たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

倦怠少年と元気少女の邂逅 〜21世紀のボーイミーツガール像〜

主役なのにテツが気だるそうなのは、僕が熱血が苦手なので自然とそうなってしまっただけなんです(笑)
(『センコロール』パンフレット 作者インタビューより)

昨日書いた『センコロール』の制作者宇木さんの言葉。
ちょっとこれが妙に気になるわけですよ。
自分は「熱血は好きか?」と聞かれたら「大好きです!」と答えますが、世の中を気だるそうに斜め視線で見ている主人公に対して、やけに感情移入してしまいます。分かりやすいのは初期の頃の『涼宮ハルヒの憂鬱』のキョンですね。憂鬱なのはハルヒだけじゃなくてキョンもなんじゃないかと。憂鬱ってよりも「なんとなく日々過ごしている」、あの充足感のない感覚。ばきばきに純文系だった自分にとって、あの手応えのない日々は
 
ここで面白いのは、宇木さんは「熱血が苦手だから気だるく」と書いてますが、確かに主人公は気だるいけれどもヒロインのユキは割と熱血漢だと言うことです。
何にでも興味を示すし、やらなきゃ!と思ったらすぐに突貫できる子なんですよ。
 

●元気な女の子、けだるい男の子●

似たようなことが『サマーウォーズ』にも言えます。
夏希先輩を友人が「少女漫画のヒロインの位置」と言っているのを聞いてなるほどと感じたのですが、序盤一番テンションが高く、物語を引っかき回す(というか渦の中心になる)のは彼女だったりします。
一方、主人公ケンジは影が薄くて振り回されまくり。一応彼特殊能力持っているんですが、全然自信がなくて内気。草食男子とかどころじゃないですよ。内向的と言っていい。とても少年漫画王道の主人公ではありません。
 
同じ仕組みが『ヱヴァンゲリヲン(新劇)』の真希波・マリ・イラストリアスにも言えると思います。夏希先輩やユキほど絡みがないのでそれほど大げさには言えないのですが、立ち位置としては「自分の中から抜け出せず悶々としている男の子」に風穴を開ける、日常の破壊者なんですよね。レイとアスカは本質的には内向的なシンジと同じベクトルなので、破壊までは出来ませんから、マリの存在は大きいです。
 
ハルヒキョンの関係も似ています。正確には今まで挙げた作品とは違うんですが、序盤の立ち位置(元気な女の子、気だるい男の子)はほぼ同じ。
さらにそれを特化して描いたのが「ネガティブハッピー・チェンソーエッヂ」になります。むしろその関係を意図的にはめ込んだ作品です。

実際のところ、どうなんだろう。
諸悪の根源を倒すとか、正義のために戦うとか、いかにも抽象的で、バカみたいに大きな話で、まるでアニメかマンガだ。
本当はもっと小さくて個人的な話なんだと思うんだけど。
「実際、どうなのかねえ」隣に立つ絵里ちゃんに、なんとなく声をかけてみる。
「……何がよ」
「いや、やっぱり何でもないです」
あまり刺激しないように、そっとしておくことにした。
(『ネガティブハッピー・チェンソーエッヂ』より)

命がけでチェンソー男と戦う少女と出会った男の子の視線の、冷めっぷりが魅力的。倦怠から抜け出したい。そこに命のやりとりや社会の事情やもっと色々なことは、どうでもいいわけです。

だけども、それでも、死んでしまったって、いいんだ。
悪と戦ってかっこよく死ねるのなら、オレの人生は、それでオールオッケーなのだ。
(『ネガティブハッピー・チェンソーエッヂ』より)

達観してしまう彼の感覚は明らかに大人から見たらおかしいのですが、永遠に続きそうな日常への気だるさに対して辟易し、そこからの脱却を望むという極めて個人的な意志で動いたり巻き込まれたりする彼の思考には共感できるものがあります。
中高生時代の経験の差にもよりますが、大人になってからその時期の妙な、まるで微熱を患い続けているような倦怠感に対して「わかるなあ」と頷くか「もっとしゃきっとしろよ」と見るかで大きく視点の分かれる部分です。
そして、「わかるなあ」と共感出来る人が、確実に増えています。
 

●気だるい世界からの脱却●

「男の子の見る倦怠感あふれる世界」はラノベやアニメの共通テーマの一つになりつつあります。
同時に上の世代の人にすると、そこが食指が動かない原因でもある気もします。
 
センコロール』の場合は「能力があるけど他者とかかわりたがらない」、『サマーウォーズ』は「能力はあるけど自信が無くて踏み出せない」、『ヱヴァ(新劇)』は「自己と他者の区別の未分化な状態から、発達していく過程」。
少年の見ている世界の広さの差はあります。「センコロール」は他の作品より確実に広いでしょう。しかし「閉じてしまっている」という意味では感覚は同じです。
閉じた殻をぶちやぶらないと物語は進まず、男の子は前に進めません。旧版の『エヴァンゲリオン』はエヴァ初号機やアスカ・レイという新しいファクターがどんどん投入され、一気にシンジの世界は肥大化しました。その世界を壊そうと何度も企みました。しかし全てシンジの一部だったため、世界の枠は広がった物の「閉じた世界」の殻は一層強固になっただけでした。
それを破りにきたのが、先ほども書いたマリ。
やっぱり、「違う価値観を持った女の子」じゃないと駄目なんですな。
 
「閉じた世界の少年」と「ぶち破る少女」像でもう一つ分かりやすいのが、『惑星のさみだれ』です。

惑星のさみだれ』1巻より。
「平凡な」が枕詞になりそうな大学生の彼ですが、その「平凡」がくせ者です。読者側の中に「気だるそうで日々淡々とすごしているのが平凡」という意識が最初の時点で植え付けられるわけです。
実際の大学生の中には、ガンガン燃える熱血漢もいれば、女の子と遊ぶことにせいを出す色男もいます。しかし主人公の夕日は最初、平穏と退屈を選択しようとするわけです。世界を打ち破りたい、なんて意欲は皆無。面倒臭いのです。
ここに、ヒロインさみだれが飛び込むことで、彼の周囲はもちろん心の中まで引っかき回されて、一気に世界が破壊されることになります。下手すると文字通り「破壊」されんという方向に進んでしまうわけです。

惑星のさみだれ』1巻より。ちょっと小さくて見づらいんですが、倦怠男子と破壊する少女の構図が分かりやすい重要なシーンだと思います。

お前は飛べない
お前は輝けない
お前は愛せない
お前は愛されない
その鎖に
繋がれて
地べたで
静かに
生涯を終えろ

この後、さみだれや他の人との関わりの中で、彼は自分の殻から必死にもがいて脱却していくことになります。それは思っているよりも大変で時間のかかる作業ですが、少しずつ少しずつ歩みを進めました。
そして、5巻のP140で、ようやく一歩乗り越えるわけです。
少女のために。
いや、これは回り回って「自分のため」に、でしょう。
 
自分の世界のタガから抜け出せない人間が人を救えるわけなんてないじゃないか。
ヒーローが世界を救うのは確かにかっこいいし燃え上がるけれども、もっと身近な所、自分そのものの殻を破る決定的な何かが、男の子には必要です。かつてはそれは武器だったり、異世界だったりしました。
今は「自分とは異質な元気な女の子」が必要なのです。
 

●元気で異質な少女達●

殻を破る役を担う少女は、出来れば少年と価値観が異なっている方がよいです。
気だるい少年だから、当然元気で明るい少女が望ましい。それは「元気な女の子に振り回されたい」という受け身な欲求を満たしつつも、同時にその女の子に強制的に追いつけ追い越せなレースを強いられることで、走り出すきっかけをもらえるからです。
最終的に、その女の子を追い越してもいいし、追い越さなくてもいいです。走り出した後は「自分のために何が出来るか」を考えることが出来るようになるから。それが自力で出来ないのが「倦怠感男子」の特徴でもあります。
もちろん、「元気な少女」と言っても人間です(人間じゃない場合もあるけど)。生々しい女の子特有の感情の揺れに負けることもありますし、一人では抱えきれないものを持ってパンクすることもあります。そこで少年と同じように膝を抱えてこもってしまうのか、少年が支えるために歯を食いしばって前に進もうとするのか。進んだときに「セカイ」は壊れます。
フリクリ』のハルコさんくらいにめちゃくちゃで、文字通り振り回してくれることで動けるようになる少年もまた、いるのです。フリクリはラストのハルコさんのセリフまで一気に駆け抜けて、セカイを壊しながら少年を引き上げたステキな作品でした。

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「振りやがった…」がナオタの大きな一歩でした。彼はハルコさんと会わなければ、振らないままだったでしょう。
 
サマーウォーズ』の夏希先輩もそういう意味で非常に絶妙なキャラでした。
どちらかというと「元気少女」でありつつも、ピーチ姫的な側面も持っています。でも塔で助けを待つヒロインではないわけです、自分から「助けて、早く手を出して」と強制的に少年を動かせるヒロインなのです。巻き込みというより、振り回し。
でも振り回されて初めて動けるのなら、それで結果オーライ。ケンジは夏希先輩に会うことで、自分から動けたのですから。
 

●熱血と倦怠の裏表●

週刊誌系少年漫画だと熱血のキャラの方が多いかなとは思います。アニメ・ラノベ・月刊少年誌には倦怠少年キャラは増えている気がします。後は一人称視点で語られるノベルゲー。
この時、視点も重要になってきます。どうしても一人称だと「だるい」「面倒臭い」という言葉を吐いてしまいがち。だってほら、熱血とか恥ずかしいし…とキャラがぼそりと言うことでしょう。
しかしそのキャラに熱血があるかどうかは第三者視点と一人称視点が両方ないと分かりません。
たとえば倦怠感と熱血の合間から始まったのが「月光条例」。

月光条例』より。
彼自体は今の展開を見ると分かりますが、非常にヒーローを地で行くキャラですが、初期は事件を避ける傾向にありました。スレた斜め視点で、熱血をあまり語ろうとしないキャラでした。
しかしおとぎ話の世界から来たハチカヅキや元気少女の典型のようなエンゲキブと事件を繰り返す内に、彼の見え方は変わります。
方向を決定づけたのは、図書委員の登場からだと思います。それまではヒーローになるのかならないのかがぼんやりしていたのを、第三者である彼女視点が入ることで決定的に変化します。
もう倦怠感は打破されました。第三者視点で見られることによって払拭される倦怠感もあります。
 
「倦怠感男子」に共感するのは、その年齢を終えた男女層(20代)な気がします。
倦怠感そのものを共感するんじゃなくて「このころって倦怠感に溢れていて、妙に斜め視線だったんだよね」と懐かしむイメージです。それを破壊するのは悪友でも武器でも異世界でもいいんですが、「元気ヒロイン」が最適です。友人はそれを「『倦怠を破壊する』存在の女体化」と言っていました。あー、なるほど、実質武器や異世界と同じなんでしょうね。
似たようなものとして「理想の男像」というのもあります。少年漫画ではそれが今も強く生きていると思いますが、それは自分で動けるようになった少年に対してでなければ有効ではありません。
 
戦闘美少女の系譜と絡み合いながら、今リアルタイムで定着している倦怠感あふれる少年像。理論ではなく感覚で表現する上では欠かせないジャンルになっていると思います。マッチョな思想からはかけ離れていますが、ジュブナイルとして成長を見ていく際にはとても効果的。
そこに共感出来るか出来ないかは、作品視聴への致命的な部分にはなってきますので必ずしも「よい」とばかりは言えません。しかし元気少女と出会うことで少年がセカイからの打破を出来るように、視聴者も元気少女によって救われていくのです。まさにさじ加減次第。
どうしても見た目には「女性の強い時代のボーイミーツガール」と印象を持ってしまいがちですし、あながち間違ってはいないとも思います。
しかし、それはスタートダッシュを起こすのが男の子か女の子かの違い。倦怠少年と元気少女がお互いの関係の中で何をつかみ取るのかが、今の作品群においてもっともワクワクする瞬間です。
 
惑星のさみだれ 1 (ヤングキングコミックス) 惑星のさみだれ 2 (ヤングキングコミックス) 惑星のさみだれ 3 (ヤングキングコミックス)
惑星のさみだれ 4 (ヤングキングコミックス) 惑星のさみだれ 5 (ヤングキングコミックス) 惑星のさみだれ 6 (ヤングキングコミックス) 惑星のさみだれ 7 (ヤングキングコミックス)

今年の夏はアニメが面白すぎて鼻血出っぱなしですわ。ヱヴァ、サマーウォーズセンコロールと、3作品とも最初は少年が熱血型じゃないのはちょっと興味深い。
少年と少女の関係も重要ですが、背景の空間が狭く見えるか広く見えるかも重要なポイントだと思います。感覚に訴える部分で少年から見たセカイの狭さを描けているように感じられるなら、それは演出の腕。
 
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