たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

その体温に触れていたら安心だったのに。「ベイビーリーフ」

●触れた。●

「触れる」って、すごく大事な事。
初めて好きな相手の体温を感じた瞬間のリアル。
ああ、そこにいるんだ、今自分は触れているんだ!
初恋の相手の手を握ったとき、愛する人と抱き合ったとき、生まれた赤子を抱いたとき。
その感動は、味わったその瞬間にしか表現できないものかもしれません。
それを欲して、人は嘆いたり苦しんだり悲しんだり悶えたり。でもなお手を伸ばしてしまう。もしかしたら失ってしまうかもしれないのに、そんなことは考えず。
うん?性欲?
そうかもしれません。ええ、性欲だよね。
 

●触れる。●


2003年に発売された、二宮ひかる先生のベイビーリーフ
二宮先生作品を読んでおられる人なら、この人が描く男女の触れ合いの体温の表現が、いかに生々しいかはよくご存知かもしれません。
自分はあまり読んでいなかったため、この本を読んだ動機はいたって不純なものでした。
だって、「14歳の初々しいカップルがエッチする話」だと思って。いや、あってるんだけれども。

怖いもの知らずの14歳。
自分もグダグダながら生きてきましたが、13、14歳の時期の混沌さは今も忘れられません。黒歴史の宝庫です。
無謀、または逃避。前向きに走っているつもりで実は逆走したり。世界が急に見える時期でさ、妙に自分に自信を持っちゃったりして。そのへんは多くの小説やマンガでも描かれる、そんな旬な年代なわけですよ。
そして主人公の彼女は、こうしてみると明るくて前向きで人気者に見えるのですが。実のところ孤立していて、クラスで口をほとんど聞かない子だというのがいきなり心臓に悪い。
彼女は別にそれを苦にはしている様子はこの時点では見せないんです。ただこの笑顔とのギャップと、急な勢いで恋愛のような何かに転げ落ちていく様が、不穏な空気を巻き込んでいきます。
 
話が始まり、その孤独な少女と年下の少年は、一気にセックスへ転がり込みます。まるで示しあわせたかのように。

その流れに、「興奮しましたか?したんだろ?」といわれたら、ええ、しましたよ。したさ。しますよ。
だって、二宮先生の描き方があまりにもうまいんだもの!
もう触れたくて触れたくて仕方なくて、とりあえず狭い狭い視野の中で、理性よりも突き動かされる情動に押されていくそのありさま。第一話だけを切り出したら、エロマンガとしてもおなかいっぱいになれるくらいに、二人の急速な密着感がありますよって。
ここで終わっていれば。擬似恋愛に酔ったままでいられたのに。
 

●触れたい。●

性欲性欲とはいうけれども、その正体が何なのかは永遠のテーマでもあります。
そりゃ科学的には解明されつつあるのかもしれませんが、触れたくて、寄り添いたくて仕方ないこの気持ち。もうもがいてももがいても沸いて出てくるから困ってしまう。時にはそれに意味もなく責めさいなまれる経験も、ありますともさ。
その悶々さが人間が人間たる所以でもあるんですが。

恋愛を育んでからのセックスだったわけではない二人ですが、それでもお互いのバランスは悪くなかったし、ちゃんと譲り合うやさしさも持っていたし、相手を大事に思う気持ちもありました。
ましてや、14歳です。そして交友関係の幅が広くない少女です。そこに満足感を見出すのは当然ですよ。
ああ、心の満足感は体を重ねることで、生まれるんだな、なんて思っちゃうわけですよ。
実際それはひとつの感覚ではあるのですが、その欲求っていったいなんなんだろう?
そもそも、「好き」と「触れたい」という気持ちって、本当にイコールなんだろうか?

この少女が少年に触れたいかといえば、触れたいんです。少年は少女に触れたいかといえば、触れたいんです。
しかし、そこにはお互いには分かりえない感覚の差異があります。
 
前半は少女視点で進むこの話。改めて、少女にとって触れ合う人間がこの少年一人だけだったことをかみ締めつつ読み進めると、その微妙な差異が肌を逆なでするようなイヤな感触を持ってくるんです。
確かに、自分も少年も触れたいはずなんです。しかし自分の中にあるその「触れたい」という感情は、愛情なのか、不安なのか、あるいは別の得体のしれない恐怖なのでしょうか。それが少しずつ浮き彫りになっていきます。

二宮先生は、触れ合いとモノローグと、そして微妙な表情の加減でそのすれ違いを描くのが極めてうまい。
きっとこの二人は、この瞬間色々なことを考えつつも、この表情にあるように「幸せ」だと思っていたんです。間違いなく。性欲か不安か分からないけど、触れ合いたいと思っていたんです。
いたんですが、この少女の中の不安は触れ合うことで一時的には昇華されても、決して満たされ続けるものではないことが、ほんの少しずつ滲み出していきます。
なぜ、体温を感じているのに、こんなにも不安なんだろう。
 

●触れていたかった。●

後半は、少年視点で物語が進んでいきます。
前半で、この少年以外には相手にされない孤独と不安を、気丈に、少年と触れ合うことで保っていた少女の姿が、客観的に描かれることになるわけです。
これがもう、ものすごく個人的に読んでいて、かなりきつくて。読み進められなくなるかと思ったですよ。 
 
教室で一人きりの彼女は、とてもかわいくてけなげなんだけれども、ただひたすらに寂しそうで、落ち着きがなくて。それを少年は心の底から大切にしたいと、確かに思ってはいるんですが。いるのだけれども。
もう、少女が何を考え何を感じているのか、体温を感じているのにもかかわらず、ワカラナイ。
この距離感はいったいどこから生まれてしまったのだろう…そう、最初からじゃないのか?
 
その後二人がどうなったのかは、実際に読んでいただくべきところなので書きません。
しかし、彼女の瞳が描かれたこのシーンこそが、そのすれ違いを顕著に表していたとだけ記しておきます。

二宮ひかる先生にしか描けない、極めて特徴的な表情。他の作品でも時々用いられる描き方なのですが、今回は読んでいて特に息が詰まりそうになりましたよ。
そりゃなりますよ。だって、心の中で歯車がかみ合わないことで必死にもがいているのに、前に何も見えないんだもの。
このまま孤独の中で、一人の体温を感じていれば、それが恋愛になっていくんだろうか?相手が求めていてくれるならばそれで愛情は保たれ続けるのだろうか?
なあ、答え、分かっているんじゃないの?
 
性が生み出す視野は、時に非常に狭い二人きりの世界を作ります。
それが人間の得られるよい部分ではあるんですが、同時に自らを見失い、人間関係の距離感を分からなくしてしまうこともありえます。
その不安をかきけすのは、触れ合い。お互いの体温を感じて、ずっとくっついていればその瞬間は不安を忘れられます。
以前もちょっと書いた事がありますが、ナチスの収容所で死刑に送られた囚人たちは、みな間際にセックスか、神への祈りを捧げていたと言う証言があります。人に触れるか、神に触れるかすることで不安から逃れていたのです。
少年が見ていた世界はもう少しだけ欲望に近かったのかもしれないけれども、少女が肌に触れる時に見ている世界は、少しだけ孤独からの祈りのようなものだったのかもしれません。

触れていたかった。
だけど触れ続けていてどうなるのだろう?
安心?安心かもね。でもそれは臆病とイコールなのかもしれないんだ。
 

読み終えて、自分の中の「人との距離感」が分からなくなりました。
なんてことはない、「普通」であればいいんだけれども、その普通っていったいなんなんだろう?とみるみる不信がわいてきます。
あとがきでも、二宮先生は触れていない不安や、人間への距離の不信について書かれていますが、まさにそのアンバランスさが描かれた作品だと思います。
でも同時に、それをこえることで見える成長もあるんだよ、と差し出してくれているのではないかな、と自分は思うことにしました。もう一度、14歳の時の情動に身を任せて、読み直してみるときに何かみえるものがあるはずです。「エロいね!」でもいいんです。なにか、そうなにかが。
正直、不安すぎてよく分からないけれどもね。
ハネムーンサラダ 2 (ジェッツコミックス) おもいで―二宮ひかる短編集 (ヤングキングコミックス)二宮ひかるオールコレクション「楽園」 犬姫様(1) (アフタヌーン KC)
ハネムーンサラダ」はこれに対になる作品とお聞きしたので、今度読んでみようと思います。
短編集「おもいで」の表題作「おもいで」と「絶望寸前!」も、「ベイビーリーフ」の不安感と比べながら読むといっそう味わい深いと思います。