たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

現実から、この一瞬だけは夢の世界に逃げていたい。「女王様ナナカ」

「SM」って、すっごい苦手でした。
いや、経験なんてこれっぽちもないですが。
イメージとしては、AVとかのが強すぎたんだと思います。痛めつけたりつけられたりして、何がいいんだろう?痛いのイヤイヤ、好きな相手を叩くとかムリムリ。そんなわけでSM物が極端に苦手でした。
しかし、ある日とある友人*1が言うことを聞いてイメージが一転しました。
「SMは、お互いの信頼関係の上に成り立つんだよ」
ははあ、なるほど。あれは痛め付け合いなのではなく、このくらいなら預けられる、このくらいを相手に与えたい、そういうやりとりなのかと。
 
商売としてのSMの場合、他の風俗産業と明らかに違う「イメージ」の部分が別個のものとして出てくるのかもしれません。
もしかしたらそれはお互いの了解の上に成り立つ、ファンタジーのロールプレイなのかもしれません。
そう考えると、創作上のSM表現も、作者と読者の関係の上に成り立つロールプレイ、かもしれません。
 

●あんたと私のロールプレイ●



敬愛するオーケン原作、西炯子先生作画の「女王様ナナカ」は、そんなSMが生むファンタジーと現実の狭間を描いた作品です。
最初の二話は実に14年前、1993年作品。3話目が2007年作品なのでその絵柄は全く別物になっています。が、基本根っこの部分は変わっていません。
その根っこというのは、「商売的SMが非日常の空間を体感させる」ということ。


SMクラブで、プレイの際に台本を持ってきて読み合わせする中年男性、というのは実際にある話しだそうです。
「私はバレリーナの後輩で、あなたが先輩で『かわいい顔していい気になってるんじゃない!』といじめてください!」という、アブラギッシュなおじさんとかみたいな。
それを聞いてどん引きする人のほうが多いかもしれませんが、そこに一抹の哀愁と共感を持っちゃうなあ。わかるもん、自分も全く別人になる空間に行って、ロールプレイしてみたいですよ。えらそうな幼女に裸足で踏まれたいですよ。
まあ、かなわないからそれが滑稽で悲しいものになるわけです。笑うなといってもムリムリ、自分でもおかしいと思いますものね、こういうの。
しかし、SMプレイの最中はその瞬間的な陶酔を演じるのです。本気で。冗談じゃなく。笑うのは許されません。その瞬間だけはウソも本当になるのです。

実際はどうかは分からないのですが、やはりSM女王を仕事に出来る人は相当なイマジネーションを持ったプロなんでしょう。どんなに太ったオジサンが来ても、「私は幼い可憐な少女」と言われたら、それをかなえてあげられるのです。
その、瞬間だけは。
なるほど、そういう意味では痛覚はウソをつかないから、のめりこむのに最適なのかも。
 

●私は美しい少女、ナスターシャ●

このマンガ、1話と3話も面白いのですが、とにかく2話の「ナスターシャ」が格別に鬼気迫る作品になっています。
なんせ、主人公が徹底的にかわいくなく描かれているのですよ。

気が弱く、誰からも容姿のことであざけられる。
ぱっと見には冗談のようなキャラに見えるのですが、最初は笑って見ていられても、その虐げられっぷりと救われなさに、笑えなくなります。
人間容姿じゃない、とか言うけれども。容姿によるコンプレックスや相手との距離って、不可避なことも、あるんだ。

逃げたい。どこか遠くへ逃げてしまいたい。誰も助けてくれない。逃げたい。
しかし、そんな逃避行為すらも、他人から見たら笑われてしまうかもしれないという残酷すぎる環境もあることをこの作品は描きます。
現実から逃げても逃げても笑われる、蔑まれる。醜い容姿が憎い憎い憎い。
ならばどこに逃げ込むかって?
二次元でしょ。
 

彼女は絵がうまいため、絵本作家を目指していますが、中に出てくるのは美しい少女「ナスターシャ」です。
ナスターシャは秘密の隠れ家で幸せに、ひっそりと暮らす…という流れなんですが、確かにその閉じた環境はあまりにも心地よい空間です。
守ってくれる人がいて、愛する人がいて。自分の容姿とかはともかく、蔑む人がおらず、辛いものから切り立たれた閉鎖空間は、そりゃもう心地よいです。温室というか、布団の中というか。
ええ、そうですとも。マンガや小説に逃げ込むことあるともさ。ぬるま湯に浸かって二次元の世界でくらい安心させてください。ほっとしたいんです。
「ナスターシャ」はそんな切なる願いから生まれた、理想郷なのです。

しかしそのギャップが描かれるたびに、絵本の中の美しく可憐な世界が読者に与える強烈さが増します。
ああ、美しくありたい。手を伸ばして、愛するものに囲まれて、安らかに日々をすごしたい…。
空想の世界なら、いいよね、いいんだよね?
 

●美しい一晩の夢よ●

非常に残酷なギャップが突きつけられつつも、この作品は非常に優しいです。決して否定し潰しさりません。
ここまではっきりと逆境に置かれているキャラクターの話ならば、絶望させるのも、あるいは大逆転が起きて救われるのもできるでしょう。しかし、現実が急に変わるわけでも、空想が完璧に救うわけでもありません。ただそっと、添えられます。

夢を追うのは、すばらしいこと。ええ、すばらしいですとも。
しかしかなわない夢だってあるさ。今から美少女になりたくても、さすがにそれは出来はしないさ。
ならばせめて、一晩だけでも。
 
「女王様ナナカ」は、オーケンと西先生が、コンプレックスに対して冷静な視線をうながしつつも、静かに「まあそういうこともあるよ」と語りかけるような作品になっています。
そういう様々なコンプレックスって、何年たっても変わらないものです。だから逃げるか、それを逃げるなと叱るか。
SM女王の与える一晩の夢は、現実逃避なのか、生きるための一つの経路なのか。



オーケンのエッセイが好きな人なら、「あー、あのネタかあ」という部分が多く、さらに楽しめると思います。特撮ヒーローで性に目覚めるシーンなんか、まさにそのもの。
表紙・内容ともに90年代のにおいが漂っていますが、そんなものはどこ吹く風、人間の苦悩やコンプレックス、そして逃避願望は変わらないですよ。それが痛々しくもあり、愛しくもあり、なんですよ。
「ナスターシャ」に関してはオーケン直筆の原作も載っていて、楽しめます。とにかく「ナスターシャ」こそがこの作品でやりたかったことなんだと思ってなりません。
何かから逃げていることを「逃げるな!」と激励するばっかりじゃ疲れるよね、時にはガス抜きもしたいよね。
 
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ええ。生まれ変わってイケメンになりたいですよ。あるいは可憐な少女になりたいですよ。
でもまあ、なれないこともあるさね。大切なのはそこじゃない、と気づきながらも、ちょっと「まあそんなこともあるよ」と背中を押して欲しい日もあります。

*1:そういうお仕事のことを知っている人だったみたい