たまごまごごはん

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そういうのろりこんっていうんだよね?秋葉凪人「パンダかめんの最期」

先日も書いたのですが、コミックRIN2月号の秋葉凪人先生の作品が強烈です。
最初に結論を書きます。自分にMっけがあると思った男子は読んでおくべき。
 

●「パンダかめん」●

題名は「パンダかめんの最期」
エロマンガの題名は、その作品を魂のレベルを表現することがあると思うのですが、そういう意味でのキャッチーさも半端ではありません。一瞬で覚えますコレ。
口に出すたびに妙な幼さといけない香りが滲みでるこの音の響き。絵で見ると一発でわかるんですが、ようするにパンダ柄のパンツをかぶった男性のことなわけですよ。
まあおかしなポーズなんですが、冷静に考えてみてください。
目の前に。幼い女児の。パンツをかぶらされている男子。
無理やりじゃないです。でも望んででもないです。抵抗することすらせずに、女の子たちに目隠しされた暗闇の中、声を出すこともできずパンツをかぶっている男子。それが、「パンダかめん」です。
最初にこの題名を見るとその文字の軽快さに妙な笑みを浮かべたくなりますが、読み終えてからその言葉をもう一度口にしてみた時に、押しつぶされるような響きの重さを感じます。
少女たちに触れることも、動くこともせずに、ただいたぶられる「パンダかめん」の堕ちていく果て。
堕落なのか昇天なのか。女の子と共に落ちることも許されず、自分だけ落ちていくパンダかめん。まさに「最期」
 

●サディスティックの上り詰めた先に●

この作品、パンダかめんとなった男性は終始まったく言葉をしゃべれない状態です。手と足は縛られ、パンツを被っているため視界もまったく遮られています。完全な、拘束状態です。
その状態で、盗んだパンツの持ち主の少女たちにひたすらいたぶられるんですが、女の子側は自分の快楽を身体的な意味では手にしません。そのおにいちゃんのおにんにんでわたしもあふん!とかじゃないんですよ。ひたすらに、サディスティックに攻め立て続けるだけです。
だから女の子の裸が一切出ません。これはエロマンガとしては非常に強烈なインパクトがあります。
 
パンダかめんの青年は、彼女たちによって行われる擬似的なセックスに翻弄されていきます。このとき彼女たちが得たいのは身体の快感ではなく、攻め立てるという行為そのものです。
しかしですよ。抵抗はできるんですよ彼は。力的には反抗できるはずなんです。
ねじこまれるブルマや靴下。あくまでもそれを彼は無理やりされているという流れを保ちながらも間違いなく望んでいます。そこに生まれるのは、飲み込まれてしまいそうな倒錯感。
もちろんその流れが完成するには望むだけではダメです。それを作り上げる攻め方が、身体的にも言葉の面でも必要になります。
だから、彼女は言うんだ。望んでいた言葉を。

「そういうのろりこんっていうんだよね?」
はいすいません、ろりこんです。
 
それにしても、この表情と言葉に詰まったあらゆる性的な情報量の多さと来たら!
女の子は自分の精神的快楽と、青年を攻め立てる主導権の両方を手中におさめています。手のひらの上の悟空状態でもあるんですが、相手が求めているものを与えつつクスクスと笑う描写ももあいまって、SとMのギリギリのバランスタワーが作り上げられていきます。
彼女のこの瞳、見る人によってさまざまな受け取り方ができると思うんですよ。ある人にしてみたら蔑まれていると受け取るかもしれません。またある人は悦楽の中にいると見る人も、あるいは慈悲に満ちた視線と見る人も。
ただ言えるのは、この表情をその青年が見ることは許されない、という点です。見ることができるのは読者だけ。彼女たちが妖精のように無邪気に笑うその瞳は、同時に見ている側に強烈な「女性」の完成したサディズムを感じさせます。
もしかしたら、Sの心は慈愛と強奪と悦楽のバランスでゆらゆら揺れているのかもしれない。
 

●マゾヒスティックの行き着く果てに●

青年が最後にどうなったのか、誰にもわかりません。
抵抗できないのか求めているのか、あるいはその真ん中でふらついているのか。この状況を理解しているのか、困惑しているのか。それすらもわかりません。
読者はその青年にシンクロしてそのマゾヒスティックな快感を楽しむこともできます。これがまたね、同時にちょっと離れた位置から眺めることもできるのがまた面白いんですよ。
だって彼女たちの表情を見ながら、特殊なバランスの上に成り立った一方的に見えない状態の目隠しプレイにのぞめるなんて。これはエロマンガだからこその快楽じゃないですか。
 
身体的な攻め立てだけではなく、言葉による接触もまた全編を通して絶妙です。

この表情と言語感覚こそが、見ていただきたい最大のポイント。
「声を聞きつつ表情は見ることができない」という距離も彼は刺激されているのではないかとすら思わされます。それを擬似的にも、客観的にも味わうことができるマンガの楽しさよ。
 
SとMのやりとりは、綱渡り。
それがギリギリのバランスであるほどに双方の感覚は鋭敏に研ぎ澄まされていきます。そここそが上り詰めていく快感へとつながっていくのかもしれませんが、その綱の向こう側に何があるのかは誰にもわかりません。
それでも「ろりこんだよね?」と少女に責め立てられることに心震える限り、その綱がどんなに細くても渡っていこうとしてしまうじゃないですか…。
  
秋葉凪樹先生といえば、1990年代にエロマンガを楽しんでいた人には忘れられない名前のストーリーテラーです。同時に受身男性と与える女性の性のカタチと精神を、その神経の部分や身体のバランスとあわせて描くのも極めてうまい作家さんであります。
2006年からコミックRINで秋葉凪人ペンネームを変えて活動されていますが、いずれも一度読んだら忘れられないような強烈なものばかり。単行本も楽しみですが、10年の時を越えてリアルタイムでその作品を楽しめるだけで、エロマンガ好きとしてはゾクゾクします。
 
そんな感覚も含めてM的快楽のプールを泳がせてくれるわけなんですが、はて、ぼくら読者が泳ぎ着いた先には何があるんだろう。やはりパンダ仮面には「最期」がくるんでしょうか。
様々な意味で。

 
SMプレイと、身体の権利 −秋葉凪人「こたえて☆まいはーと」−(ロリコンファル)
以前RINに掲載されていた秋葉先生の作品の感想。こちらも必見。
EDIO-EMIT-NOTE(秋葉凪人先生のブログ)
追記(2月10日)
「名前が出た段階ではてなスターとか付けて脅して書かせたんですけども,」
この文章書いた後、作者ご本人様が見ていてびっくりしましたですよほんと。でも紳士的な人でした。脅かされてはいませんwツンデレ先生だっ。