たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

私たちの関係は依存じゃない、だったらこれって恋でいいの?「これは恋のはなし」2巻

 
先月でたばっかりだと思ったらもう二巻ですよ!
二ヶ月連続刊行の、31歳と10歳の不思議な関係の物語です。
これは恋のはなし(1) (KC×ARIA) これは恋のはなし(2) (KC×ARIA)
 
一巻のあらすじはこちら。
31歳おっさんと10歳少女のいびつで爽やかな関係、これって恋なの?「これは恋のはなし」
 
年の差恋愛……と銘打っていますが、これすごく複雑なんですよ。
そもそも「恋愛」ってなんなの? という問いかけも含んだ極めてややこしい話になっています。
前提として以下のことを押さえておいてください。
・主人公の内海真一は一家心中で生き残って親がいなかった。
・今はひとり暮らしで、ハードボイルド小説を書いていたところ、編集に恋愛ものを書けと言われた。
・少女、森本遙の兄は不慮の事故にあって死亡、母親は心のバランスを崩して入院中。
・遙の父親は多忙で家に殆ど帰っておらず、遙にどう接すればいいか分からず放置状態。家事は家政婦任せ。
うーん。
この関係の中で二人が惹かれ合うな、というのが無理ですよ。
ただし、問題は簡単ではありません。
「恋愛」という言葉でくくれば簡単だけれども、本当に恋愛なのか?
二人は恋をしているのか?
 

●同情からうまれるもの●

基本この作品は二巻になってから、真一視点と、真一を見守る友人視線で進んでいきます。
一巻とちょっと視点が変わってシフトしています(一巻は真一とクラスメイトの少年視点)。
なぜ変わったかというと、「真一が何を考えているか」を描く必要があるからです。
 
真一は最初、遙を疎ましく思っていました。まあ、普通邪魔ですよね。
自分だったら「かわいいヒャッハー」ってなるんですが、現実問題そう簡単じゃないのは重々承知です。なんせ犯罪者通報されたらぐうの音もでないですし。笑えないわー。
しかし、遙が本当の意味で一人きりで生きてきたことを知り、一巻後半で真一に情がわきます。
ここで重要になるのは、真一は遥に恋愛感情をいだいているわけでも、依存しているわけでもないということです。
彼の感情は限りなく同情に近い何かなのです。

この会話面白いですよね。恋愛感情を持った人間の会話じゃないです。
むしろ父親や教師に近いです。導き手なんです、遥の。
遥は本当に孤独な子です。広い家に一人きりで毎日過ごしていた寂しい子です。
真一もそうでした。
遥の気持ちを誰も分かってやれないなら、俺が分かってやるしか無いじゃないか。

感情的に怒鳴り散らしたりしない真一が、遥のために父親を怒鳴りつけるシーンです。
このシーンをどう読むかは人によると思います。答えは一つじゃないでしょう。
遥に激しく思い入れがあって、彼女を擁護しているのか。
遙の状況に自分を重ねて怒りをぶつけているのか。
大人として遥にしてあげるべきことをなしているのか。
 
はっきりとした解答は作中では描かれません。
ただ、幾度と無く彼はほのめかし、それを友人二人が見つめます。
この感情は恋愛ではない。
この感情は依存ではない。
放っておけない、に近いこの感情。
でもさ、放っておけないとか、同情して気にかかるとか、それって「好き」とどう違うの?
うーん。あらためてタイトルがのしかかります。
「これは恋のはなし」
真一にとってこれは、恋なのか?
それは真一にもわかりません。

彼女が父親に愛されて幸せになったらそれは素晴らしいこと。
だけどなんだこの感情は。
恋愛なのか、親が子を手放すような感覚なのか。とても曖昧でそれは手応えがない。
手応えがないから、不安になるし、傷もつくんだ。
 

●頼れるあなたが好きです●

一方「好きになったかもしれません」とはっきり言ったのは遥の方。
真一はクールぶってはいるけれども、誰にでも優しい隠れ熱血漢です。
だからこそ遥に対しても激しい同情をいだき、彼女を守ろうとします。
真一の友人達は遥に「真一のやさしさは『誰にでも』なのよ?」と言いますが、それに対しても遥は言います。
「みんなにやさしい真一さんが、私は好きです」
 
こんなセリフ、大人でもなかなか言えませんよ。たいしたもんですよ。
ただ、問題はやはり彼女が「子供」だということ。
子供の恋愛が嘘だなんていいません。でも子供だから寂しさと恋愛をごっちゃにしているところは否めません。

このページなんかまさにそうですね。真一視点です。
孤独と寂しさから真一にしがみついてしまう遥はとても儚くかわいらしい存在です。この時の遥は間違いなく真一が好きでしょう。
しかしどういう意味で「好き」なのかほんとわからないんですよ。
このページだけ見たら、保護者としての真一を好きなように見えますね。なぜなら真一視点だからです。
でもね。
こっちを見てください。

遥のモノローグはこの作品ではほぼ入りません。
あくまでも真一から、あるいは他の人からみた遥しか描かれません。
だから彼女の本心はわからないのです。
この徹底した描写によって、遥の感情は本当に分かりづらいものになっていきます。
でもこの笑顔ですよ。これ……これはさ、好き、って言葉しか当てはまらないよ。
ただし、どういう「好き」なのかは未だ不明。
 
ここで読者の心は震わされます。
大人視点……真一視点でいけば「その『好き』はどういう意味なのか」という問いかけをすることでしょう。
しかし遥視点でいけば「好き」の純朴な一言でおさまるんです。
「好き」
それでいいんじゃないのか?
 
歳の差がなければね。
残念ながら、20歳の歳の差はでかい。
遥の「好き」は、同情目線の真一にはそうそう単純に通用しません。こんなに近いのにこんなに遠い。
しかし真一には遥が一瞬大人びて見えることがなぜかあります。
三巻以降、おそらく重要な鍵になるシーンでしょう。
遥の純真な「好き」でいいのか、真一の考え抜いた関係づくりがいいのか。
答えはまだわからない。
だけどタイトルはいう。
「これは恋のはなし」
 

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一個いいなと思うシーンがあったのでピックアップ。

真一の設定が面白いんですよ。彼は小説家です。
担当編集の旧友は煽り立てるように、遥をモデルにして恋愛小説を書かせようとします。
そして実際恋愛小説を書くんです。いわば、源氏物語の若紫のような物語を。
遥は当然意識するわけですが、そこでバッサリと真一は言います。「フィクションだ」と。
これを読んで「えらい!」と膝を打ったね!
そう、フィクションは時に現実を改めて考えさせるだけの力を持っていますが、同時に全て計算されていて現実とは全く無関係です。
フィクションはフィクション。自分がモデルかどうかなんてどうでもいい。問題は出来上がった作品そのもので、それによってリアルな人間関係がどうこう変わることなんて無い。
小説のことを意識する遙に言うセリフがまたかっこいい。

それからついでに言っとくけどな。
相手の好みにあわせて自分をコロコロ帰るようなやつに、なんの魅力も感じねーよ。
少なくとも俺は、てめーの意思もなく相手の顔色をうかがってるような女に、惹かれることは絶対ねーな

小説ならずとも、少年と真一が「どんな女性がこのみか」という話をするシーンもありますが、それも現実とは別問題。フィクションはフィクション、妄想は妄想なのです。
この会話は遙に直接言って目を覚まさせるセリフですが、同時に読者に対してこの作品のあり方を打ち出しているシーンでもあると思います。
よく出来ているなあ……じゃあ、遙の気持ちは分からないまま、じっくりと真一と遥の関係を見守ることにしましょうか。フィクションとして。

ARIAコミックスレーベルやばいです。厘のミキ先生、由貴香織里先生、なるしまゆり先生など強烈なラインナップすぎる。これ女性向けレーベルですが、間違いなく男性層も読める作品群意識してますよ。
「非日常的ガールズコミック誌」の名前はダテじゃない。ARIAから目が離せないです。