たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

そこにある壁を越えて、彼らは描く。

ちょっとトラバに反応してみます。

ジョン・アップダイクとマンガへの愛 −マンガを読んで、マンガを描いて−(ロリコンファル)
たまごまごごはんさんは、「自分でマンガを描く」というのはどうなのかな…?もしよかったら、教えて欲しいです〜。
たまごまごごはんさんが描いたマンガとかもしあったら、ぜひ読みたいな…。ちなみに私も十代の頃マンガ書いてましたが、アップダイクと同じく、挫折しました…机のなか見たけど、もう、書いたのも残ってない…。

もうたまらんほど絵とマンガは好きなので描きまくるんですが、とある一線を越えられず…というヌルオタの一人でございます。まったくもってお恥ずかしい。
それでも一応こそこそイラストを描いて、へたくそながらもどこかに貼っておきたいのでこっそりWEB拍手にはっていますが、なかなかどうして、自分で粗探しし始めるととまらないから困ります。
それでも、サイトに書かれていたように、好きで仕方なくなって、手を出してみるというのは大いにある感情で、うんうんとうなずきながら読んでいました。
 

●究極の理想像に手を伸ばしたくなる憧れ。●

自分、ものっそい人形が好きで好きで好きで好きで仕方なくて、展覧会とかそりゃもう鼻息荒くして見に行きます。天野可淡先生作品が公開された日にはちびります。神経に棲まう少女をあそこまで緻密に作り上げられて、心の臓にその姿を刻んでくれる作家がいることが驚異でした。
となると、好きだからこそ「理想の人形を作りたい!」という思いが高まります。
でもね。できないんですよ。
当たり前です。基礎基本を学ばず、時間と労力をかけずにそう簡単に作れるわけがない。もうちょっとがんばればいいのに!と思いながらも、途中で「ああ、もうできない」とカベにぶちあたり、粘土を放棄してしまったことしばしば。
 
マンガ・イラストも同じで、やはり憧れの人というのがいるわけです。自分は末弥純先生や村田蓮爾先生や草磲琢仁先生がまさにそれでした。だからそれを描きたい!と模写したり練習したりしたものです。
が、あっちも面白いこっちも興味ある、とふらふらしてしまい、最終的には「本当に練習する」ところを越えられずじまい。
まあ趣味だし、むしろそれでも形に残せることは大切なんだよなあ、と今なら思いますが、やはりそのときは「ここでもっとふんばろうとしない自分には愛がないのか!」と真剣に悩んだものです。そもそも悩んでいるくらいなら描けって言われそうですが。
 

●趣味だし、なのか、趣味だから!なのか●

マンガ・イラストを描ける人は本当に尊敬します。それらの人も、確かにある程度の才能的な部分もあるんですが、やっぱり量が違うんですよね、描いている量が。こつこつと描き続け、試行錯誤し、そしてなにより「作品を仕上げる」という行為を経て、技術を身に付けている人が多いと思います。
「仕上げる」っつうのが自分は本当に苦手で…。もちろん、未完成の独特の味もあるので一概には言えませんが、それを乗り越えて完成品を出せるというのは、何か一点を乗り越えられた人の力になっていくと心から思います。
「それこそが作品愛であり、趣味の楽しさである」ともとらえられるし、「趣味だからその遊びのノリがいい」というのも全く持ってそのとおりだと思います。が、やはりそこで自分にムチうって、一歩踏み出して「完成させる人」を心のそこから尊敬します。

(マンガを)描くことは、僕にとって神聖な行為なのだ。
下手なものを描いて汚したくはない。

この気持ち痛いほどわかるなあ。わかるけど同時に、下手なものを通過しないといけない、その最中の苦悩たるや。
 
イラストのカベ、楽器のカベ、スポーツのカベ、いずれもぶち当たるものですが、乗り越えた時の爽快感は何物にも変えられないでしょう。
どこかで、なにか一つ乗り越えたときに見える世界。今イラスト・マンガを描き続けられる人は、きっとそれを経験しているんだろうな、と。同時に、どうしても越えられないカベってのもやっぱりあるんですが、トップを目指すわけではなければ登れるだけ登るくらいの、「苦行」ではなく「愛情」が持てるようになりたいものです。あ、でも時には苦行も必要なのかな?どっちにしろ辛い瞬間はどこかで生まれそうです。あとはそれでも好きでいられるかどうか。
戦えっ!なにを?オタを。
 
とはいいつつも、読むのが楽しくて描く練習をしない日々。んー、それもまあいいのかな。とりあえず今は、感情を大きく表現できるようなノビノビさと、冷静に判断できる知識がほしいです。これも一つのカベでしょうか。