たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

あの日の少年の、幻影が脳裏から離れなくて。紺野キタ「SALVA ME」

銀河鉄道の夜

自分にとって今まで見た中で最高の少年たちは「銀河鉄道の夜」です。
もう昔から好きで好きでしかたなかったのですが、それは思想性とかストーリーとか以上に、ジョバンニが見たカムパネルラが美しいからなんです。
だって銀河を駆け回る鉄道を向かい合って見ているんですよ。しかもその少年はどこまでも自分に近くて、どこまでも手が届かない理想の人なんです。それを思うジョバンニの気持ちが息苦しくなるくらい好きでしかたありません。*1
少年の日の一瞬の光景は、脳に焼きついたネガ。色あせていくかもしれないけど確かにそれしかないネガ。
今日はそんなお話。
 

●我を救いたまえ●

Salva me (ミリオンコミックス)
WEB拍手でおすすめされて買ったBLから一冊。紺野キタ先生の「SALVA ME」です。
この言葉は「我を救いたまえ」という意味のラテン語。祈りの言葉。

表紙にもなっているのこの光景。
ボーイソプラノで歌う少年を見つけて足を止めるシーンです。視点は完全に黒髪の少年側からになっています。
 
自分が男なので男視点で書いていきます。
少年期は、そりゃあかわいい女の子が好きでたまらないわけですが、同時に身近で限りなく理想に近い少年(あるいは理想にさせやすい存在)に心惹かれることがあるわけですよ。
恋?いやいや、憧れというか、ジョバンニが「カムパネルラは特別」のと同じ、その人は特別だと感じる心理です。
しかし、少年の中の「特別」というのは残酷なもので、いつまでたっても相手を「少年」だととらえてしまうことも。このへんは自分自身が幼さを引きずるほどに、相手が「そのままでいてほしい」という欲求として膨らんじゃうんですよ。
その瞬間、それがずっと永遠ならいいのに!ずっと、少年のままでいられたら、そしていてくれたら。
「ああ、カムパネルラ、どこまでも一緒にいこうねえ。」の気持ちを、この少年も持ってしまいます。
 

●幻想の「少年性」はどこまでも引きずり続ける●

時間は非情で、声変わりをし、姿も変わり、どんどん「あの日の美しい声の少年」はなくなります。
「少女性」は比較的失われやすい存在なのですが、 「少年性」は引きずる人はどこまでも永遠に少年のままなのに、体は大きく変化を遂げていくという不思議なジレンマにさいなまれることになります。
少年時代のしなやかさはその瞬間にしかありません。なのに少年同士はお互いを「少年」として見るからギャップが生まれます。
少女が脱皮しきるのに対し、少年はその脱皮の皮を慈しむことも、まれにあるわけです。
  
そしてそんなことしていると、どんどん置いていかれるんだよね。

いつまでたっても脳裏から離れない、あの映像。
ええ。エゴかもしれないよ。自分だけ成長して相手に「そのままでいてほしい」というのはムリだよ。
でも、このかきむしられるくらいワガママでどうしようもない気持ち、あるから困る。あの瞬間のあの少年の姿が忘れられなくて、自分が成長をしても、ずるずるとその少年の姿から逃げられないのね。
ああ、気づけば少年の牢獄に閉ざされ、振り切る事が出来ないのは自分だけかもしれない。
残念だけども、彼の思いは「昔の少年」への視線でしかないのが、もう本当にバカ。バカだけどそれが、男性の中の「少年性」なんですよ。
ジョバンニが見たカムパネルラの姿は、おじいさんになっても、ぐるぐると銀河鉄道に乗った少年として見えているんじゃないかと思うと、なんだかたまらなく苦しくなります。
 

●親友という言葉と恋愛という言葉に垣根はあるのかい?●

同じ作品集の中で描写とシチュエーション作りに感服したのが、「天使も踏むを恐れるところ」という作品です。
貴族の青年と、久しぶりに戻ってきたヒッピーもどきの青年の関係を描いた作品なのですが、面白いのがこの貴族の青年、幼い少女と結婚しているんですよ。なんてうらやましい

この少女、体調が悪くて自分があまり長く生きられないのを知っているんですが、悲壮感はまったくありません。周囲がそうしないように、本人がそうしないようにしているからです。
物語はそこにお涙頂戴を作らないつくりになっています。キャラクターたちが最善を尽くして生きているんだもの、読者が悲しんでどうする?
 
この少女、引用したシーンを見ると分かると思うのですが、自分の旦那と青年がただならぬ仲なのもしっかり勘付いています。
普通ならココで嫉妬の一つもしようものですが、それは一切ありません。
少女は旦那が好き。旦那は少女を愛している。そして、旦那はやってきた青年のことが愛しい。
だから、少女は旦那と青年が仲むつまじく惹かれあうのがうれしい。

とても単純なことなんですが、人間それができない。実際、主人公のジェイムズも親友としての関係を崩すのが恐ろしく、弱者として逃げます。恐ろしいのです。
しかしこの作品がそれを淡々と、当たり前のこととしてお互いの関係を紡いでいく描写に驚嘆します。

青年たちがごく自然の流れとしてお互いに惹かれあったときに、妻である少女はただこうのべるのです。「すてきだわ」と。
そう、すてきなことなんです。
 
もちろん彼女も「ジェイムズの一番の親友は私なの、これは譲れない。だからあなたは愛人で甘んじてなさい」と語ります。
ちょっと面白いじゃないですか。妻であるけれど「親友」なのです。
この世界の描写では、人間関係において「親友」と「恋愛」に差はありません。3人にとって3人とも、みんな愛しいのです。そしてお互いがそれぞれ惹かれあい、喜ぶのがうれしいのです。
ならば親友とか恋愛とかの線引きなんて、いらないじゃないか。

なんてことはない。
惹かれあって、お互い大事で、側にいたい。それだけのことなのです。
 

ヘテロもホモも女装も。●


はい、男の子です。「とてもじゃないけどみつからない」より。
ゲイになった少女小説家の父親の元に戻ってきたのは、とってもかわいい少女になった少年。でも父親譲りで男が好きなんじゃなくて、「女の子が好き」「かわいいものがすき」。
これもまた複雑な話なのですが、すらすらっと読ませるから面白い。
今回の「惹かれるキモチ」とは別の、ジェンダーについて切り込まれた作品なのでここでは語るのを避けますが、とてもライトに、かつ深く楽しめるので面白いです。
 

 
2005年作品なのですが、紺野先生作品は比較的中古屋さんなどで手に入りやすいと思います。
濃さはないので、BLに慣れている人にはちょいとあっさりめかもしれませんが、少年の日の憧れが胸から離れない男女におすすめ。むしろ自分のような、BL読みなれていない人、ついでに少年の日をずるずる引きずってしまっている男性は、たまらなく切なくなるんじゃないかと思います。
教えてくださった方、ありがとうございました!

*1:だからメアドに「カムパネルラ」を入れました。痛い子!痛い子!でも後悔はない。