たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

コレクション少女と、光を湛えた少女〜少女性イメージの描く二つの視点〜

●性差による少女イメージの差異●

WEB拍手より。

たまごまごさんは、男性と女性の描く『少女』にはどのような違いがあると思いますか?
私は、女性が描く『少女』には『リアル』が含まれているように感じます。
男が少女を描く場合、結局は周りから見たイメージを膨らませて表現する以外になく、内面については想像に頼るしかありません。
ここで、ある種のウソ臭さというか、理想的なファンタジーになっている感じを覚えます。
(BLを読む男があまりいないのはこの逆で、男に『こんな男いねーよ』と思われてしまうからなのかもしれません。女性の側からすれば理想を描く以外に男は描けないのでしょう)
私が「こどものじかん」や桜庭一樹さんの小説を読むとき、これ以上読むのがツラくなってしまうことがあるのは、そのキャラクターの内部に含まれる『リアル』を感じているからだと思うのです。
まあ、どんなものでもフィクションとして楽しめてしまえばいいのですが…。

自分も男性以外になったことが残念ながらないため、想像するしかないのですが、男性・女性、それぞれの描く「少女」に差異はあると思います。
しかし、男性の中でも女性的観点持つ人、女性の中でも男性的観点を持つ人がいるので、一概に言えないなあ、というのが最近思うことで。
そのため、小説・マンガ・アニメ・映画・音楽などで見られる少女を考える前に、ざっくりとここで切り分けをしておきます。切り分けの視点は二つ。
 

1、生身の少女描写と、イメージの少女描写

小学校にいって女の子を見たら、鼻水たらすわ汗臭いわという生々しい「人間」という生き物としての子供を見ることが出来ます。それを描く作品もあれば、一切そこに触れない作品もあります。
まず最初の切り分けは、リアルな人間としての「少女」(女児?)を描写するか、イメージとして作られた観念的な「少女性」を描写するかです。
以降、人間の体臭がしそうなほどの描写を「少女」、イメージとしての形式を「少女性」と分けて記述します。
 
たとえば「じゃりン子チエ」や「火垂るの墓」なんかは「少女」です。最近だとアニメの「紅」の紫が、ラノベイラストと大きくデザインが変更され、非常にリアルな描写をされており、大きな評判を呼びました。
少女漫画でも女性ならではの華奢さやストレスなど、身体感覚の面を描写すると限りなくリアルな人間としての少女になります。大きなポイントの一つは、少女漫画内の生理描写などでしょうか(エロマンガの場合は別)。
ルイス・キャロルの原作版「不思議の国のアリス」は、この切り分けだけで言うと中間よりも少女寄りというところかと思います。これはまた後述。
 
「少女性」を持った作品、となると、今のオタ文化を見渡せば山ほどあります。極端なまでにイメージ化され、記号として完成させたのが「らき☆すた」や「苺ましまろ」のような作品だと思います。体のそれぞれが少女性を現すパーツの組み合わせになっているので、付け替えることで別のキャラの性格を機能させる仕組みで、そのへんはアニメ内でのパロディとしても「服装変え」「髪型変え」などで行われています。
川端康成の作品も限りなく「少女性」寄りだと思われます。理想の中の理想を描くような感覚がありますよね。
実写ですが「エコール」もこちらです。作中でも少女を「少女性で出来たオブジェ」に変えようとする企みが見て取れます。
 

2、「コレクション少女」と「一瞬の光としての少女」

少女コレクション序説 (中公文庫)
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澁澤龍彦は「少女コレクション序説」の中で、男のイメージしたオブジェだとばっさり言いました。
もう完全に、現実から切り離してしまっちゃうと簡単。
ようするに「少女性」とは「切り取られた記号」「存在しないイメージの形」という扱いです。偶像ともいえますね。
フィギュアのようにおしっこもしなければ*1逆らいもしない純粋な少女イメージの結晶の場合もあれば、一部の創作人形のように女性の中の暴れ回る感覚を閉じ込めたものも。
アニメキャラのとことんまで記号としての追求をされる少女達もまた、「コレクション少女」の一面を持っています。

コレクションされた少女性は、同時に自分を映す鏡にもなります。

少女という存在は、近代が、そして男たちが生み出した幻想である。したがって男が少女を語ることは、鏡を覗き込むに等しいと言えよう。当人は絶対的な純粋客体を語っているつもりなのに、結局は自身の欲望について語ってしまう。少女は男を自己言及の迷宮に幽閉する、近代が生んだ罠なのである。
(「トーキングヘッズNo.36 胸ぺったん文化論序説」より)


ドガが描いた踊り子絵には、その後ろには品定めをする男性がこっそりと描きこんであります。
本当かどうか分かりませんが、これはかつてバレエが高級買春としての売買を行っていた場所であったという説があるためです。美しいほどに、どす黒いものが見えてくる。

このように、美しく描こうとすればするほど、少女性の究極形を求めるほど、自分や他者の欲望や観念、培ってきた物がにじみ出てしまうのです。綾波レイなんかは本当にうまいこと鏡の役割を果たしたバレエダンサーですね。
だからこそ逆に、自己表現の道具として、少女性は極めて魅力ある存在とも言えます。
 
一方、生き生きとした少女が過ごした一瞬の光にこそ、少女性がある、という考え方もあります。コレクションにして無機的に閉じ込めた少女性とは正反対で、輝きに満ち、世界中を駆け抜ける光のような存在です。
澁澤のコレクション少女性が標本であるとするならば、こちらは風に近い存在です。ようするにどんなに手を伸ばしても手にすることが絶対に出来ない、不可視の存在としての憧れこそが「少女性」である、という考え方。
頭に一瞬閃くような存在で、それは誰もがもっているのですが、形に出来ないが故に追い求め、そして絶対に手に入らない、という方向性です。
 
この二つは視点の角度によっては相反しています。あるいは、視点の立ち位置の違い、ともいえるかもしれません。コレクションへの拒絶、でしょうか。
 

●少女と少女性を見る様々な視点●

まー、ありがちなんですが、やっぱりベンリなので分布図を作ってみます。どうしても二分できるものじゃないですしね。


「1」の「コレクション少女」であり「少女性」をストイックに形にした標本の代表は、今のフィギュア文化だと思います。
特に顕著なのはピンキーストリートシリーズ。

ピンキーストリート 19
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それぞれ記号的なパーツで組み合わされており、それを取り外したり付け替えることで全く別の少女が生まれる、という、とてもお手軽でかわいい着せ替え人形です。ただ着せ替え人形と違うのは、個性をそれほど重視していないため、理想像をそれぞれ付け替え改造することで、全くの新しい人物像が作れるということ。元々の存在はそれほど重要ではないのです。
それは極端な例としても、今の「萌え文化」の中で、蝶の標本のように集めて飾ることの出来る少女像は、これに相当します。女の子が属性の記号を持って、わんさか出てくるタイプの作品はまさにコレクション的。*2
「エコール」の少女達が、大人の目に気に入られるような「少女像」になるよう少女を育ててていたあたりも、このへんのコレクション性に限りなく近い描写でしょう。

エコール
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自分も少女好き好きと色々な話をしてますが、萌えれば萌えるほど自分に跳ね返る痛々しさ。しかしそれを逆手にとると、自分を見つめ直すいいきっかけにもなります。とりあえず今は千佳が魅力的でしかたないので、そういう心理状態なんでしょうなあ。どんな?
 
「2」のように、コレクション少女の中に「生きた人間」の息吹を吹き込むこともあります。
先ほどもあげた「らき☆すた」は、極めて記号的なパーツで描かれていますが、実は生理になったり性毛が発毛するような表現がこっそりと隠されています。
また、初期媒体としての「初音ミク」は極めてフラットな状態のコレクション少女として制作されましたが、数多くの人の創作によって、人間らしい生々しさを持ち合わせることになりました。デッドボールPの作品なんかはかなりその点顕著ではないかと思います。
個人的な考えですが、宮崎駿作品の少女はここではないかと思います。ものっすごい生々しいのに、妙に男性の理想が入っている強烈な鏡。
 
「3」の光のようにつかみどころが無く、限りなく美しいイメージとして描かれる少女は、妖精に近いかもしれません。または少女漫画でかつて描かれていた「ステキ」「きれい」のあこがれの感覚。
最近で言えば、「マリア様がみてる」の藤堂志摩子はこの位置にあるかもしれません。もちろんコレクション的にも、あるいは生の存在としても見ることはできますが、ひとつひとつの描写がこの世の少女とは切り離されたような憧憬の目線で包まれています。他の子が現実的なだけに、比較されてさらに、ね。 
「4」はどちらかというと「子供」という言葉でくくれたり、あるいは「少女時代」というデジャヴに近いかもしれません。桜庭一樹が描く少女達は、ヒステリックだったり耐えきれない混乱を心に抱えながら、同時にどうしようもなく自由に逃げだそうとする(時には暗いかもしれない)光を湛えているので、ここに相当するのではないかと思います。あ、でも七竈はちょっと違うかも?
親の視点で描いた少女は限りなくフラットで生々しい「子供」になりますが、その点イリナ・イオネスコの写真は面白いですね。娘をコレクション化して写真におさめている感覚も感じられますが。
エヴァ―イリナ・イオネスコ写真集
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●嘘くささと、憧れ●

「少女」という「理想的なファンタジー」は、男性が描いても女性が描いてもあると思います。
しかし、その中でどの方向を目指すかによって、少女像はめきめきとかわっていきます。
それこそ、ロボットの少女描写であっても生々しさを惜しげもなく注ぎ込むことで、人間以上に人間らしくあることもできます。人間の少女でもまるでダッチワイフのように描き、性そのものを強調する表現方法もあります。
そこに生まれる「嘘くささ」というのは全く持ってその通りなのですが、それぞれが「少女性」というキャンバスを使いながら、いかにして自分を「少女」で表現するかに挑んでいるのです。
 

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最初のWEB拍手にもあった「女性の描く少女像の持つリアル」について。
やはり身体感覚・精神感覚の面でどうやっても男性が分からない部分というのが存在するため、女性作家にしか描けない少女はあります。
先ほどの「不思議の国のアリス」ですが、男性が描いているため、ある面コレクションとして閉じ込められている部分があります。不思議の国に行ってしまう時点ですでにそうですが。しかし同時に、ヒステリックだったりコロコロと思考が切り替わるあたりは妙に生身の少女を反映している部分も持ち合わせています。
これが後代に影響し、多くの女性作家がアリスをモチーフにした少女を描くわけですが、それらはさらに混沌としたヒステリックな感覚を抱くものもあれば、美しさの象徴として変化したものもあります。もちろん、男性が、儚さの塊や、性的なシンボルとしてアリスを用いることもあります。それだけ少女性を持ったアリスが、自己表現のキャンバスとして用いられやすいのでしょう。

またロリエロマンガにおいての少女像は生々しさとイメージを行き来するので興味深いところ。図は宮内由香先生の「ロリータ」より。性行為されてすぐ感じる少女もいれば、異物に対する拒絶反応を示す少女像もあります。突然勃起したペニスを見ていとおしく感じるわけがない。人によってはグロテスクな化け物です。それでも受け入れるこのシーンのセリフは、少女感覚のある女性ならではの表現ではないかと思います。
他、関谷あさみ先生が描く倦怠感や止められない情や、KURO先生の描く独特な少女身体感覚などは一見の価値あり。エロ抜きにして「女性の描く少女の形」は語りきれません。
男性でありながら極めて女性の心理を激しくつかむ作家としては町田ひらく先生がいるでしょう。女性ファンが多いのも、その中に描かれる独特の諦念や「感じない」感覚が目を惹くからです。スケープゴートとして蹂躙される少女達で女性へのセラピー効果を与えながら、同時に男性の性的な興奮の視線をも持ち合わせているのだから、驚異的です。日本に町田ひらく先生がいて本当によかった。雨がっぱ少女群先生が描く、あまりにも華奢だけども強く廃墟の中で生きていそうな少女も、男性ならではの純粋すぎる視点て強烈。復帰が待ち望まれる作家さんです。
このように必ずしも作者の性別によって描かれるものが違うとは限りませんが、性別によって「求める少女性が違う」可能性は高いでしょう。逆に言えば、求める少女像があるから、人によっては人生をかけて表現するのです。少女性という紙の上に。
 
それぞれの人の中にそれぞれの少女像があると思いますが、自分の中に眠る少女はコレクション化されたものでしょうか、それとも手を伸ばしても届かないものでしょうか。
いずれにしても、少女性の魅力にとりつかれたとき、人は鏡を見ながら少女の足下にひざまづいて、永遠に請い求め続けることになるのかもしれません。
あとは受け手が、それをどの位置から捕らえるか。上から見下す?下から崇拝する?並列に付き合う?答えはありません。好きな物を選べばいいです。
ただ、いずれにしても少女性の持つ力に魅入られているのは間違いないのですから。
  

 
あわせて、戦闘少女・魔法少女が大人にならなくなったことも、少女がすでに完成形であるという視点からなのかも。
少女漫画の中の少女でも、マーガレット系列のリアルな女子高生の姿と、花とゆめ系列の華奢で素朴な少女像とではまた全然違いますよね。
あとは見るべきは、百合的な作品がどの少女像の方向に向かおうとしているか、でしょうか。最近は性的な描写も許容されてきているので、興味深いところ。「性欲をもつ少女像」と「性欲を剥奪された少女像」「性欲を自ら捨てた少女像」、それぞれ大きく違います。
 
〜関連リンク〜
まごプログレッシブ:アニメ・マンガのファンタジーにおいてリアリティを持たせる意味
 
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*1:最近はしてるのもあるけども。

*2:もちそんそこからいかに描写するかによっていかようにも形は変化します。