たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

風浦可符香の心の「躁と鬱」を「獄・絶望先生 下」のOPに見る。

「【獄・】さよなら絶望先生」の下が出ました。
これでOADもラスト。うーん、寂しい。テレビ版第三期があることに期待です。
 

●絶望OPが巡る物語・今までのおさらい●

はて、ちょっと今までのOPの復習をしてみたいと思います。
まず第一期。


「さよなら絶望先生」OPにみる、少女解体とオブジェ観
テーマソングは「人として軸がぶれている」。
少女達がエロティックに解体され緊縛されていく様が強烈なOPでした。
この時のテーマはエロスと同時にこれです。

はい、です。
エロスあふれる世界はどんどん深みにはまりこんでいき、途方もない複雑な路地に入り込んでいきます。色は鮮やかですが先生の心はぐいぐいと鬱に。
最後のシーンでこれが入るのがまた印象的でした。

可符香の妊娠シーンです。
意味深ながらも説明がない不思議なシーンでした。
 
さて次は第二期、「俗」です。

内臓が執拗に描かれるグロテスクなOP。音楽は「空想ルンバ」。
第一期とうって変わってモノクロではじまったこのOP。実は回を重ねるごとにフィルムがすり切れ、最後にはフルカラーになるという強烈なこだわりをもった映像で多くの人を驚かせました。
「俗・さよなら絶望先生」OPに見る躁の心とエログロナンセンス
「俗・さよなら絶望先生」OPに隠された謎
こちらのテーマは先ほどの第一期と対をなしていて、「躁」です。ものすごいハイテンションな状態のことですね。

色的にはモノクロで地味なのに、内容は気が狂いそうなほどのテンションの高さ。
これに色が付くことで極彩色の世界が誕生しました。
はて、しかし一人だけ変わらない少女がいました。それはこの子です。

第一期では絶望先生を孕んでいた、少女、風浦可符香(P.N.)です。
彼女だけはこの狂乱の渦の中にはいないんですよね。
 
そして、「獄」のOVAシリーズ。

もうなんだかわからない状態に。「プロのMAD」と評されていますが、生身の人間が全然出てこなくて、少女達が完全に物体化しているのが見て取れます。
「【獄・】さよなら絶望先生」とヤン・シュヴァンクマイエル〜モノの持つエロティシズム〜
 
「鬱」を経由して、「躁」の状態の狂乱に陥り、さらに「混沌」へ。
「エロス」の生を感じ、「グロテスク」の死を見つめながら、奥にある「物体化」へ。
「真実」と「虚像」との境界線で蠢くものたちの姿は、形を変え、色を変えてぐるぐるとまわります。
この視線が非常にそれぞれ象徴的で面白いんですが、今回は【獄】の下巻で、それを誰が見ているのかが明確にされました。

もう見当は付いていると思います。風浦可符香です。
このセカイがぐるぐる変わるのは、一人の少女の内面がもろく不安定だから。
 

●少女の瞳が見るアンビバレンツ●

今回は音楽も「らっぷびと」のアレンジバージョンになっています。その段階でも驚くのですが、今までのようなパロディ色も一切排除し、全くの別物として作られています。
 
MADを作っている劇団イヌカレー色が強くなっていますね。
これ結構こだわりがあって、よく見てみると隅っこに、少女達が抱える二面性が文字で表されているんですよね。
千里の場合は「乱」と「整」
あびるの場合は「蹴」と殴」
その他、「善」と「悪」、「加」と「被」、「受」と「攻」、「貧」と「富」などなど。
こんな感じで、全てのキャラを二つの漢字で表現しています。(まあ蹴と殴は逆ではないですが。)
少女という「イメージの存在」そのものが、たくさんの矛盾の二律背反を抱えています。そのあぶなっかしい綱渡りこそが魅力であり、恐ろしい所でもあるのです。
では問題の風浦可符香はどうでしょう。

「躁」と「鬱」
実は今までのOP(第一期・鬱、第二期・躁)は彼女の内面そのものだった、というわけです。
上の二枚と見比べると分かりますが、この観客席には可符香しかいないのがまた象徴的で、不気味ですね。
 
風浦可符香は本名ではありません。ペンネームです。いまだに正式な本名はわかっていませんが、一応マンガをよく見ると「それっぽい」のは出てきています。でも確定ではありません。
今回はアニメ本編でもちらっと出てきています。

この子が可符香の幼児期であることは多分間違いないでしょう。名札には「あん」と書かれています。
まあでも、推測の域を脱しません。割と主人公の先生に関しては謎は比較的少ないのですが、風浦可符香に関しては謎しかありません。
そんな彼女の心理状態を覗き込んでみましょう。
 

●少女の瞳が見る哀しいサイケデリック

曲の後半から、この一人一人の紹介的なシーンが終わり、可符香と先生の二人舞台になります。
いや、正式には可符香一人のイメージの中での物語かもしれませんので、一人舞台、とも言えます。

たとえば、花畑で踊り狂う可符香。
このシーンよく見てみるとなかなか壮絶なことになっています。

実はクラスメイトの少女達の残骸の群れの上なんです。
と言っても「死体」ではないです。というのも今までの【獄】シリーズで、もうすでに一度物体化して解体されているからです。
絵の中で血が出たり内臓が出たりすれば、それは死を表しますが、このMADでは「絵を破る」という手法を使っているため、もう完全に「少女のイメージ」を物体に置き換えています。
そのため、彼女のいるセカイはとても無機的で、感覚が曖昧なものです。

先生と彼女のシーンはこんな感じです。
先生がイメージ化された、実際に生きている人間的な表現をされていないのと同時に、彼女自身もまた、物質化された特殊な存在となっているわけです。
とはいえよく見ると花は写真で「ナマモノ」なのが不思議ですね。
 
この背景にあるのは「嘘」と「真」
ここにもまた、アンビバレンツが生じます。
アンビバレンツを受け入れるには戦うか、もしくは完全に形骸化してしまうかどちらか。
どうやら、可符香が普段見せているポジティブは、とてつもない絶望と不安からの逃避行動として「何もかも無機質」「何もかも無意味」とすり替えているのかも知れません。

まあ、OPというある意味「プロの二次創作」による解釈なので、それが一概に正しいかどうかもわかりませんが、今まで見てきたとおり世の中すべて二律背反。それがAとBにはっきりわかれるものではなく、その中のいずれかがぼんやり浮かび上がって人は生きるもの。
普段は首をつっている先生が今回は首をつらず、可符香が首をつっているのは非常に象徴的です。そして今まで無機質だったものが、どんどん生きた花に変わっていくのもまた、気になるところです。
 
はりぼて状態で無機質だったセカイは、ひょっとして「鬱」と「躁」の波を乗り越えて、息を吹き返そうとしているんだろうか?


OPによって描かれた、可符香の見るセカイは、今何色なのか分かりません。
 

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こうして改めて「風浦可符香視点」で見ると、俗のOPでどんどんフィルムが色あせていったことや、最後にフルカラーになったことも納得がいきます。
逆に「先生から見た風浦可符香」という視点で見ることも可能だと思います。そうしてみるとまた一層違った見え方になりますが、「下」のOPでは一瞬、うつむいて泣いている?可符香のシーンがあるんですよね。
物体化していこうとする可符香、生の象徴たる花を守ろうとする絶望先生、このあたりが読み解くカギになりそうです。
共生か、共依存か…。
本編ですが、3本だての3本目が強烈な展開で驚きました。くわしくはコミックス描き下ろし部分を…。
 
追記(2/20 13:16)
WEB拍手より。

>観客席には可符香しかいない
「観客席」ではなく、出演者用のひな段ではないでしょうか。
直前のシーン、例えば千里はナイフ投げの格好をしていますし、カエレは空中ブランコに乗ってたりするので、あるサーカス団の出演者が一人ずつ登場してひな団に整列していく…という風に自分は思えました。
(最初に"Even So The Circus Will Come for you"もありますしね)
で、それを受けて、先生と可符香のシーンでは個々のアップが先生=ピエロ、可符香=団長?になっているのではないかと。
それであっているとすると、先生がピエロでしかなく可符香こそが団長だっていうのは象徴的かな、と。
 
>「先生から見た風浦可符香」という視点
先生と可符香のアップのシーンでは先生の背景が「私」で可符香の背景が「君」なあたり、むしろそちらが見易い見方な気もします。

「Even So The Circus Will Come for you」は「註」でも使われていましたね。
ひな段かあ、なるほど。先生にとってこのセカイはとても無価値で意味のないモノに思えるけれども、可符香がいることで生き生きとした花が見える、という視点はあり得そうです。
泣いて伏せっている可符香のシーンがえらく気になるところですね。これが「可符香の心の中」としてみるか「先生から見た一人の少女」と見るかでまた見え方が変わりそうです。
  

初めまして。いつも楽しく読ませていただいてます。
獄・さよなら絶望先生 下のOPの筋肉少女帯パロディについてですが、
 
大切な嘘
いつかは
朽ちる
だから アレです
先生の絶望を総て
貴女にあげます
 
「大切な嘘いつかは朽ちる」は「月とテブクロ」の「大切な物 いつかは朽ちる」
「だからアレです」は「香菜、頭をよくしてあげよう」の「だから アレだ」
「先生の絶望を総て貴女にあげます」は「僕の歌を総て君にやる」
ではないでしょうか。僕も最初に見た時は3つ目しかわからなかったのですが、他の方が指摘してるのを見て気付きました。
ちょっとこじつけ気味ですかね。

ははあなるほど!こじつけではなく、それが正解だと思います。
かなり細かい部分で凝っているんですねえ…。
ちなみにこの文字出てくるのはほんと一瞬なので、相当注意していないとわかりづらいです。

さてはて、テレビ版第三期があるといいのですが…ほんとお願いしますよ。エンディングテロップ見てると不安になるんですがー。
 

コミックスは160話の出来がすさまじいと思います。ネタもそうですが、久米田先生のセンスのよさがつまった凄い回です。サーカス、パノラマ島へ帰る。
筋少ネタが今回は一個もなかったのが逆にびっくり。
あえていえば「先生の絶望を総て貴女にあげます」の部分が「僕の歌を総てキミにやる」かなと。
 
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