たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

僕と君の、地球最後の日。よしの「陽が射して」

すいません、またLO8月号の話です。
今月号は各地でやはり話題なようで、確かに「エロマンガ」ではあるのですが、そのエロマンガの特性を生かして「エロス」だけではなく、失われる「タナトス」を描いているのが非常に印象的です。
特にインパクトがあったのは以前も書いた、雨がっぱ少女群先生宮内由香先生なんですが、もう一人すごいバズーカを持っている作家さんがいました。よしの先生です。
 
よしの先生といえば、メガストアやLOで活躍する、ラブラブロリえっちを得意とする作家さんです。
なので、今回はかなり面食らいました。エロをしっかりハッピーに描きながら、失われていく物語の描き方に、どうしようもなく苦しい気持ちになりました。
そう、この話は「終末の日」の物語。
 

●もう終わりです。●

物語の始まりは非常に唐突です。
「なぜか世界は明日の太陽を見ることなく終わると決まったらしい」
理由は読者には一切明かされません。登場人物も知りません。
ただ、「終わる」という事実だけが目の前にあるのです。
この物語はそんな「終わり」の日に、明かせなかった恋をつづる二人を黙々と描く話です。
 

人は本当に最後を迎えるとき、取り乱すのでしょうか。大惨事が起きる気がしてならない人も多いでしょう。
しかし、この世界では思ったより平穏で、やり残したことをするためみな一生懸命に愛する人との時間を過ごそうとしています。
以前もちょっと触れたのですが、ナチス収容所で死刑に向かって詰め込まれた馬車の中で、人々はみな、セックスをするか神に祈り続けていたと言います。
最期は、人は誰かに触れていたい、一緒にいたいと願うのです。
 

この物語が特殊なのは、その「最期の日に会いたい」と願ったのが、先生と生徒であることでしょう。
そう、相手は子供なのです。
 

●子供だったら誰でもいいんですか?●

人生最期の日に、少女と先生は「一緒にいたい」と望みました。
そんな都合のよいロリコンな話があるかって?ええ、そうでしょう。そうかもしれません。
しかしこの作品をじっくり読んでいくと、そこに対して疑問を投げかけてきます。

子供だったら、誰でもいいんですか?
情欲に流されていくロリコンは、地球最期の日に親御さんに遠慮をしたりはしないでしょう。子供だったら誰でもいいなら、悪逆非道の限りを尽くしてしまうかもしれません。
しかし、二人は会いにきて、彼女と平穏な時間を過ごすことを願いました。
ただ、一人のためにお互いの最後の時間を持ち寄ってきたのです。
 
この先生はおそらく、今までこの少女と付き合っていたことをひた隠してきたことが伺われます。もちろんそんなことはどこにも書いていません。それに、それがよいことであるとは決して書いていません。
だけれども。確かにこの二人にはお互いを欲して迷わない心がありました。少女側はまだ幼いので、そんなことはわかっていないかもしれません。しかしながらこのマンガの中で描かれる彼女は、先生よりはるかに大人びていて、確固とした態度で向き合います。それが人に認められざる恋だとしても。
 

●年齢差のカナシミ●

マンガの中で描写される「年齢差カップル」は、ほほえましい反面どうしようもない悲しみを抱えています。
先生も彼女が子供だったらか好きになったわけではないです。彼女も先生だったらか好きだっただけではないのです。

少女は、キスをした回数を数えていました。
なぜか?
だって、先生ともっといっぱいいっぱい一緒にいたかったから。そしてもっともっと大人になって、1万でも1億でも数え切れないくらいキスをして、二人でずっと一緒に年をとっていけると思っていたから。
しかし今日は最期の日。
 
ここにある年齢差は、かわいらしさを残しながらもただひたすらに残酷なのです。
 

●僕はちゃんと君といる。●

編集さんが考えたのかよしの先生が考えたのか分かりませんが、この作品のキャッチコピーがあまりにもすばらしすぎて胸にきます。
「無くなるものはなくなればいい。 僕はちゃんと君といる。」
エッチシーンはきわめて明るいです。二人の愛の話合いはとてもかわいらしいです。
小さな恋人と、呵責を感じつつ愛を認める先生と。ただ一緒に最期を幸せに過ごそうと、二人ほほえむだけなのです。
だから、明るいから悲しくて仕方ないじゃないですか。
 
彼女たちはこれから10年生きられたら何をしたのだろうか。
二人が同じ年齢だったらどうだったのだろうか。
もっと早くから出会えていたらどうだったのだろうか。
二人が付き合っているのがばれたら、どうなっていたのだろうか。
 
そんなことにはすべて意味はありません。
終わるからです。
しかし二人は笑います。
僕は、ちゃんと君といる。
 

理不尽なまま、そっと終わりの時を待つ二人の最後のコマは必見。
さようならじゃありません。だって、ずっと一緒にいるから。
おやすみなさい。
 

ロリコンの視線と終末観●

ロリコンの視線は、時々得体の知れない「終わり」に怯えます。
ある意味においては「タナトス」。激しく情動的なエロスの反動なのか、消滅する恐怖、破滅の美学、失われる瞬間を永遠にとどめたいという描写方法も多く存在します。
あるいは世間に対する恥じらいかもしれません。あるいはかなわない夢への絶望と憧憬かもしれません。
 
以前別のところでも少し話したのですが、このへんの思想は三浦靖冬先生や雨がっぱ少女群先生、また道満晴明先生や目黒三吉先生もそういうにおいを漂わせた作品がいっぱいあると思います。今話題の鳴子ハナハル先生も「喪失」を描いた作品ありますね。
エロマンガはエロであるがゆえに、そのような「終わり」「死」をほのめかせる時に非常に強烈なインパクトを残します。
特にロリ系作品は、少女という「今一瞬しかない存在」「失われる存在」なので、さらに死の匂いが強くなります。失うこととロリ表現は相性が極めてよいのです。
 
この作品は、「失われる」ことの理由を一切書きません。もしかしたら裏設定はあるのかもしれませんが、それはあまり意味をなさないでしょう。なぜなら「今この瞬間が失われること」と「それでも側にいること」を選ぶことこそに意味があるからです。
たとえすべてが失われても、今のこの思いはここに確かにある。
そんな感情のゆらめきが、エロマンガという特性の中だからこそ描かれていくのでしょう。一瞬の興奮と、果てしない悲しさとを湛えて。
このラストを見て、それを「幸せ」と見るか「不幸」と見るかは、人それぞれ。
 

そんなわけでLO8月号感想三回目。一冊の雑誌に対してさすがに多すぎる気がしますが、いずれも「ロリエロ」のジャンルでこその心理と世界を描こうとした意欲作です。
この号は「エロ度が足りない」という声もあるようですし、それは納得ではあるのですが、たまには18禁だからこそ描ける「失われるもの」を見つめるロマンチストになってみるのも、LOならではだと思うのです。この路線の作品がどんどん増えてほしいなあ…。
  
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