たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

「酷い目に遭う女の子たちの話」は、どっちの視点で見ようかな。

WEB拍手より。

ふと気がついたんですが、女の子が酷い目に遭う系の物語が好きな人って、SじゃなくてM目な人が多くないですか?女の子の方に感情移入してるんでしょうか。。。

これはまた自分の興味のツボをすごい勢いで押すような話ですわ!
色々な角度から考えると面白い話題だと思うんですが、まず「SやMとは何か」と言うのが極めて難かな?というのが最初の感覚でした。自分も大概、少女に裸足で踏まれたいのでMだと思いますが、実質どっちなのかというのはよくわかりません。相当サディスティックな気分になってノリノリで映画見ることもありますし。
そこで気になるのが「女の子が」という点と「酷い目」というポイントだと思いました。
第三者視点から見ているのか。
女の子に感情移入して見ているのか。
あるいは奪い去るものとして見ているのか?
男の子よりも明確に力関係が出やすいのと、それに対しての視線が多様になるのが、女の子が虐げられる話のミソです。
 

●女の子が酷い目に遭う話。●

酷い目、というのも幅が広いのですが、おおまかにはこんな感じでしょうか。

・身体的に暴力を受ける。
・性的に搾取される。
・心理面で言葉などでひどい痛手を被る。
・裏切られる。何かを失う。

それぞれ微妙に重なっているので簡単には分けられないですが。
 
心理面で酷い目に遭うといえば、やはり名作劇場シリーズは欠かせません。
救われるであろうことが予想できるからいいものの、小公女セーラコゼットの痛々しさは「見ていられない!」という人はかなり多いのではないかと思います。
いやあ。セーラは結構トラウマ的でしたですよ。いまでこそ「ラビニア超かわいいなあ踏まれたいなあ」とか言ってられますが、毎回かわいらしい女の子が嫌な目に遭うのを見るのはなかなか子供心にはしんどいのです。
 
身体的・性的なものはタブー感が強いので、テレビに登場することは少ないかもしれません。マンガや小説だと多いと思います。別に18禁に限らず。
そういえばかつて「天空の城ラピュタ」でシータがおさげ髪をムスカに撃たれるシーンがありましたが、あれを最初書いた時に「女の子になんてすごいことを!」という話がスタッフ内であがったとか。確かにサブカル寄りの作品で女の子が痛い目に遭うのと、シータのようなヒロインが髪を撃ち抜かれるのはちょっと違うベクトルの迫力があるなあ。
 
実際に極端に酷い目に遭う話といえば、最近で言えば「SCHOOL DAYS」や、あとちょっと前の「エルフェンリート」などでしょうか。身体的にも心理的にもボロボロです。とはいえこれらの作品、明らかに酷い目に遭うのがわかっている状態で見ると、身構え方はがらっと変わりますよね。「誠死ね」はある意味、示し合わせてみんなで楽しむネタの一つにすらなっています。
心理面だと個人的にはSerial experiments lainをおしておきたいところ。ありすとお姉ちゃんの崩れっぷりにはゾクゾクしました。怖さの意味でも、視覚的な強烈さの意味でも。
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考えてみたら「劇場版エヴァ」とか、「ラーゼフォン」の「ブルーフレンド」とか、他にも酷い目に遭う話ってたくさんあると思いますが、やはりテレビで見ていた物であげると自分の中では名作劇場の強烈さがどうしても離れません。あとナージャ
あれはきっと、自分を少女側にシンクロしていてつらくなりやすいからなんでしょう。
しかし、大人になってからそれを懐かしみながら「あれは痛かったなあ」なんて言いつつ見ている自分は、一体何を楽しんでいるんだろう?
 

●マンガが描く被虐少女は、一つの美学●


町田ひらく「幻覚小節」より。
マンガで女の子が酷い目に遭う話、といわれると真っ先に浮かぶのが町田ひらく先生でした。
町田ひらく先生の描く少女は、とことんまでどこかつかみ所のないところにいるのに、常に性的な面で男性に打ちのめされ続けます。ここまで徹頭徹尾、女の子が男に搾取されていく話を淡々と描けるというのは、鬼才としか思えない。
いや、ただ陵辱するんじゃなくて、あくまでも少女がこちらを達観した目で見続けているのがクセモノです。とことんまで少女は男性に飲み込まれ続けていくんですが、男が性におぼれるにつれて醜悪な様をさらしていくのに対して、少女側はどんどんそれを蔑むような濁った目でこちらを見るようになります。
これは一種の「悟り」かもしれません。いや、悟ったことなんてないからわからないですし、少女側はひたすら痛々しいのですが、どうにも読めば読むほど、少女が自分の手の内に入るようで、まったく何光年も離れたはるか高みに登っていくもんだから絶望します。
男性側は、出てくる男達が性におぼれる様を見て、その弱弱しさに愕然とするかもしれません。身体的に奪い去られていく少女側に心を重ねているの部分もあるのかもしれませんが、実際のところその状況に真に痛みを覚えているのは男性側。
力でねじ伏せて手に入ったのは、限りない虚無。その一連の流れと、折れてしまいそうな少女の裸の描写は、極限までその一点に突き詰めた執念や美学のようなものすら感じます。
ああ、毎回町田先生の話を書こうと思うんだけれども、好きすぎてどこから書けばいいのか本当にわからない。
自分が見る視点としては、最初の分け方だと「感情移入」かもしれません。
 
一方別ベクトルの残酷劇といえばこちら。
関連・少女たちの夢と希望は丘の向こうに…「ブラッドハーレーの馬車」
以前書いた、沙村先生が描く残虐劇「ブラッドハーレーの馬車」萌えプレさんの1月17日分に感想リンク集があるので、これから読んで見たい人、読んですっかりハマってしまった人は見てみると面白いと思います。
こちらは少女たちの被虐性もさることながら、町田先生が描く「悲惨だが悟った」という感情とちょっとベクトルが違います。むしろ虐げられていくのをさらっと描き、ちょっと悲劇性も交えながらも、見方によってはそれを楽しんでいるようにすら見えます。
虐待されることのえげつなさ、そして同時に絵としての美学が入っているように思えるのです。といっても肌に合わない人は本当にダメだと思うのでオススメしずらいです。
ブラッドハーレーの馬車 (Fx COMICS)
被虐性でいうと「CYNTHIA THE MISSION」ブリギットなどもステキな痛めつけられっぷりです。

これもまた、痛々しくも軽快。残虐の美学というのも、やはりあるのではないかと思います。あくまでもこっそりね。泣き虫サクラ的に言うところの陵辱。
CYNTHIA THE MISSION 7 (7) [REX COMICS]
こちらは見るときには、その絵柄を楽しんでいる部分も大いにあるので、最初に書いた分類で言うと「第三者」でしょうか。
 

●絶望を求めるココロ●

「陵辱物」というジャンルになるとまた話が変わってきます。というのも、実はかなり読んでいる人の心理状態にかかわって深い根が出てくる部分だと思うので、一概に言いずらいからです。
ある人は「とことんまでいじめつくされる女性にときめく」というサディスティックな「奪う側の視点」で見ているかもしれません。
しかし見るときの心理状態で一転して、その痛々しく絶望的な状況が心地よくて求めてしまう、という絶望の温泉を欲する人も確かにいます。
関連・絶望が気持ちいいんじゃない、絶望を見ないと耐えられないんだ。
いずれにしても合わない人には、見ることもおぞましい、なぜそんな鬱になるものを見るんだろう?という感覚が先立つのは当然のことだと思います。しかし一方で、光を求めて手を伸ばすかのようにそれらの酷い目に遭う少女像に、一抹の光と憧れを抱く、そんな心理状態も実際にあると思うんですよ。
自分もラブラブハッピーエンド好きなので、強烈に虐げられ続けている話は苦手でもあるんですが、それでも時々それらの物語に耐えられないほどの輝きを感じることがあります。
少女が虐げられる話、陵辱され奪いつくされていく話をつい見てしまう心理。
もしかしたらそれは町田ひらく先生が追い求め続けているように、もしかしたらどんなに手を伸ばしても手に入らない、ねじ伏せても喰らい尽くしても気づけば遠くに輝いて行ってしまう、そんな偶像のような少女への羨望のまなざしから生まれるものなのかもしれません。
結局物語の中の偶像少女は、男性には手が届かない存在、女性にはもう手に入らない存在、なんだと思うのです。
自分が少女性を持ったキャラクターに求めているものは、そんな打ちのめされつつも渇望する感覚です。