たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

それを好きなのは、キミだけじゃない。決して孤独じゃない。

アンダーグラウンドの微笑み●

AskJohnふぁんくらぶ: 米国のMANGA好きは日本のERO/GRO作家を皆どうしてもっと称えないの?
リンク先の答えはあくまでも答えの一つとして。ちょっと雑感を書いてみます。
 
自分はグロもエロも大好きです。
かなりサイトでオープンにやっちゃってる所ありますが、やはりその裏でさらに汚いモノへの憧れみたいな感情ってわき起こる時もあるわけです。
かわいくて美しいものも大好きですが、時には下水みたいにどよどよしながら淀んだ場所を欲していたりします。
 
そもそも最初は中2病をこじらせたようなものから始まりました。自分は他の人にはないこんな趣味があるんだぜ的な、変な恥ずかしいこだわりです。あえて人の選ばないマイナーなものを選択して、悦に入っていましたとも。ああもう恥ずかしいな。全然自慢にもならないものを集めて屈折した喜びを感じたりしましたともええもう。
あれです、サブカル気取りってやつです。サブカルっぽいことして満足していたのですな。
でもその頃から、筋肉少女帯の歌を聴いてなぜか溢れる涙がありました。なんなのかは理解出来ずにいました。しかもあれだぜ、「釈迦」とかで泣くんだぜ。
 
あるとき頭をぶん殴られるような衝撃に出会いました。
それが町田ひらく先生の「幻覚小節」でした。
 

 
「卒業式は裸で」を読んだのはその後。こっちに先に出会いました。
もうなんだか分からないくらい躰をかきむしられるような困惑と、目を瞑っても向こうから覗き込んでくる少女の死んだ魚の眼と、それなのにそこに興奮を覚えている自分の気持ち悪さに頭がぐらんぐらんしました。
最初はそれがなんだか分からなくて、気持ち悪くなって、本棚の奥に眠らせていました。しかし猛烈に読みたくなって、本棚をすぐ掘り起こす羽目になります。
 
ああそうか、これが自分を映す鏡の一枚だったんだ、と気づくのは相当後のお話。
ちょうどこの作品が宮沢賢治をモチーフにした一話を収録しているのですが、宮沢賢治作品も子供の時に読むとよく分からないけれど、大人になると衝撃を受けることがあって、それとものすごく似た感触を受けました。いやもう、人間の汚い部分に関してはものすごくベクトルは違うのですが、同時に似たベクトルも感じてしまったので、この本から入ったのは自分にとって幸いでした。
そこから「サブカル気取り」が急に恥ずかしくなって、もっと知ろうと耽溺するようになりました。
なぜ丸尾末広先生の残酷絵に惹かれるのかを、自分の心理にあわせながら受け入れられるようになりました。そしてさらに色々な小説や漫画や映画などの作品を数多く知り、そこにあるねじれた感情に激しく心揺さぶられました。幸せです。
 
でも、恥ずかしいんですよね、その作品を読んだときに自分の心理をモロに知っちゃうのは。
自分のコンプレックス、性癖、歪んだ視線、中2病的な迷走、偏見、わがまま、嫉妬、やらないで満足する自分の怠惰。そのへんが全部降りかかってくる。
「だからこそ美しいモノを求める」人はそれに立ち向かい変えていける立派な人です。「だからこそそこに溺れていたい」人もそれに立ち向かい、心を癒す場所を必死に探している人です。自分のかわりにキャラクター達がマンガの中で犠牲になってくれるのです。
以前もちらっと書きましたが、エログロはちょっとしたセラピー効果をそういう意味で持っています。
 

●認められないこと●

このへんは人によるので「そういう人が多い」とも「少ない」とも思いません。
出会うときに出会ってしまったら、自分を映す鏡として突然機能する作品から一生離れられなくなることはありうる、というだけです。
だからそれが他の人にとって全く受け付けないものだとしても、自分がそこに感銘を受けて、脳髄の部分からガツーンとやられたら、それでもう十分です。評価が高いか低いかはどうでもいいです。
 
いやね。アングラはアングラだからいいとか、サブカルはサブカルだからいい、という斜め向き視線も確かに自分の中にはやっぱりまだあるわけです。しかし「いいな」と思ったモノは「いいなあ」と言いたいです。
同時にそれが他の人に受け入れられないのは分かっているから、メインカルチャーになり得ないのも受け入れるしかないです。決して主張はできないです。
 
それを「受け入れ」なくてもいいから「そんなのもあるんだとだけ思ってくれ」というのがわがままなのも何となくは分かっているので、じっとこらえます。
だから「そういうのは好かない」「嫌い」という言葉を聞いて心を痛めても、主張せずひっそり。
でもそれは相当しんどい。
哀しいし、寂しい。
その作品が好きであればあるほど、けなされる言葉は聞きたくないじゃないですか。
でも「けなされるよなあ」と言うのはちょっと分かるから、じっと口をつぐむしかないです。どんなに主張しても、エロやグロはエロやグロでしかない。
自分はロリマンガが心の底から今好きですが、それに対して「だめだ」と言われたら「はい」とも「いいえ」とも言えないわけです。主張でその意見を押しつぶすことは誤りとすら思います。
黙して語らず。なんか最近この言葉やけに使ってる気がしますが、そうするしかないんだな。
大好きなものをひどく言われるのは、本当に辛い。
 

●孤独じゃない。●

でもね「それが好きなのは自分だけではない」わけです。
100の中の1の意見が「それは嫌い」というだけで、ものすごく人は凹みます。なぜかそういう風に出来ている気がします。
そして、気づけば自分で自分を孤独に追いやることすらあります。自分が割とそうでした。
でも、決して孤独じゃない。
それを知るだけで、ちょっとだけ、いや、ものすごく救われることもあります。

エロの黄昏 文=永山薫 - WEBスナイパー

もう十年以上前になるだろうか? 当時はまだ少なかった海外オムツマニアのホームページを発見したら、トップページに「You are not alone」とあって、これには正直感動した。虐げられ、バカにされ、差別され、自己卑下と孤独の渕にいる同士へのメッセージとしてこれほど適切なものはあるまい。
 
「あんた一人じゃないんだよ」

SMスナイパー休刊に寄せられたメッセージ。以前も紹介しましたが、中身はかなりシビアな話になっています。
しかし、ここに書かれているこの文章がものすごく「強い」と思うんです。
確かに色々難しい問題だらけで、世間はどんどん厳しくなっていくかもしれません。しかし人間が欲求を超越した上に持っている激しい憧憬は、消えることはないです。

送り手であれ、受け手であれ、自分(たち)が、何を作り、何を楽しみ、何を愛し、何に中毒し、何を主張し、何を嫌ってきたのか? それは商売なのか? 文化芸術なのか? ハードコアとしてのポルノなのか? お色気なのか? 特化された趣向なのか? 雰囲気なのか? そういう青臭い、自分への問いかけが必要なんじゃないかと思う。

こう言われて。はっ、と思い出しました。
自分が中2病的になってそれを恥じていたあの時、でも確かに猛烈に感動したものがあったのではないだろうか。そして中2病だったあの頃の感情だって、自分の一部だったじゃないか。
認めることが出来るようになったとき、人に伝えます。人に伝えるとだいたいは「変態だね」と言われます。でもその中に、ごくごく希に、心の通い合う人間もいます。
それがネットを通じて、輪を作ります。集団になるわけではないです。「ロリコンは集まるとろくなことがない」とは、コミックLOの名言の一つ。いや全く持ってその通り。主張で勝ちたいわけじゃあない。
ただ、「一人じゃないよ」「本気で感動したものが人に言えなくても、孤独じゃないよ!」というのを知ったときに、どれだけの安堵感とうれしさが心に満ちることか。LOも「集まると〜」とは言っていますが、自分たちの主張を通すわけではない形でちゃんと手を差し伸べています。一人じゃないよ。ここにいてもいいんだよ。
 
今回は表現規制とかのややこしい話はしたくないのでしません。
ただ、「好きな物」がたとえどんなに人に認められなくても、高い評価を受けなくても、話題にならなくても、ちゃんと共感する人もいるよ、伝わる相手はいるよ、と。
そんな、一見当たり前ながらもすぐ忘れてしまうことを自分にも言い聞かせながら、自分が何を好きなのかもっと色々探していきたいし、そうできるのは幸せなんだろうな、と思うのです。
 

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最後に。
今はエログロを商業誌で発表していない、受け止められる場が見つからない掘骨砕三先生ですが、同人誌は本当にすごかったよ!
ものすごくエロくて、グロくて、そして泣いたよ。泣いたさ。
何かを表現する力は、何かを愛する気持ちには、そして何かを求め続ける力には、終わりがないんだ。
そう信じたい。信じさせて。

大丈夫よ!
あたしがここにいるから…
ずうっとココに居るからね
だいじょーぶよ…ね?
(「アナタヲジザイニ」掘骨砕三