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生け贄少女達は暗闇の中を歩き続ける。「たんぽぽの卵 最終章#2」の諦念とエロス

とても18禁的な感じなので収納ー。
 
 

●少女の瞳に映らない、ここは黄泉の国。●

LO4月号に、町田ひらく先生の「たんぽぽの卵 最終章」の第二話が掲載されました。
念のため説明しておくと、「たんぽぽの卵」シリーズはLOで掲載され、「黄泉のマチ」という作品集に収録されています。
黄泉のマチ (TENMA COMICS LO)

オムニバス風に、少女買春組織…いや違うななんだろう?不思議な集団を描いた作品です。
今までも徹底して、男は少女を「性欲のためのもの」として扱い、少女はそれにあらがうこともできず諦めた目で見ている、そんな関係を描き続ける町田先生ですが、特にこのシリーズはその点が徹底しています。
レイプされて気持ちいい??そんなことあるわけないじゃん。
売られても感じちゃう??それは素敵な妄想ですね。
少女達は泣き叫ぶこともしません。もう完全に人間を、世界を諦めています。苦しみに悶えるよりも、濁った魚のような目で飲み込むしかない、そこは黄泉の国。
まあ、実際黄泉の国みたいなもんかもね。
 

●失った笑顔●

今回はそのシリーズの最終章、ということになっています。
それぞれの話が一応ばらばらなオムニバスになっていたのですが、それが最終章で一つにまとまっていこうとしているわけです。

第一話は、まさに文字通り生け贄にされる少女の物語でした。
掲載はLO2008年12月号です。

海なんですよ海。
漁師達にとっての恐怖は、明日死ぬかもしれないということ。
その漁の安全祈願として、少女が毎年生け贄にされる風習が残っています。
と言っても「命を捧げる」とかだと「何のための命か云々」となるじゃないですか。命なんて捧げません。ささげるのは少女の操です。
脚に重りをつけ、柱を抱いた少女を、海の中からあがってきた男衆が犯しにくるのです。
それに耐えたら、その年の漁の安全は守られる。そう信じて疑わない。
残酷ですか?命よりはましですか?
少なくともこの作品の中では、その風習が「現実」として描かれています。
この少女は、手を離してしまいました。その年から、39人が死にました。海に落ちて、死にました。次の年からお役目を全うした少女のおかげで、人死には出ていません。
ありがたいことです。ありがたいことです。

しかし、第二話でその「お役目を全うした少女」が出てくるのですが、彼女のこの一連の顔の描写が、「漁村の現実」と「少女の現実」のギャップをはっきりと描き出しています。
少女は笑えるんです。少女達は笑ったり、楽しんだり、喜んだりする権利を持っているんです。何も生まれた時から諦めることに慣れているわけじゃないんです。
ただ、諦めたとき笑顔は消えます。
目はこちらから、そらすのです。
 

●もう一つの「生け贄」●

漁村の生け贄の風習なんてファンタジーだ、と感じるかもしれませんが、淡々と語られるとその閉じた社会の狂気は「現実」になり得るから怖いのです。そして、「彼女達が色々なものを失った」のが怖いのか「風習を破って人が死ぬ」のが怖いのか分からなくなります。
それでもまだ町ではない場所の出来事のため、何か自分たちからは切り離された感じが残るかも知れません。
しかし、第二話では今すぐ横にあるのではないかと思わせる、狂った生け贄について描写されています。
それは、医療の名において行われる被験者でした。

男は性感染症にかかっています。
その男性の性感染症に伝染らないためのワクチンを開発している会社が、データ収集のために行っている「実験」です。
実験ということは、当然「比較対象」が必要なわけなので、片方は本物のワクチン、片方はダミーです。
データが取れれば、薬は開発されます。国に認可されます。
たくさんの死ぬ人々は、少女の下半身によって救われるのです。
そうそう、処女だと血が出て「傷害」になるので、集められた少女達は非少女です。
医者は言います。「非処女の小学生を集めるのが容易で助かるわ」と。
そんな少女達の視線は、どろりと濁っています。
光なんて見えない。

自分から意志を伝えず、恐れの言葉ものろいの言葉も吐かない彼女達です。諦念と言わずしてなんと言えばいいのかわかりません。
彼女が今こうして話すのも、せめて「自分は尽くすので大切にしてください」という表現です。
もう助かることはない。逃げ道もない。死ぬか生きるかもわからない。
むしろ、もう自分たちは死んで黄泉の国を彷徨っているんじゃないだろうか?
見開いていた目も、覆われて何も見えません。何も見たくありません。この男も、医師も、国も、おかしなことになっているのは分かっている。
けれども、医学という大義名分の元、何もかもの価値基準は破壊されていきます。
そして、この異常な空間の中であっても、勃起はするのです。性交はされるのです。
それはまるで、漁村の生け贄の風習のように。
 

●右目を失った少女を巡る物語●

第1話で「手を離した少女」はかろうじて生きていました。大けがをし、生死を彷徨い、右目を失いましたが。

「日本中のどこにでも咲いている」。
つまり、たんぽぽ、です。
彼女は「命が助かって良かった」と言われたり「お前が根性がないからたくさんの人が死んだんだ」と呪言をはきかけられたりしました。彼女はそれを喜びも悲しみもしません。
ただ、たくさんの絶望を背負って旅立つことだけはします。
 
実は能動的に少女が動くことって町田作品では相当珍しいことのように思えます。
いや、それでも拒絶したりせず流されるだけではあるんですが、それでも運命に抗って「ここから出よう」とするわけです。作中でもものすごく大変なこととして描かれています。
実際には捜査をすればすぐ見つかるはずですが、そこはそれ。ほら。漁村の警官達だってあれなわけですよ。話が話だから。さ。
二話でその子が出てくるのですが、話はさらに絶望感を高めていきます。彼女は赤ん坊を連れて先ほどの医師の元に来るのです。
どこまでも果てしなく広がる深淵。話が続き、彼女が救われることはあるんでしょうか。
いや、もうすでに救われようがない所に、います。
性に捕らわれた人間がうつろうのは、真っ暗闇の闇。
何処まで行っても黄泉の国。
 

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彼女は右目を失っています。腕と片足が動かなくなっています。
そして、珍しく、「毬子」と名前が付いています。
というのも、町田先生自身、キャラに名前をつけるということがほとんどないのです。

登場する女の子に名を名乗らせるのは、あまり好きではない。
名前を出す話が少ないのは、
名乗る機会が無いからに他なりません。
勿体ぶって名を出さなかった時もありますが。
(「黄泉のマチ」より)

なので、このキャラはその「いざという時の」重要なキャラ、と見ていいと思います。
 
実はこの「右目の無い少女」は「黄泉のマチ」第一話でも登場しています。

死ぬまでなんでもやっていい子だから

この少女が実際に毬子なのかどうかは、はっきりとはまだ描かれていません。
しかし「右目を失っている」という部分はかなり重要な部分だと思われます。町田先生自身もこう書いています。

この女の子は、あと数回登場する事になる。
大人になるまで五体満足のままでいられるんだろうか。

まだ分かりませんが、何かしらのつながりはあるのではないかと思います。
そうなると、「黄泉のマチ」の謎の買春組織も明確化してきそうです。
もっとも、明確になろうがなるまいが、少女はただ奪われるだけ、男はただ奪うだけ。出口はない闇の中を、この眼帯の少女がどう動くのか非常に気になるところです。
 
とても暗くて陰鬱としたストーリーなので、是非読むべきとは言い難いのですが、残念なことに、とても残念なことに、これがものすごくエロいんだな。
諦念した少女の目と、細い骨格に肉がちょっとだけついた少女の体はものすごく淫猥でしかたないのです。
どんなにそれが目を背けるほどに残酷で、汚らわしく忌むべき行為であったとしても、そこにある少女の肢体は美しくかつ卑猥。「文学的」とは言われても、ポルノでありエロマンガです。エロいのです。
それが、町田ひらく先生の描く人間の業と欲、なのです。
 

   
 
これがきちんと掲載される雑誌があるのがうれしいです。
LOはとてもロリコンに優しいけどとてもロリコンに厳しい雑誌です。
そしてそこにある欲求と、汚らわしさと、更に上回るどうしようもない欲求という現実として受け止めて「だから二次元でエロいことしたいよ!」と向き合える場所作りをしているようです。今月の号の巻末コメントの叫びがやっぱりすごかった。
 
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