たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

アニメキャラが、遠くに行ってしまったように感じる時。

友人と「けいおん!」の話をしていました。
具体的に言うと「澪の唇って色っぽいよね」という話。
 
ここねここ!
ひー艶っぽい。
 
同時に、ドキッとした、という話をしていました。
性的な意味ではないです。
あれ、この子ってこんなことできる子だっけ?という意味で。
 

●そしてみんな成長していってしまう。●


澪がかよわい女の子しているのって、とても心地よかったんですよ。
かよわい澪、暴走律、アホの子唯、お嬢様むぎ。あずにゃんが「しっかりしてください!」と怒鳴るのすら含めて、このぬるま湯がすんごく気持ちよかったわけです。
この空間は変わることがないんだ、いつまでもここにいられればいいな、と。その象徴でもあるのがこの泣き顔澪でした。
 
ところが、11話を越えて12話になり、澪はもう泣き顔だけじゃなくなり、確実に成長しているのを見せました。
それがあの、汗だくで歌っている澪の唇そのものです。
いやがることも恥ずかしがることもなく(心中は穏やかではないはずですが!)、自分達で決めたことはやり遂げようとする。
彼女が歌っていた唇は、一年前の怯えたそれとは全く別物。確たる力強さがこもっていました。目にも、光が。
 
明らかにはっきりと見える、アニメのキャラの「成長」。
強くなるとか、レベルがあがるとか、腕力がついたとかではない成長。ファンタジーではない、生身の人間らしさの成長です。
彼女たちは一歩踏み出して、前に動き出します。非常に力強く、ワクワクするシーンでもありますが、同時にもう「過去」には戻れないことも示唆します。
ぬるま湯だと思っていた世界は、別に変わるわけではありません。でも「以前のぬるま湯」はもう、戻ってこない。
 

●飛び立っていくアニメキャラ、置いて行かれる自分●

友人いわく「結婚式に出ている時の気分」とのこと。
なんて言い得て妙な…!
確かに友人の結婚式は幸せの盛りですし、お祝いしたい気持ちでいっぱいになります。おめでとう!おめでとう!
しかし同時に「自分の知らない友人」に直面することにもなります。
知らない人としゃべっていて、自分が知らない表情を見せるる友人がいるんですよ。
知らない職場の知らない世界をすいすいと泳いでいるようにすら見える友人が浮き彫りになるんですよ。
そして、知らない所に行ってしまい、自分と過ごしていたあの時間はもう、帰ってこない。
うれしいことだと分かっていても、なんだかとても複雑な気持ちになります。
すぐ側にいて、同じ目線で同じ歩調を保ってぬるま湯にいたと思っていた人間が、実は遙か前にいるように見えてしまう。そんな瞬間。
その時つい口から漏れるのはこんな言葉。
「置いて行かれた!」
 
実際に置いていったわけではないし、相手からしたら同じように見えてもいるはずです。自信に満ちて順調に歩む人間なんてそうそういない、みんな不安なんだ。
ただ、相手とのギャップを感じる「場」というのがやはりあります。それが結婚式だったり、ここで出ている学園祭だったりです。
 
同じ京アニ作品「涼宮ハルヒの憂鬱」で、学園祭ライブを描いた「ライブアライブ」は各地で絶賛されました。
自分もあのえらい正確に動きまくる演奏シーンには痛くやられましたよ! 興奮しすぎて弾けないギターを弾くくらいに。
ところが、拒絶反応も各地で見られました。別にけなしているわけではなく、拒絶です。
なぜか。
「自分達はSOS団で、どうでもいい日々をだらだら過ごしたかった。だけどハルヒは大勢の観衆の前で認められて、行ってしまった。もう自分達のSOS団、自分達のハルヒじゃない。」
なるほど。あくまでも一説ではありますが、とてもよく分かる。
 
もっともあれはキョンハルヒの後日談があるので、ハルヒが戻ってきた感がきちんと描かれていて安心できる分、ましかもしれません。
それこそまさに「友人の知らない姿」です。理解できる出来ないじゃなくて、反射的に拒絶感を覚えるのは「びっくりした」という言葉で置き換えることができるでしょう。
びっくりして、ちょっと受け入れがたくて…でも受け入れないとな、と落ち着くまで時間はかかるんです。
二次元は、裏切らないとは、限らない。視点次第で。
 

●私だけ置いていかないでよ●

アニメの話でよく出るのは、時代を象徴する作品論。
ヤマト、ガンダム、ヱヴァ…と言われて、じゃあ00年代はなんだい?と言う話はあちこちでされていると思います。自分はやっぱり「京アニ*1世代」だなあとしみじみ感じています、00年代も終わりに近づいている今になってようやく。
すごくゆったりしている、このぬるま湯でいつまでも浸かっていたい! そんな世界を「ハルヒ」や「らき☆すた」で描いてきました。
そうさ、すごく心地よかったよ!
「何も起きないじゃん」と言う人もいると思いますが、その通り、何も起きない。
起きていても実質はたいしたことではない。冒険や命の危機はない。ハルヒは非日常なシーンもありますが、気づいたら何も無い日常に戻っています。
視聴者もその温泉でぬくぬくしながら、ほっと一息つきます。ああいいな、せいせいするな。
しかし、作品内の時間はどんどん過ぎていき、キャラクターはいつの間にか大人に向かって一歩二歩と進んでいく。
あれ?待って?「ぬるま湯で過ごそうぜ」って言ったのそっちじゃないの!?と思ってももう遅い。
 
「行ってしまった」感、自分は悪いことだとはあんまり思ってないです。
ただ、切ない。言葉に出来ないその切なさの疑似体験を「日常を描く」というものすごく基本的なことによって行われています。逆に「何も無い」ことがいかにすごいことなのかに、気づかされるのだろうなと。

番外編で唯が言った言葉は、視聴者の気持ちの代弁だと思いました。
「私を置いて大人にならないでよ?」
どうしてもここで泣いてしまう。くそう、何も無いシーンなのに。
 
押井守が描いた世界の日常は延々とループし、終わらないですが、エンドレスエイトは日常の当たり前によって終わってしまいました(終わらないと困るけど!)。
それどころか、「当たり前の日常」を過ごすことで、キャラ達はどんどん前に向かって進んでいきます。ぬるま湯から抜け出して行ってしまいます。特別なことは何も無い。「普通に過ごす」ことがどれだけパワーを持っているのかを、ただ日常を過ごし一歩ずつ進んで行く姿が丁寧に描かれていることでたたきつけられます。
 
さて、置いて行かれた自分は、どうしようかね。
なんだかんだで、他の人から見たら実は伸びているのかもしれない、自分達が澪を見て「成長したなあ」と感じるように。でも自分では分からない。
アニメキャラが成長したのを見て、少しだけ切ない気持ちになる。それだけでいい、それだけで十分だ。
アニメキャラを見て「切ない気持ち」になること自体が「視聴者の成長」なのかな、とか勝手にノスタルジックに解釈しつつ、後ろ向きの姿勢で前に進めればいいな。
 

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けいおん!が好きすぎて、こんなアホな表紙なのに、この空間のまぶしさが目に染みて涙が出るから困る。
ちなみにぬるま湯のまま完結する作品は大好きです。安心出来ます。
だけど、それを維持しているように見せかけて、確実に破って進んで行ってしまう作品はどうしても記憶に残ります。日常がリアルなだけに。
らき☆すた」の、ライブ会場から帰るこなたの顔を思い出すだけで、何度でも泣ける。

*1:AIR」や「CLANNAD」ではない、社会現象的に流行った作品の方の京都アニメーション、と言う意味で。