たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

写真の中に少女を閉じ込めて〜反逆する、作られた少女像〜

●少女の写真を、手元に。●

綺麗な子供の画像(2ch)
なんとも心なごむスレです。たくさんの天使達が微笑む、一服の清涼剤。
…ですよね。異論はありません。
自分も最初はこのページみてほんわかした気分になりました。
しかし、よく考えてみたらいくつかの点が「ただのスナップ写真ではない」ことに引っかかりました。

1、「綺麗」が基準値
2、圧倒的に少女が多い
3、傾向が大きく二つに分かれる。

「綺麗な子供」という視点自体非常に大人目線のもので、まあなんともずうずうしいものではあります。
本来の意味で一番かわいいのは自分の子供でしょうけれども、自分には子供がいません。そうなると本能的な子供への愛情ではなく、背景や雰囲気を含めた絵の構図の美しさになってきます。
それが転じて、「綺麗な子供」「かわいい子供」と言うのは「自分がどのように少年少女達にイメージを抱いているか」の鏡になります。
少年がここでほとんどあがっていないのは、観客の男性率が高い事も原因でしょうけれども、おそらく女性が同じ比率で入って「綺麗な子供の写真」といわれたら、やっぱり8割以上女の子の写真になる気がしてなりません。「子供の写真」なら別なんですが。
このへん、少女写真と現代のイラストの性質を考えながら、書きなぐってみたいと思います。
 

●きれい、かわいい、うつくしい●

先ほどの3番についてちょっと考えて見ます。
たとえばスレの4の下の魔女ごっこをしている女の子の写真や、55や71の写真。これは極めてスナップ写真に近い撮られ方をしています。少女に「作った表情」がないです(実際はわからないけれども)。
逆に8や37の下、39や91には意図的な操作が入っています。写真を撮るための写真。特に男の子が女の子に恋愛表現をするような演出のある写真は非常にあざとさを感じます。そのあざとさが大人にとってはたまらなくニヤニヤさせられるエッセンス。
自分もそういう、子供がキスしている写真なんかがたまならなく好きで、つい顔がほうけてしまいます。それもそのはず、「綺麗な少女を撮ろう」という視線が撮り、そういう視線で見ているのですもの。

(Alexandra Stonehill"Little Angel"1993)
この手のポストカードが大好きで山のように買ってるんですが、いやあ、あざといです。
少女は無垢なるもの、少女は天使。そのまま天使の羽根つけてます。
イメージの型にはめた表面的な部分を見せているわけですが、これがかわいいと思ってしまうのだから「少女性」の共有感は恐ろしい。
 

●少女アリス●

伝説と化している写真集に沢渡朔氏の「少女アリス」というものがあります。
先ほどの言葉で言えば、アリスを題材にした非常にいい意味であざとい写真集です。ヌードがあったからということで今は発売されていませんが、エロティックな要素はないです。

沢渡朔"少女アリス"1973(deja-vu 特集・少女コレクションより))
金髪碧眼の「美しい」少女。テニエルが描いた美少女アリスのイメージがそのまま立体になったような感覚に大絶賛が寄せられました。
この作品が魅力的なのは「白人少女だから」というのは逃れられない解答の一つだと思います。もともとアリス自体が、ルイス・キャロルのそのような「少女イメージ」をはらんだものですし、それに付随してどんどん形式としての少女が結晶のようになっていったので、当然ともいえます。

沢渡朔"少女アリス"1973(夜想「少女」より))
ほとんどの写真がポーズをとっており、それはとても「作られたもの」です。これが動画だったら更に魅力的かというとこれまたちょっと違いそう。写真の長方形の中に納まっているからよいのでしょう。
 
作られた少女のイメージというのはとても暴力的な部分をも秘めています。とにかく表面の形が優先、内面は後回しの、いわばお人形さんです。
このへんの感覚は男性の方が深いでしょうが、女性の中にもあるものだと思います。とにかく美しく、とにかくキレイに。偶像のように昇華された少女たちは、このあとこの瞬間が失われていくことを前提に四角い箱の中に閉じ込められていくのです。
 

●イメージの箱・ポストカード。●

澁澤龍彦氏が「少女コレクション序説」で書いているように、「少女を手元においておきたい」と言うのは至ってシンプルな感情です。そこには少女の精神や感情は加味されていません。「かわいい」「キレイ」を側に置いておきたいわけです。

(ROBERT MAPPLEHORPE 1981)
そういう意味でもっとも適しているのはポストカード。
大きさは一定で、好みの少女像を難しい事考えずに手元にコレクションできる、というのは非常に魅力的なわけです。安いしね。
デジタル画像でもいいのですが、人間不思議なもので「物体」として置いておきたいという欲求があります。写真でもいいのですが、ポストカードは手に入りやすい上に、妙に文化的な言い訳がきく便利なアイテムです。このへんがルイス・キャロルの少女との共犯者的な意識と違う部分でしょう。横からこっそり見たいものだけ見る、そんなずるさ。
 
このへんは撮る人・描く人にもその意識があります。意図して少女像をカタチにして閉じ込めてしまおう、という描写方法も確かにあります。
イラストの世界だとそれはさらに顕著。なんせ自分の自由に描けます。「かわいいものを描こう」として四角い箱に詰め込んだ時、その少女達はその枠から抜け出そうとしているのかしら、それともラプンツェルのように外を夢見て幽閉されているのかしら。
 

●反逆する少女達●

逆にその四角い箱庭に、少女の感覚を写し取ろうとする写真家さん、イラストレーターさんも多くいます。少女達の反逆です。
一度反逆を起こすとこちらは勝つことが出来ません。だって、たしなめることも止めることもできないのだもの。ただ見ているのみ。

天野可淡"KATAN DOLL")
人形やイラストは、人間の中の少女のような不安定で無邪気で、時に反抗的な「精神」そのものを描き出します。やっていることは「イメージをハリボテにする」という表面的な作業に見えますが、こちらを食い尽くすほどに、あるいはこちらの内面を見せ付けるように写真やイラストの中から暴れだすから困ったもの。そんな融通のきかなさが最大の魅力です。
箱に閉じ込めてコレクションしようと思ったら、閉じ込められたのは自分達だったりね。
そのような意味で、写真や人形やイラストには、少年よりも少女のイメージが強く焼き付けられやすいのでしょう。
 

●「かわいい」という暴力●

ここから、今の少女文化の中の「かわいい」、オタク文化に見られる「萌える」がどんどん増殖していきます。
かわいい、きれい、という言葉に基準値はありませんが、不思議と一点にイメージが寄っていくもの。それは「これがかわいいよ」という昔から引き継がれた言葉と宣伝力のせいでしょう。
でも確かに、こちらの都合で「かわいくあってほしい」という画像は心を強くひきつけます。

飯沢「男は自分の存在自体がいつも不安で、その存在を危険に晒したくない。ところが現実の女はそこにずけずけ入ってくるから男はコレクションに走るんじゃないかな。完全に支配できる断片を好む。
伊藤「つまり、男が欲しいものはかなり表層的な部分なのね。本質的なことじゃなくて。」
飯沢耕太郎「少女古写真館」 deja-vu 特集・少女コレクション再録)

ルイス・キャロルの時代の少女写真から今のアニメ風イラストまで、少女をいかに捕らえるかを常に人間は追い求めています。ある意味完全に表層のカタチになっていった「コレクション」が萌え文化の一部だと思います。だからそれを、手に入れたくなるんだな。
忘れてはいけないのは、それを手に入れようと苦心する時には少女達の反逆も始まっていると言う事。
スナップ写真にこめられたリアルの匂いは、コレクション化された少女像と必ずぶつかります。
そのとき、果たしてキャロルのように「共犯者」として貫いていけるか、あるいは自分の中の少女が蠢きだして逃げ出すかは、また別のお話。
 
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「かわいいは怖い」。

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