たまごまごごはん

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「少女素数」で徹底して描かれる少女像 〜少女を構成する「なにもかも」ってなに?〜

長月みそか先生の「少女素数」が発売になりました。
特典が欲しくて3冊買いました。全く後悔していません。ニヤニヤ。
もうね。
好きすぎて、冷静に感想を書けない。
なので今回は暴走しますし、多分一回の感想で終わらないと思いますのでご勘弁ください。
大好きなんです。この「作品」が。
モチロン漫画としても面白いのはあるのですが、これは「漫画」という形態を借りて、「少女」という一つの美学を追い求めた、芸術や哲学に限りなく近い、でも違う何かだと思うのです。
褒めすぎですね・・・でもここまで「少女」を追求し、躊躇うこと無く描いた本はそうそうありません。
 

●「なにもかも」●

What are little girls made of?
おんなのこって なんでできてる?
What are little girls made of?
おんなのこって なんでできてる?
Sugar and spice
おさとうと スパイスと
And everything nice,
すてきな なにもかも
That's what little girls are made of.
そんなものでできてるよ

マザーグースの有名な一節。この作品でも引用されています。
お砂糖とスパイスってのは非常に少女記号としてよくわかりやすいんですが、問題はその後ですよ。
「すてきななにもかも」ってなんだよ!
なんでここまできて、そこでほおり投げっぱなしなのか。
そりゃ、分からないからです。
少年もそうですが、特に「少女」という観念は昔から「分からない『素敵』な何か」で出来ています。
 
男性側の視点から見た場合、それは時に写真に納めておきたい美しい偶像でありコレクションでしょう。
澁澤龍彦「少女コレクション序説」にもあったように、いわば少女像って極めて男性の観念的なもので、チョウチョの標本みたいにコレクションしたくなる宝物なんです。見た目と存在があまりにも美しくて手をのばしてとどめておきたい、そんな存在。でも時間がたてばそれはなくなってしまうから、人形だったり写真だったり絵画だったりに必死に残そうとします。
女性視点から見た場合、自分も少女であったにも関わらず「少女」に憧れます。それは「少女」という言葉が余りにもまぶしい一瞬のきらめきだからです。「生きている」という形だからです。
 
この両面をきちんと理解しながら、「少女素数」は描かれます。
まさに素数なんです。
「少女」という観念はいろんな人の、いろんな時代の、いろんな感情の入り交じった、クリーチャーじゃないですか。
たとえば「アリス」。不思議の国をさまよったアリスはルイス・キャロルの目の前にいたアリス・リデルがモデルではあったものの、そこに「少女」という多くの人の視線がいりまじり受け皿になった結果、「アリス」は信じられないほどバリエーションに富んだ存在として、そして「アリス」という語そのものが少女を象徴する言葉として記号化されるほどになりました。そのくらい「少女像」は絡まった糸です。
 
しかし絡まった糸であるからこそ、惹かれるのも事実です。
複雑で、手を伸ばして触れようとしても難解で、なのに一瞬で消えてしまう。
この儚さが、多くの人をとりこにしてきました。自分とか。
そんな「少女」の観念を分解し、素数にしていこうとするこの作品は、小さく可憐で、なのに巨大で途方もない美的存在という山に登る挑戦。
人形や絵画や写真や映画で表現しようとした「少女」とはなにかを、漫画で描こうとする試みなのです。
 

●「少女」は完全なる清純ではない●

少女性の追求については、以前も紹介させていただきました。
少女達が持つ「きらめき」は一体どこからくるのだろうか。長月みそか「少女素数」
今回もうちょっと踏み込んでみたいと思います。出来るところまで。
 
「少女」を描くと、とてもきれいで清純な存在になるか、あるいは小悪魔的な存在になることが多いでしょう。いや、もちろん100人いれば100人の心の中に「少女」が存在しますので、分けることはできません。
ただ、重要なこととして「少女」が観念である場合は「美しさ」「かわいらしさ」でまとめることが出来ますが、観念に基づきながらも少女をさらに追求して行く場合、「性」と「気まぐれさ」は無視出来ないものになることも忘れてはいけません。
性に特化したエロマンガの少女もまた美しいのですが、それとも少し異なります。どちらかというとナボコフの「ロリータ」で表現されている「ニンフェット」という言葉が近いかもしれません。
下のコマと台詞は、この作品がいかに真剣に「少女」に向かっているかを描写しています。

「エロティシズムをまるで感じないかといえばそうでもない」
主人公のお兄ちゃんは、ロリコンではないです。普通の好青年です。フィギュアの造形を生業にしている、というのはかなり面白い設定。ようするに「美」を追求する、現代的な部分で活躍している人なのです。
だからこそ、でもあるのですが。妹達の中に眠る「かわいらしさ」「美しさ」は清純の賜物でもあるのですが、同時に女性としての性が確実にあることは絶対欠かせないことなのを知っているのです。
 
まさに、男性ではなく女性でもない「少女性」。それがエロティシズムの源泉になります。
エロティシズム=欲情、というのは少し短絡的ではあるんですが、やっぱりこの言葉を見るとぎょっとするのは事実です。自分も少し驚きました。
でも冷静に考えるならば、少女達の中に眠る美や魅力から「性」は絶対外せないんです。その性が形を無していないからこそのエロティシズム、という見方もできますが、そこは読者次第に託されたところ。
 
そして、「少女=扱い易い子供」では決してないのも魅力の一つです。
ここに出てくる少女達、とてもいい子達ではありますが、同時にものすごく気まぐれなのも描かれています。感情的になったり、急に落ち込んだりとすごく不安定。

「完全美少女」のパターンを描く場合、なかなかこの台詞は言わせないですね。少しぎょっとする言葉です。
不思議の国のアリス」も、読んだ方なら分かると思いますが「キュートな美少女」ではないです。極めて気まぐれで、感情が不安定な少女です。だから、いいんですよ。それが「少女」じゃないか?
「少女素数」で描かれる少女達は、非常にキレイな面を持ちつつも、少女特有の複雑怪奇さもきちんと描きます。そこがすごいんです。
全てを包含して、はじめて「少女」の美しさなんだ、と。
 

●少女を撮るカメラ●

この作品の描写方法、よく見るとかなり面白い描き方になっています。
基本的に主人公のお兄ちゃん視点ではあるんですが、それ以外のシーンは、少女達をカメラでとらえるように描写します。
少女達の感情は描いていても、少女側には入っていかないんです。入っていこうとしたとき、少しだけ、ほんの少しだけ距離を置いてそこにカメラを構えます。構えたカメラで、少女達の姿をとらえます。
あくまでもそこにいる少女達が、いかにその瞬間美しくいるかを、丹念に切り取っているのです。

このコマのように、絵画や写真を意識した少女像がびっちりこの本には詰まっています。
ああ、もう正直コマを一つ一つ語っていきたいくらい、すごいんだ!
このへんは「ここが」「ここが!」というのはちょっとずつ小出しにして話していきたいです。「かわいいことを意識したモデル」としての少女と、「何気ない仕草が美しいスナップ写真」の少女、両方がこれでもかと詰まっています。
 
少女を撮るカメラ目線は状況に応じてぐるぐる回転します。

非常に美しい少女像を描いたヒトコマ。
これは主人公のお兄ちゃん視点ですね。お兄ちゃんから見ても、この少女すみれはこんなにも美しいんです。まるで人形のようじゃないか。
人形のようである、と感じているのはもちろんお兄ちゃん。読者も彼女の人形のような美に酔いしれることが出来ます。
しかし同時に、すみれの中にある複雑で、でもまだ「乙女心」というには幼い感覚も表出して描かれます。そこが「かわいい」のですが、同時に「分からない」んです。特に男性には。
わからないからこそ、とりあえずこの一瞬だけはせめて切り取って写真のようにおさめておきたい!
切り取った瞬間が積み重なれば、その中のどこか一点に素数があるんじゃないだろうか??

このコマなんかはもう完全に「神の視点」ですね。誰かが見ているところにカメラはありません。窓の外ですし。
しかしこの少女あんずの最大の美しい瞬間を切り取るには、ここのアングルしかないんです。
ただ窓を開けているだけの姿なのに、夏の熱気が混じり合って、むせ返るほど少女の匂いに満ちているじゃないですか。
 

●美しさの一つは脚。●

以前描いていた「HRほーむるーむ」は4コマだったので脚がほとんど描かれませんでしたが、今回かなり意識的に少女脚が描写されています。

さっきのコマの続きですね。あんずの細い背中にも目が行きますが、絵の力点が脚に集約されています。
 
少女の脚、というのは、少女美を語るときに絶対欠かせないものです。
と、ロリコンの自分が言ってもあんまり説得力ないのが悔しいところ。ロリコンじゃない、特に女性の方で少女脚の美学を語れる方がいるといいのですが!
それはさておき、少女の脚は少年のそれと違い、また女性のそれとも違う、全く異質の存在です。「少女」という観念を考えるならば、少女の脚を外して考えるのは手落ちと言わざるをえないくらいです。
少女脚美といえば映画「エコール」は欠かせないかもしれないですね。
 
骨格の華奢さ、成長期で急激に伸びつつあるアンバランスさ、透き通るような肌、陶器のような滑らかさ。
美しい脚で、少女達は軽快に、大人の手元から逃げて行ってしまう

非常に少女の腕と脚の描写にに気迫のようなものすら感じるカットです。
これもまた、カメラで一瞬をとらえたようなコマですね。
 

●失われて完成する「少女像」●

気になるのは、この話が何処に向かうかです。
まだ素数を見つける段階まで到達していません。いや、もちろん完全に少女を理解することなんて出来ませんが、究極まで迫ろうとしているのは感じられます。
となると、少女の究極は「少女ではなくなること」にぶちあたりかねません。
矛盾しているような話ですが、「少女」は少女では無くなったときに、はじめて「少女」であったことの価値を知ることになります。失われ初めて「少女」が完成します。
そして完成したとき、二度と「少女」は手に入らなくなります。
 
異論が沢山あるところだと思いますが、いずれにせよ「時間」は重要すぎるファクター。
例えばこの作品、ずっと主人公ヒゲはやしていたのに、最後の最後でヒゲそっちゃうんですよね。
しかも少女ではなくなった大人の女性(少女を愛でる女性)が出てきて、主人公はその女性にも惹かれているという。
 
このへんを考えて行くとなんとも複雑な気持ちになります。
あんずとすみれは、今極めて美しい少女の形として描かれている。
しかし二人は時間の経過で「少女」から脱却するのか?
主人公はこの二人から距離をおくようになるのか?
どこまで少女の素数を探す旅を続けられるのか??
 
・・・ええ、答は簡単。
「考えるひまがあったら、少女を見よ」です。
長月みそか先生がどのようにストーリーを進めるかまだ分かりませんが、少なくとも言えるのは、まだまだ少女の美とか気まぐれとか、さとうとかスパイスとか、すてきな なにもかもを描いてくれるはずです。
普通であれば消えてしまう一瞬が、漫画であれば半永久的に残るんだ。
見逃すわけにはいかない、しかとこの目で少女を追求する探求者の道のりを見つめさせていただきます。
 

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好きすぎて、コマひとつひとつ、言わば写真一枚一枚について色々言いたくなるくらい!
読んでいて感動するとかワクワクするとかいうタイプの作品ではないですが、徹底した少女美追求作品の一つとして、「少女を描いた漫画」の歴史に名を刻むと思います。ソースは俺内年表。
 
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青春って、結構苦いのよね。「HR ほ〜むる〜む」
 「あでいいんざらいふ」は18禁ですが、青春期の甘酸っぱい思いを抱いた少年少女への憧憬の固まりみたいな作品集なのでオススメ。
「HR ほーむるーむ」は4コマ漫画です。こちらは甘酸っぱいというよりにが酸っぱいというか、リアルな少年少女像を描いた胸が苦しくなるような、なのに憧れてしまうような、少年少女時代を疑似体験出来る作品集。あでいいんざらいふをよんだあとのほうが、ちょっとだけ面白いです。
 
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おまけ。
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「少女美は、世界が持ち合わせた素晴らしい美の一つ」「だからそれを自然な形で知りたい」という思想は今回の「少女素数」に含まれていますが、同じ考え方でありつつもベクトルが逆方向なのが「エコール」。これも一瞬一瞬の美をがっちりとらえているものの、少女達の成長や枠からの逸脱を許さない、気まぐれを許さず「型の中の観念少女」に現実の少女を押し込みながら「少女こそが一番美しい」と歪んだ大人の目線にさらされているのが全く違う。ただし、美しさの描写には相通じるものも当然あります。見比べてみるのも面白いかと。