛛の糸」「ノゾミ・カナエ・タマエ」では世界のすべてを憎んで破壊しようとしつつ、自分も破滅していく様が絶望的に描かれています。光はほとんどなく、この世界への恨み・憎しみが実は自分の情けなさ、ダメさへと引き継がれていき、そのマイナス思考には鬼気迫るものがあります。多分聞いた中でもっとも鬱要素が強いのは、アルバムレティクル座妄想」ではないかと思われます。1曲目レティクル座行超特急」から、最後の「飼い犬が手を噛むので」まで、人間の価値なんてない、ダメなやつはダメなんだという陰鬱さを自虐的に歌っています。そういう点が逆にオススメのアルバムですが、鬱な気分の時にはおすすめできません。
 
オーケンが人生のネガティブ思考について考え始めたのは、その前のアルバムエリーゼのためにからだと思います。というのも、この時期ちょうどオーケンの周りに自殺未遂をした少女があらわれ、なんとかして救おうと必死になり、「生きてあげようかな」という半分ネガティブ・半分ポジティブな曲を作ったからです。結果としてそれは彼女の心にはあまり響かなかったようで、その虚無感もまた妙に心にひっかかるものになります。
その後、ソロ活動や「特撮」を経て、オーケンの作風も変わってきます。本人もエッセイで書き連ねているように、「人生って楽しいね」ではなく、「もうしょうがないんじゃないか」という諦めに近い部分ではないかと思います。
たとえば特撮の曲「子供じゃないんだ赤ちゃんなんだ」なんかはそれを端的にあらわしています。
「あんた子供ね」と言われたら、「ああ俺はダメ人間なんだ子供でごめんなさい」というへこみかたを今までならしていたでしょうが、それをふっきって「子供じゃないんだ!俺は、赤ちゃんだー!」と開き直ることでマイナスながらも肯定します。
それは「N・H・Kにようこそ!」のED「踊る赤ちゃん人間」にも引き継がれている気がします。もちろんポジティブソングかというと、そうではないのですが、決してネガティブで自己否定はしていないでしょう。むしろ、自己否定すらも肯定している感じがあります。
今回の「人として軸がぶれている」も、一番だけ聞いたら割と「どうせダメなんだから、もっとダメになってやるよ」という力強さを感じます。「社会に対して、認められるという淡い期待」と言うのは半分あるんじゃないかと思いますが、半分は「もう認められなくていいよ、しょうがないから」という希望に対する諦めの姿勢もあります。同時に、リアルを見つめるのが恐ろしいから、大げさに道化になる、という悲しさもあるんじゃないかな、と自分は思っています。
 
オーケンの小説も、初期は「やってもどうにもならない」という絶望的な虚無感が広がっていましたが、今は「その人なりの」ハッピーエンドを迎えることが多くなり、かなり価値観が変わっているのは感じられます。それでも時々毒のようにリアルをぶつけて、人間の力ではどうしようもない部分の問題がぶつけられたりすることもあるので、油断ができません。楽曲でも特撮の「企画物AVの女」ゴスロリちゃん綱渡りから落下す」あたりは、そんな毒であふれています。
どちらかに偏るのではなく、時には現実のどうしようもない絶望を見たり、時には開き直って全肯定してみたり、というバランスが、「人として軸がぶれている」に表れている気がします。
実際この曲も、大げさにブレまくっているのですが、実はそれが恐ろしくて身震いしているのを隠している、という裏があるんですよね。大槻ケンヂはそのへんの微妙な弱さを突いてきますが、それは彼が人生を肯定しつつも、どこかぼんやりと諦めている部分が時折顔を出してしまうのと、それを欲している聞き手の心の裏を汲み取っている感じがしてならないのです。

レティクル座妄想 エリーゼのために 
ヌイグルマー アジテーター 人として軸がぶれている
ああっ、もう、オーケン大好きだ!

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オーケンの、ネガティブ思考肯定論は、サブカルに大きな影響を与えていると思いました。