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「サマーウォーズ」に見る、帰ってきた一匹の羊の物語〜放蕩息子と親の構図〜

サマーウォーズ」熱冷めやらず。
最初は「一回見たら完璧な意味で満足になる映画だな!」とスッキリしていたのですが、後からじわじわきますね。もう一回見に行くべきかしら。
 
さて、WEB拍手とコメント欄より。

サマーウォーズ、見ました
凄かったですけど、僕は詫助おじさんに感情移入しすぎてどうも……。
 
彼は妾の子でした。
妾の子として辛い人生を送ったのではないか……。
おばあちゃんの目はあったものの、おじいちゃんやら何やらで割りを食ってきたのではないか。
だから一山当てて他の兄弟には出来ないことをして、オンリーワンになりたくて、ただただおばあちゃんに認めてもらいたくて、山を売るという暴挙はしたものの、十年もかけて成果をだして、それでやっとプレゼントをもって帰ってきたら、大好きなおばあちゃんに死ねと言われるわ追い出されるは……。
そんなこと想像するとどうも……。
もう途中でいたたまれなくなりました。
(以下ネタバレの為中略)
もう。゚゚(´□`。)°゚。 by yatu

YAN
この前ラジオから山下達郎の曲が流れて、「また見に行こう」と思っていたところにこの記事、最高です。
サマーウォーズは夏希・健二以外にも隠れた主役が複数いて面白かったですね。
最近気づいたのですが、侘助って妾の子だからばあちゃんとは血の繋がりは無いんですよね。劇中では資産を持ち逃げしたから疎まれていた描写でしたが、もしかしたらそれ以前にも、他の親戚に色眼鏡で見られていたのかもしれませんね。(だから資産を持って一旗挙げて認められようと思っていたのかもしれません)
でも、そんなことをしなくても、ばあちゃんにとっては家族であったんじゃないかと、初めて出会ったときの手をつないで歩くシーンで感じましたね。

あまりにも苦しい立場で、悲しい人生を背負った詫助おじさん。
自業自得な所もありますが、見ていて彼に対していろいろなことを考えてしまってなりません。映画見ている最中は「それどころじゃない」し「めちゃくちゃ人が多い」ので、そこまでピンとこないのですが、見終わってから詫助おじさんのこと考えると…胸が痛いよ!
 
とはいえ、感情的に詫助おじさんの話をしても仕方ないので、ちょっとおばあちゃんとの関係を振り返ってみたいと思います。
もしかしたら見ていて引っかかった人もいるのではないかと思うのですが、例のおばあちゃんの手紙、詫助おじさんのことしか書いてないんですよね。
内容が内容ですから、全員にあててのセリフがあってもいいのに、詫助おじさんのことしか書いていない。
これって、贔屓?
 

●一匹の羊●

この作品は舞台が日本ですが、ちょっとキリスト教の聖書の中のとある話を思い出しました。アニメに対して宗教的な意義は話しても意味がないのでここでは扱いません、モチーフとしての話です。

あなたがたのうちに、羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。そして見つけると、その人はそれを自分の肩に載せて歓びます。そうして、家に着くと、友人や隣人を呼び集めて、こう言うのです。『一緒に歓んでください。失われていたわたしの羊が見つかったからです。』
(ルカの福音書15章4節〜)

すごく簡潔にまとまりつつ、分かりやすい話です。
 
おばあちゃんと一族は、大家族も大家族です。ものすごい大家族です。
血のつながりのない関係も含めたら、きっとさらに増えることでしょう。
それらの人はみな、おばあちゃんを慕っています。みんなついてきています。羊のように。
 
詫助おじさんは、自分の血筋に負い目があってなのか、意志があって反抗的だったからなのか、迷ってしまった一匹の羊でした。
結果としてケンカもします。おばあちゃんは人間です。神様じゃないですからね。
しかし、おばあちゃんの心の内はまさにこの文章そのままだったのではないかと思います。
みんなは、そばにいるからおばあちゃんの手紙はいらないのです。おばあちゃんがみんなに伝えたいことはみんな、もう受け取っているのです。
逃げることのない九十九匹を残してでも、おばあちゃんは、手紙に詫助おじさんへのメッセージを伝えることを選んだのです。
 

●放蕩息子●

ここで、手紙の中に「おなかいっぱい食べさせてあげてください」とあるのが非常に印象的です。
物語にも絡むのですが、共に食べるということは「家族」に迎え入れることそのものです。
 
同じくキリスト教の聖書の中に、放蕩息子の帰郷の物語が記されています。もう色々なところでサマーウォーズとこのモチーフの関連については語られていそうですね。
簡単にまとめてみます。
 

非常にお金持ちの親と、二人の息子が住んでいました。
弟は、自分の権利と言い張って、父の財産をもらって家出をします。
そのお金でワガママ放題をし、遊びに明け暮れる日々を過ごす弟。
しかし財産が尽きたとき、地方に飢饉が訪れ、どうにもならない状態に追い込まれました。
彼は豚の食べる豆でおなかを満たしましたが、誰も彼に食べ物を与えようとしません。
 
本心に返り、悔い改めた彼は父の元に帰郷します。
「私は罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません」と言い、父の元に戻ります。
 
父親はすぐに迎え入れ、抱きしめます。一番よい服をすぐに着させます。
「肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」

先ほどの、見失った羊の話と対になっています。
 
状況の細かい所は全然違いますが、おばあちゃんと詫助おじさんの心の中は、このやりとりそのものだったように思えます。
なんといっても、大切に育ててきたものを、食べるために与えるという行為そのものが、最大限の人間の愛情として表現されているんですよね。
おばあちゃんは野菜など、育ててきた大切なものを、詫助おじさんが帰ってきたら、たんと食べさせなさい、と言いました。
最初は拒絶する詫助おじさんも、後半のシーンで、食べるのです。
おばあちゃん側の気持ちも痛いほど分かるし、詫助おじさんの気持ちも、痛いほど伝わるシーンです。
「私は罪を犯しました」というセリフそのものは作品にはありませんが、ラストシーンで彼はある選択をしました。実際は罪ではありませんが、彼はそれを選んだ。詫助おじさんの悔恨のシーンです。
 
さて、この聖書の有名な放蕩息子の話、続きがあります。
残されたお兄さんは「あんなにワガママ放題で勝手なまねをしたのになぜ受け入れるのか分からない。自分はこんなにも一生懸命尽くし、働いてきたというのに、なぜ弟には牛を楽しむために与えるまでのことをするのか!」と怒るわけです。そりゃ怒るよ。怒りますとも。
父親はそれに対し、言います。
『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」
ルカによる福音書15章より)
 
なかなか、当てはまりますね。
詫助おじさんが最初に帰ってきたときに、家族の一部の物はものすごく嫌悪しました。あいつは財産を奪い、勝手に放浪したのだと非難します。
その通りなのです。他の家族のみんなは、色々ありつつもおばあちゃんのために、家族のために、人のために働いてきました。
しかし詫助おじさんは山を売ったお金だけ持ってどっかにいってしまったのです。当然怒るでしょう。
 
それでも、おばあちゃんは待ちました。
詫助おじさんが帰ってくるのを待ち、そして祝宴に迎え入れました。
家族も、おばあちゃんも、詫助おじさんも、心中色々あったでしょう。でもそれは描かれません。
ただ、あなたを迎え入れます、いつでも待っています、そんなおばあちゃんの気持ちだけは皆に間違いなく伝わり、詫助おじさんを包み込みました。
詫助おじさん以外の人はおばあちゃんと過ごし、おばあちゃんに見守られ、幸せでした。それで、十分なのです。
 

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別に「サマーウォーズ」はキリスト教的でもなんでもありません。どっちかというと仏教とか神道とか混じった匂いのする作品です。また説教臭くするための作品でもないです。むしろ説教なんぞ糞喰らえじゃ!と言わんばかりの暴走っぷりでした。
ただ、モチーフとしてこういう共通点があるのは面白い物です。
 
WEB拍手にもありましたが、詫助おじさんはこれから十字架を背負うのかというと…そうは思わないんですよ。ネタバレになるので書きませんが、なぜあの家族が最後にああいうまとめかたをしたのか、みんな笑顔だったのかを考えれば、それは分かるんじゃないかなと。
今、あの家族はきっと、詫助おじさんを迎え入れると思います。
畑で作った野菜や、捕ってきた新鮮なイカを存分に振る舞って、彼が再び帰ってくるのを、きっと待ってる。
 

他のWEB拍手によると、小説版ではさらに人間関係と心理状態の補足があるそうで。コレは気になります。