たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

猟奇・陰惨物はなくならない。〜嫌悪感生成機械としての表現〜

今日は残酷な話をするよ!
 
 

●猟奇的な作品って?●

反社会的漫画、リンクまとめ【グロ・残酷注意】(えろまんがとぴっくす)
グロ注意ですよー。
 
残虐描写、となると結構振り幅が大きいでしょう。「北斗の拳」だって十分すぎるくらい残虐です。しかしそこらへんは割と「勧善懲悪がある」「思想性がある」ので、あまり「残酷マンガ」の代表に含める人はいません。
今回書こうと思うのは、以下のものを満たす「残虐・鬼畜作品」です。

・身体的、心理的に明らかに傷をつける描写がある。
・キャラクターは物語によって救われない。
・ぱっと見て不快に感じる人が比較的多い。

有名どころとしては先ほどのエントリにあがっている「サイコ」や「シグルイ」、エログロだと氏賀Y太先生柿ノ本歌麿先生駕籠真太郎先生沙村広明先生の画集も救いがないのでこのジャンルに入れてよいでしょう。また丸尾末広先生の一部の作品も猟奇に属していると思います。演劇だと「ゴキブリコンビナート」はその表現に含まれるでしょう。絵画は色々あると思いますが、松井冬子氏や会田誠氏をふと思い出しました。音楽や小説もあげていけばきりがないほど出てくるはずです。
これらは最近出てきたものだというわけじゃあありません。むしろ昔の方が多かったでしょう。昭和初期とか、江戸時代とか、ひいてはローマ時代にさかのぼるくらい。とはいえその頃の方は、現実もごっちゃになっていたので今の感覚とは別物。今回は二次元オンリーで話していきます。
 
先に言っておくと、サブカル好きとしてそれらは自分は好きですし表現の一つだと思っているのですが、これを子供に見せますか?と問われたら答えはNOです。
まあ、大人ったら汚いわ!でもせめて自分で選択できるようになるまではちょっと、という後ろめたさがあります。
そう、これらの作品の描くグロテスクが不健全なのは分かっているのに、見てしまうわけです。
 

●吐瀉物と猟奇趣味●

ここでちょっと吐瀉物のことを考えて見ます。ようするにゲロ。
吐瀉物って反射的に「汚い!」と言ってしまいます。実際、かけられたらいやだし見たくもありません。
しかし本当に汚いのか?と言われるとそうでもないんですよね。単に指突っ込んで吐いたものならば、触って死ぬということもないし、お風呂の水よりよっぽどキレイでしょう。
ここで生まれるのが嫌悪感。キモチワルイの心理です。
なぜこれが気持ち悪いのかというと・・・

1、文化がそう区切って、認識させてきた。
2、相手の苦しむ様に感情移入するため。
3、自分の中にも同じものがあることへの不気味さ。
4、本能的に感じる匂いへの拒絶。

などがあると思います。
人間も動物なので、危険なことには過敏に反応するように出来ています。だから吐瀉物にはまれに病原菌が混じっていることを脳の奥のほうで感じ取って避けている、のかもしれません。
しかし匂いや触覚がなくても嫌悪感を抱くのは、前者三つの理由が強い気がします。特に1と3。
 
人間の中には吐瀉物がいーっぱい溜まっています。ウンチだっておしっこだって溜まってます。そんなの誰だってわかってますが、自分の中にそれがいつもあって自分はいわゆる「バイ菌」を保有しているとは考えたくありません。
なるたけ清潔に身を保ち、糞尿とは無縁の幕で全身を覆います。アイドルはおしっこをしないよ!二次元キャラはもっとしないよ!そんな理想像に自分を近づけていきます。
これが、文化が進歩する一つの形でもあると思います。あんまり難しいことはわからないけど、内面に向かう文化もあれば、外面をキレイに飾る文化だってあるんじゃないかなと。まさに「臭いものにはフタ」。
猟奇趣味は、そんな吐瀉物を「見る感覚」に似ている気がするんですよ。
 

●嫌悪感をあえて作り出す恥じらい●

猟奇趣味を愛好する人や表現する人はある程度「慣れ」の部分もあるでしょうが、基本的には多くの人は「猟奇的だ」「アンダーグラウンドなものだ」という意識を持っていると思います。
それを芸術の域まで高める人も多くいますが、やはりそれによって多くの人が反感を持つのも分かりつつあえて描くものです。万人に受け入れられるものを作り、愛でているとは思っていないでしょう。
自分も持っている一部の本は本当に趣味のあう人にしか見せられません。相手がいやがるのは100も承知だからです。だって、嫌悪感を抱かせるように最初からできているんだもの。

苦痛に歪む女性の顔を好ましいと思う心は真に恥ずべき代物だ。
それを誇りに思ったことは誓って一度たりともない。
しかしだんだんと、それによって生かされている気がしてくるから不思議だ。

沙村広明「娘達への謝罪」

その感覚を端的にあらわした名言。ある人は「恥ずかしいし申し訳ない」と思っているでしょう。ある人は「自分はすばらしいと思うけど、マイノリティなのは分かっているよ」と言うでしょう。
自分も沙村先生のイラストは痛い痛いといいつつ見てしまう人でなしですが、「すばらしいよ!」と言う前に「ごめん、それはちょっと言いずらい」と言葉を濁してしまいます。
人でなしの恋 (いずみコミックス) ブラッドハーレーの馬車 (Fx COMICS)
 
肉体的な残虐描写がある作品(特に絵画やイラストやマンガ)には、防衛本能で嫌悪感がわきます。次に苦しんでいるキャラクターの痛みをともに感じてイヤな気分になります。
そして最後に、自分の中にもそういう要素がありうる可能性に本当の意味での嫌悪がわきます。
自分が殺す・殺される可能性があるかもしれない。社会のキレイゴトの裏にこういうドロドロがあるかもしれない。キレイな人間の裏側には不気味な内臓や糞便だってあるんだ。
イヤダイヤダ考えたくない!
 
さて、書いていて自分もいやになってきたぞ。自分の吐いた吐瀉物を見ている感覚と似てきましたよ。
じゃあなぜ書くんだよ、なぜ読むんだよ、という話ですよ。イヤなら見なきゃいい、気持ち悪ければ書かなければいい。
そこが、沙村先生のいう「それによって生かされている気がしてくる」に共感する部分です。
 

●自分を作品の中で殺すのを見ている●

猟奇・鬼畜物にはカタルシスがほとんどありません。ホラー作品のようなカキーンというホームラン的な爽快感もなければ、それを倒しに来る正義の味方もいません。ただいつまでもループする洗脳音楽のようにひたすら苦痛なシーンがループされます。
だから沙村先生のいう「生かされている」は、それを描くことで快感だけ得ているというわけではない気がするのです。やっぱり嫌悪感や後ろめたさは作家・読者ともに、どこかにあります。むしろそれがあるから惹かれる趣の方が強いでしょう。
 
ただひたすらに物のように扱われ、むしろ吐瀉物のように汚らわしい状態まで貶められる姿は本当に痛々しいし、見るに耐えません。でもそれを、指の隙間から見てしまう、いわゆる「怖いもの見たさ」。
それは自分を痛めつけられている相手にリンクさせて、痛い気持ちを共感しているのでしょう。自分の内面の中にある吐瀉物や内臓のように見ているのかもしれません。
自分も死んだり苦しんだり・・・。それを遠くからそっと見ることで「ああ、生きているんだなあ」という不思議な感覚になります。怖いけれども、いやな気分になるけれども、架空の世界で自分を殺して現実の世界でほっとします。ああ、無残無残と言いながら。
人が苦しむのを見て快感にひたるほどサディスティックで暗い、どうしようもない欲求が0なわけではないでしょうが、それだけではこの感覚は現れません。後ろめたいながらも自分を殺して、今の自分が映る鏡を探している気がするのです。だから怖いしキモチワルイけど、見ちゃうんだな。
欲望のスケープゴート、悪趣味と人間のおぞましさと痛みの再確認。ソフトに塗り固める文化もすばらしいけど、その裏で蠢くものを描写するのも価値があると思うのです。
 
それは永遠に、万人受けするもにはなりえないでしょう。しかし、どこかしらでそれらの表現は後ろめたさを抱えて細々と行き続けるはず。
ごめんね、不快にさせてごめんね。誇りに思っているわけではないんだ。でも見ることでほっとしてしまう時もあるんだ。だから今は「痛い痛い」と言いながらそれを見に行ってくるよ。でもまた戻ってくるから。むしろ一度死んで生まれ変わってくるから。
 
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いつでも見たいというわけでもないんですよね。その日の気分もあります。あと、描かれているキャラクター次第ではギブアップするものも多いです。「肌に合わないものにあえて触れる」のでこればかりはどうしようもない。
ところで、悪趣味さと美しさの間を昇華させる表現もまた、あるんじゃないかなーと思ったりします。描く人、見る人の心がどうとらえるかで、善悪二つに分けることはそうそうできませんのう。
加えて、表現としての猟奇は身体感覚や心理描写である場合も多い、と書き添えておきます。
 
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「サイコ」が何がすごいかって、あれが少年エースでやっていた、ということですよね。正直驚いたですよ。ポカリスエットが。