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「マイマイ新子と千年の魔法」の片渕須直監督、講義レポート・・・映画は観客の中で完成する(2)

前の記事からの続きですー。
特にネタバレはないです。新子未見の方も映画の作り方に興味がある方には参考になる話だと思うので、見ていただけると幸いです。
 

●ノスタルジーブームにはなるべくのりたくない。●

この作品の企画があがったころ、「ALWAYS」など昭和30年代ブームが起きていたそうです。
ちょうど「マイマイ新子」も企画されたのはその時期。
しかしブームの時期に映画を作ると、公開されるのはブームを去った後に当然なります。
そこで「普遍的なものはなんだろう?」と考えたときにこの作品にスポットが当たったのが「子供時代のドラマ」という部分だそうです。
ようするに「子供が主人公の作品」で、「子供目線」。
そして「自分が子供のときにどんなものを見たか」。
 
ここで「小さい逃亡者」という映画が例に挙がりました。
主人公は子供で、シベリアにいって苦労をする様を描いた物語です。「今地球上のどこにいるか」を表現するために地球儀型の風船を持って歩いており、ぷうぷうと膨らませて人に聞くシーンがあります。
怪獣も何も出てこない作品です。これを意図して自分から見にいく子供はあまりいませんが、実際のところ「ガメラ対ギャオス」の併映だったそうで。監督はガメラを見に行ったところ、この「小さな逃亡者」を印象としてくっきり覚えることになった、ということです。
 
児童映画はそのような、見てしまえば覚える「印象」の力があります。
理由はどうあれ、見てしまえば何らかの心の栄養になる。
そもそも、子供が積極的に見に行こうとする映画は、現時点ではテレビのビッグタイトルでなければほぼ難しい時代、親に連れて行かれて『偶然見た子供』になにかを残したい。そんな思いが「マイマイ新子と千年の魔法」を作る際こめられたそうです。
そんな思いが込められて、広報部が最後の最後に作ったのがこのテレビスポット。

実際のアニメのシーンよりも、親を見た子供の印象を押し出してる変則的なCMです。
 

●「児童映画」とはなにか?●

マイマイ新子〜」は、児童映画としても作られています。
では児童映画とはなにか?

・自分が子供の頃、「自分自身」が絶対的な位置になっている。
 (本当は幼いけれども、世界に対して自分が通用し、強いと思っている。)
 
・子供の世界から見たら逆に「大人の世界」は相対的なものになるため、いびつになる。

これは自分の感想ですが、大人からの子供らしさの押し付けじゃないんですよね。子供から見た子供の視点。だから大人は「別の世界の人間」のように描かれることになります。
それを描写するには直接的に、写実的に描くだけでは表現ができません。
「自発的にイメージをする」ように促す描写が必要になります。
 

●答えのない世界●

マイマイ新子と千年の魔法」で千年前の平安時代の様子が描かれます。
はて、これを全て「観客にゆだねる」手法にしてしまうと、そんなものわかるわけがないので想像が出来なくなってしまいます。
ある程度観客の想像が及ばない部分は、しっかりとしたものを打ち出す必要があります。
 
それを描くために絵巻物などの現実の資料を積極的に用います。過去の描写は曖昧にせず、細かい小物や人物までしっかりと描きます。
具体性を盛り込んでいくことで、心に焼き付ける「依りしろ」のようなものを埋め込むことになります。
 
この作品では物語つくりの際、話のリアリティの尺度がずれないようにするため、「清少納言が8歳のとき、山口県に来ているかもしれない」という歴史的な話の裏づけを固めることで、キャラ作りが可能になりました。
というのも清少納言がエッセイストであるため、性格や生活の様子が分かるからです。
 
はて、では「この清少納言(諾子)のいた世界はリアルなのか?」と問われるかも知れません。
しかし、そこを断定しない手法がこの作品ではつくられます。構造上ゆるいところをわざと作っているのです。
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たとえばヒッチコックの「めまい」という作品では、主人公がトラウマで精神病棟に送られるシーンがありますが、退院するシーンがないまま後半普通に生活する描写がされます。これは「現実」なのか「妄想」なのか?実はこの男「退院していないのではないか?」。ところが作品中ではそれが一切、最後まで描かれません。断定をしないのです。
同じように、千年前の世界を事実であるとも妄想であるとも「マイマイ新子〜」では描写しません。
昭和30年の子が想像しただけの世界なのか?
タイムスリップしてシンクロしているのか?
それとも本当にあった事実なのか?
答えはないです。正確には「どちらでもいい」。
 
子供の頃、不思議だったり不条理だったりする感覚を手にすることがあります。
実際に大人になってから調査してみたらたわいもないことかもしれませんが、子供時代のその不条理で不思議な体験の楽しさ、心地よさ、不安定さを肯定的なものにしたい、と監督は述べます。
(「めまい」はトラウマという不安定へのマイナス的な恐怖。「新子」は不思議や不安定への肯定。)
 
「トムは真夜中の庭で」という作品があります。
トムは真夜中の庭で (岩波少年文庫 (041))
この作品での出来事は、非常に唐突に起こります。しかも説明されません。
ある意味不条理、そして不思議なんですが、なぜそれがおきているかは一切解明されない。
される必要もないのです。
 

●物語の固定化されたルールと、作品独特のルール●

児童文学作品の中には、起承転結のような「物語のルール」にのっとらない作品があります。
破綻しているのではなく、その本特有のルールがあるということが、その本「独特の香り」になり、物語のルールを適用しようとすると独特の香りが失われかねない、と監督は述べていました。
 
子供の目から見た世界では、不条理さも「不思議で面白いこと」です。
そのため、何か「物語のルール」にのらないことが起きても、「何か不思議なこと」としてそのまま推移してほしいわけです。
この「子供の頃見た不思議なこと」を描いていくには、感覚的な関係性が必要になります。
不思議さを描写するには、その映画独自のルールを作って、そこにのっとっていかなければいけないのです。
マイマイ新子と千年の魔法」はある意味、この映画独自のルールを作って、既存の物語のルールをムリに適用させていない作品でもある、ということです。
 

●質疑応答の中からいくつか。●

1、広角のカットが多い。
ロケハンで使ったカメラが広角だったため、画面そのもののつくりが非常に広角です。
これは意図的にやっている部分もあり、「麦畑や連なる雲が画面いっぱいに広がる心地よさの表現」だそうです。
実は人間の視覚は向いている方向よりもはるかに端の部分まで認識している、かなりの広角。「新子」を大きなスクリーンに映すというのは、その人間の目を通してみた、広がる世界の感覚だそうです。
ちなみに望遠レンズを多用し、圧迫感あふれる鬼気迫る画面作りを手がけたのが、黒澤明監督。
 
2、共有体験を埋める力
一緒に冒険した、一緒に行動した、というのが物語の軸になる作品は多いですが、「新子」はそうではない解決方法が用いられる場合もあります。
いわば「共有体験」がない、ということですが、人間関係について必ずしも共有体験によってあらゆるものが解決されているわけではなく、それぞれの人間が何を認識し、得ているかを想像力で埋める事ができるのではないか、と監督は述べていました。
何か危機的なことが起きても、認識がいたっていればよい、ということです。
とあるシーンでその認識がいたるのですが、それは見てのお楽しみ。
 

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以下自分の感想。
かなり「映画のあり方」についての強い意思が見受けられる作品なんだなあと実感できました。
多くの人が言う「なんで見ていて泣けるのかわからない」「なんだか感動したけど理由がわからない」というのは、この「固定化された物語性からの逸脱」からの不思議さや、「ちりばめられた情報によって受ける印象」の強さに原因がありそうです。
逆に言えば、個々それぞれが自分の想像力を使って映画を見ているため、感動するのがなぜかは全員が違うという作品なのです。
監督は「映画は観客の中ではじめて完成する」ということも言っていました。それを実践したのがこの「マイマイ新子と千年の魔法」という作品なわけです。
緻密に計算されていながら、かなり大胆に観客にゆだねるこの作品。毎回見るたびに新しい発見があるのは、毎回想像力を喚起させられて楽しめているから、なのかもしれません。
マイマイ新子 (新潮文庫)
マイマイ新子と千年の魔法  オリジナル・サウンドトラック
 
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