たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

18禁マンガで描かれる、最大限にして最高度の少女の姿を追い求めて。雨がっぱ少女群「気狂い狩り」

雨がっぱ少女群先生が「原作・雨雲ツナミ」とのクレジット付きで復活して描かれた一作がとんでもないわけですよ。
それは、自分が求めていた「エロマンガ」というものの持つ力と、「少女」を求めて手を伸ばしたものが無数につかんだ淀みと光の塊でした。
もしかしたら、この作品を読んだLO読者の人で「エロマンガっぽくない?」と不可思議な顔をするかもしれませんが、これこそがエロマンガの可能性だと信じたいんです。
ちょいと、思い切り歯止めのきかないまま語らせてもらうぜ。
そのくらい興奮したんです。
 

●純粋の権化としての「少女」の世界●

「少女」。
それはあまりにもエロティックで、人の心を揺さぶる2文字。
究極の少女の像は、求めれば求めるほどリアルな人間からは離れていく観念的な存在であり、離れれば離れるほどリアルな人間の性を欲してしまうアンビバレンツな存在です。
そんな「少女」にエロティシズムを求めるのは、抗えないこと。
エロティシズムというのは何もセックスや性器だけに宿る物ではないのです。
存在が不安定で、人心を揺り動かすならば、それはとてもエロティック。「少女」はまさに「神聖」にして「卑猥」、「リアル」かつ「ファンタジー」な存在として求められ続けられました。
 
「気狂い狩り」は最初、着ぐるみの少女達の楽園の舞台から始まります。
純粋培養、性どころか言葉も社会性も知識も何もない、究極の澄み渡る存在としての「少女」の住み処です。

ここには少女しかいません。だから性別というものを理解する必要がありません。
 
「少女」の究極像の解釈の一つが「純粋さ」であるとしたら、それはこの世界でしょう。
今作を映画「エコール」と比較している方を多くお見かけしましたが、全く持ってその通りだと思います。

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エコールの世界は、裸で水浴びをし、何の迷いもなく日々の生活を幸せに送り、自らの美しさのみを教えられる少女だけの、作られた箱庭楽園でした。
この作品と違うところがあるとすれば、美しさを教える大人たる存在すらも、このぬいぐるみ少女達の楽園には存在しないことです。
加えて純粋さの究極像を求めた時、「少女」という存在に対してのギャップが生じます。
ここにいるのは無性の存在。「女の子」である部分が欠落するのです。
 

●「少女」の中の「女」●

しかし、それを打ち破るような存在がやってきます。
この楽園は作られた場所。それを管理する謎の大人達です。

そこに接するときに芽生える、不思議な性の感覚。
これこそが「純粋」だけではない「少女」という存在の一つの輝きでもあります。
この「純粋」から一歩階段を登った少女の羞恥の顔の、なんとエロティックなことか!
 
雨がっぱ先生の「少女」描写のすごさは、この口と瞳にあると思います。
先ほどの無邪気に遊んでいた少女達の姿は、デフォルメされてかわいらしく描かれています。
しかしこの羞恥にゆがむ顔の少女はとてもリアルです。ぬいぐるみを着ていたとは思えない生々しさ・・・そう、理想郷から現実へとスライドしています。
そのスライドを利用し、雨がっぱ先生は少女達に血を通わせます。
 
最初にも書きましたが、エロマンガにおける「エロティック」の表現はセックスだけではありません。
時にはアンモラルで、時にはその関係性が淫靡で、そして理想を求めるが故に日常の何かが壊れていく。
それらあらゆる物を紡ぎ上げた時に、エロティックさが生まれます。
子供を脱し、大人になった人にしかわかり得ない、何か。

自分が今回もっともエロティックに感じた1コマ。
小さな歯があまりにも生々しいじゃないですか。
少女側は「純粋」の権化のままなので、決してそこに性はないんです。
しかしこの絵は見ている男性視点なので、この性のないぬいぐるみ少女に対して「性」の視線を持っているんですよ。
だから、間違いなくこの子の歯を見て、この男性は性的な選別を行っています。
もちろんこの少女の性がまだ未分化であるとしても、性的な視線を持ったものに接するときに、性は与えられます。
それが自然本能的な性か、こじ開けられた性かはまた別物。
 
「少女」という理想像に対して、大人側は欲情する「女性」を覗き見ることがあります。いいとか悪いとかじゃなく、そう見てしまう瞬間があるから「少『女』」なわけです。
それなのに、身勝手なことに「少女は無垢であって欲しい」とも願います。
このギャップを埋めることは大人には困難です。
それが、現実に存在しないイメージとしての存在であるからこそ、そのギャップに阻害されて「究極」の少女には絶対たどり着けないのです。
 

●与えられる性、少女としての姿●

その後、「性に目覚めた」と思われる少女二人を連れて、ぬいぐるみの森を抜け、都会へと舞台は移ります。
ぬいぐるみの森が「その学校へ通わせるための育成機関」なのかどうかは明言されていません。
どちらかというと「純粋」と「少女」のギャップの幅そのものを表していると考えた方がよいかもしれません。
象徴的なシーンとしてこんなコマがあります。

新しい制服に身を包む少女二人。
通常であれば、とても優しく、すばらしいシーンです。
しかし、最初着ていたのはなんだったでしょうか?
ぬいぐるみです。
ぬいぐるみは脱がされ、制服に着替えさせられる。
それは、大人によって「性」という切り分けの記号が与えられたこと。
しかも制服。この作品においては、画一化されたイメージに押し込められる象徴でもあります。
 
人が少女を描くとき、「少女」の記号を用います。
少年とそれを描き分けるために使われる、少女らしい記号。
髪型?スカート?リボン?仕草?
言葉もなく、ぬいぐるみを着ていた少女達は、少年と言われてもわからないくらい性に未分化な状態でしたが、ここにきて性が分化させられます。
半ば強制的に。
 
もちろんそれがいいことなのか、悪いことなのかなんて、誰もわかりません。
しかし、彼女たちの心はそれらを拒絶するように苦痛にねじ曲げられていきます。

これは授業の内容に苦しむシーン。
周囲は画一化された「少女」の記号のみで構成された中身のない人間達。
少女を求めすぎた結果によって生まれた、「少女像」の形骸化のなれの果てです。
この数字の気持ち悪さも、学校の吐き気を催すような空気も、はりぼてのような「少女のような何か」達も、この二人の見た光景の心象風景として描写されています。そのため、実際の様子はもう少し違うのではないか、と自分は思って読みました。
 
こちら側は、「少女」の究極像を求めて純粋さを追求したり、性を押しつけたりと非常にわがままな行為を、イメージの少女に押しつけているわけです。
イメージの少女達にとってそれは、ただの苦痛の連続。
では純粋であればいいのか?
すべてを受け入れればいいのか?
イメージの少女達にも、それはわかりません。わからず彷徨う彼女たちの姿は・・・どうしようもなくアンバランスで、エロティックです。
皮肉にも、その不安定さが「少女」的に描かれていきます。
 

●エロティシズムとしての少女と、少女像の反乱●


そんな少女達でも、デフォルメされた顔に戻る描写がされることがあります。
これは間違いなく、最初の「純粋さ」の塊としての少女として描かれていた時の顔です。
今、彼女たちの中には「純粋」と「女性」のぶつかりあいではげしくせめぎ合っています。

彼女たちは、すでに大人によって「性」を搾取されています。
そこにある性行為は愛情でも性欲でもなく、「儀式」と言った方がふさわしいでしょう。
大人が「少女」の中の「女」を欲する時に、性行為によって少女から抽出し、奪い去ります。
儀式行為に蹂躙される少女の顔は、先ほどの「純粋」を失っています。リアリティを含んだ、大人から見た「女の性」を持った「少女」の顔になっています。
 
ではこの少女達を蹂躙する大人達は極悪人なのかというと、そうも言い切れないのです。
そもそもこの世界と少女達の森が何なのか、一切描かれていないため抽象的な意味を考えなければいけません。
 
「純粋」のみで構成された森。
「生徒」としての記号を与えられる制服と学校。
「女」としての性をねじ切り引き出す性行為。
 
それぞれすべてが総じて集合することで、「少女像」の完成が行われるからです。
しかしながら、それらは絶対に同時には共存できない。
何かを得れば何かを失うのです。
 

●「少女」が「少女」を求めて彷徨う●

恐ろしいことに、この作品を読んだ人間は「少女」がなんなのかを自分で探す旅に出なければいけません。

性的に奪われる少女は、とてもか細く、エロティックです。しかし生命の営みや輝きはそこにありません。
淡々と儀式のように繰り返される性行為は快感のためではなく、大人から見た「少女像」を得るための、一つの形式です。

そしてもう一人は、性から逃げ、学生であることを捨て、無垢なままの状態に戻りました。
「少女」記号の一つである生徒用革靴を学校中から集め、火を放つのです。
それは押しつけられた「少女」像から離脱する、少女の反乱でもありました。
 
どちらも、それぞれの少女が選んだ結末です。
両極端に見えますが、どちらも大人が「少女」を求める時に避けて通れないイメージです。
読者である大人は、その「少女」が何なのかを理解出来ないままです。手を伸ばして、手が届かなくて。きっと永遠に「少女」はわからない存在のままでしょう。
そしてイメージの中の少女達もまた、自分が何なのかを求め、時に作家に反乱を起こし、時に読者の脳で暴れるのです。
 
まさに今作は、雨がっぱ先生が「少女」とは何かをぶつけてきた強烈な作品。
いつまでも幸せにぬいぐるみの森で未分化の性を謳歌していて欲しかったでしょうか?
学校で性を甘受して、女になっていく過程を見たかったでしょうか?
「森で性を謳歌して欲しかった」というのもあるかもしれません。しかし、残念ながらそうすることで「森」は「純粋」を失い、たちまち学校と同じ場所になるでしょう。
幸福な「性」を得る道は、イメージ化された少女達には与えられていなかったのです。
なぜなら、それは大人が作った偽物の世界だから。
すべて。
 

●少女達に会いたくて会えなくて●

少女美への憧れは、性欲と純粋さの狭間でいつも苦しみます。
すべてを捨て去って、「かわいい女の子とエッチして、幸せ!」という二次元バーチャルは非常なる幸福です。それを描くことはとても難しく、そしてすばらしいことです。
しかし、それだけでは埋められない穴もあるのです。
 
多くのエロマンガは「エロ」を「幸せ・快感」の表象として描きます。それがあるから、ロリコンはその性欲を充足させることが出来ます。
しかし、「少女」の本当のイメージをどうしても求めたくて茨の道に踏み込んだ人間は、ブラックボックスに手を突っ込むことになるのです。なら手を入れなければいい?いえ、人間は愚かだから手を突っ込みます。そして、ほんのわずかの、本当にちょっぴりだけの、「少女」の片鱗の粉を手に入れて一喜一憂するのです
そのブラックボックスとして小説や音楽や映画やマンガがあるのですが、どうしても欠かせない性の描写として「エロマンガ」が必要なんです。
 
この作品が、LOという雑誌に載ったことに深い感銘を受けます。よくぞ載せてくれたなあと。
そしてこの作品を、ブラックボックスの中に手をつきいれたまま、苦悩の中で描き挙げた雨がっぱ先生に敬意を表します。
自分は「エロマンガ」という場が「性的に興奮させられる」場であって欲しいと願いつつも、「性のある世界でしか描き得ない人間の姿」を描く場であって欲しいのです。
今のエロマンガ界の需要を考えるとそれは非常に難しいことだと思います。だから今回のこの作品が載ったのは本当に奇跡的にすら感じます。
でも、LOと雨がっぱ先生に深く強く願います。
形骸化されない、つかむことの出来ない「少女」に挑む、冒険者としてエロマンガの世界を切り開いていって欲しい、と。
そして、エロマンガ界の幅をどんどん広げていく光明であって欲しいと。
 
雨がっぱ先生。
あなたの存在がエロマンガには必要なんです。
 

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題名の「気狂い狩り」を「ぬいぐるみ少女を狩った」と見るか「形骸化された世界と少女達を狩った」と見るかは、人それぞれ。答えは無数にあると思います。
ただ、ここに描かれた二人の少女のことは、自分は一生忘れないです。
おそらく自分も、「少女」という魔力にとらわれて、少女美学のブラックボックスに手を突っ込みかけているから。
ああ・・・彼女たちに自分が会える日は来るんだろうか。あるいは、もっと別のところに少女達はいるのだろうか。
 

 
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全然関係ないですが思い出したので。
題名の読み方の参考までに。
さてはて、誰が何を狩ったのやら。
 
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