たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

小説版「まどか☆マギカ」、ここが面白かったよ。

結局友だちって何? 『小説版 魔法少女まどか☆マギカ』で徹底的に追い詰められた(エキサイトレビュー) - エキサイトニュース
 
エキサイトニュース書かせて頂きました。
 

小説版、一番驚いたのはなにかってーと、ファンアートブックのページめくったところがアレだったことです。
twitterでは見かけた気がしますが、まさかあれが・・・。あんな・・・。ありだな・・・。
 
概要はリンク先に書いていますので、もうちょっと書きたい部分を付け加える感じでメモしていきます。
漫画版の時もそうですが、「ハノカゲ版まどか」「アニメ版まどか」「小説版まどか」は別物として楽しんでます。
同じものを見ても感じ方が違って、それをアウトプットするから作品って面白いんだなあ、と改めて感じますの。
 

●精神的に逃げる場所がない世界●

ほんと徹底してまどか一人称視点で進む、ってのが何よりもびっくり。
それでもほぼ原作通りに再現されているのは、キュゥべえを介したテレパシー能力で全部まどかに丸聞こえだからです。
つーか、そのシステム怖いよ!
ようするにサトリ、サトラレの世界。ぜーんぶ筒抜けです。
最初は、ある程度「知られていいこと」と「知られたくないこと」を操作できるのかと思ったのですが、さやかが魔女になる瞬間の杏子とさやかの会話も筒抜けなので、ある程度強烈な感情が芽生えたら意思にあうあわない別として筒抜けになる様子。逆に言えば強い感情じゃないときは聞こえないみたいですが・・・。
これ怖いわー。
ようするに、逃げ場がないのか、精神的に。
 
あるいは、キュゥべえが「これはまどかに見せよう・聞かせよう」と思ったものは自動送信しているのかもしれませんが・・・あ、ソッチの方が怖いわ。GPS機能とかついてそうですね。
杏子が自分の過去をまどかに意図的に伝えるシーンもあるので、意識してテレパシーを見せることは(キュゥべえがまどかに家畜の説明をした時と同じように)可能な様子。
 
ずーっとまどか視点で、延々と脳に情報が流し込まれるもんだから、こりゃまどかさん耐えられないよなあーとしみじみ感じました。
いやもうホント無理。
アニメで見ていた時も「まどかなんもできないし変身もしないけど、そりゃむりだろうさー」とはじわじわ感じさせられましたが、さらに輪をかけて悪化している感じです。

その言葉で――
死にたい、と初めて思いました。
わたしのいる白い世界は、白なんかじゃなくって――
闇よりも濃い、底の見えない世界だと気がついていました。
真っ黒に塗りつぶされていく意識の中で――今こそやっとわかりました。
生き返っても、いいことなんて何もない。
(中略)
ふわふわと漂っていたわたしの意識は、鎖で縛られるように世界に繋ぎ止められ――
わたしは……死ぬことができなかったんだ、と悲しくなりました。

まどかさんが死にたがるのを明言するくらいです。
上巻のマミさんショックから、まどかの心は下降しまくる一方。なるほど、小説版ではあそこが山のてっぺんなのかしら。
さやかと杏子の殺し合いでまどかの心すでに限界にきてるんですが、そこから更にマイナスにマイナスに向かっていく様子が描かれています。
死にたいって言っているどん底からさらに下降しますし。すごいね。
このへん、絵のようなストレートなショッキングさと違う、文字媒体ならではの窮屈感、追い詰める心理ががっちり描きこまれています。
なので、まどかの最後の悟りの部分、決断の部分は勇気とか正義とか通り越した、狂気のようにすら自分は見えました。
 

●「友達」●

ただ、その狂気のような重荷をつなぎとめているのは、この小説のテーマになっている「友達」という言葉でした。
いやー。友達ってなんだろうってずーっとまどかが考えているんですが、その不安定さがもうね。
いいんだ。すごく。
オリジナルでさやかとまどかが幼い頃のシーンが追加されているのですが(しかもイラスト入り!)これがめっちゃかわいいのですよほんとほんと。
大人からみたら、こういうつながりがあって、今も一緒にいるんだから「君たち友達だろう!」って言いたくなりますが、それができないから子どもというか、少女なんよなあ。
まどかがさやかに対して抱いていたのは、自分のことなんて信頼してもらえていないんじゃないだろうか、邪魔なんじゃないだろうかという過剰な不安。なるほど、大好きすぎて、だから怖いのね。あるある。
加えて、さやかが魔法少女になって離れていくこと、自分が弱虫で逃げていることを嘆きます。このへんはアニメと一緒なんですが、さらに卑屈というかへこんでいる感じ。
 
だからこそ、ラストのまどかさん、「友達」に最後までこだわります。
「友達」って、ほむらのことだと思っていたのですが、それだけじゃありませんでした。
まどかの考える「友達」はもっと規模がどでかくて、しかも「友達」のハードル超高いです。

そのすべてを受け止め、抱きしめて、わたしの痛みへと変えていきます。わたしの傷へと変えていきます。そしてその苦しみを、澱みを、愛おしいと感じ――生きていることそのものが、わたしの中に積み重なっていくことを愛おしいと感じ――そして、友達が抱える苦しみをともに味わえることに、感謝していました。

このへんの傾きっぷりというか突き抜けっぷりが、すっごい少女感覚。理論より感情なんよなー。
言葉にするとなかなか強烈ですね。ただこのくらいいってしまってないと救えないのも確か。
少女の感情エネルギー、尋常じゃないです。
個人的には「救済しよう」というイメージではなくて、「友達」という年相応のイメージなのが、好きです。
そうよね。完璧じゃないのよね。彼女のなかの精一杯。
 

●まどか一人称視点「です」、ほむら一人称視点「だった」●

まどか視点がほとんどなんですが、アニメ10話パート、ラストパートはどうしてもほむら視点で描かないわけにいきません。
そんなわけで使い分けられているのですが、まどか視点は「です・ます」の丁寧口調。ほむら視点は「た・だった」の言い切り。
これいい具合に個性分けられています。眼鏡ほむらを考えると最初驚きましたが、なかなかどうして、そちらのほうがあっているなと。何もかも不安で未来に希望が見えていなかった彼女の雰囲気と、言い切りのバッサリ感は意外とぴったり。
 
終盤、まどかとほむらと世界の言葉がどろどろに溶けて混じり合っていくのは見事でした。
これ説明難しいので、読んでみてください。
人によっては狂気的に見えるかもしれないですし、LCLみたいになっているようにも見えるかもしれません。それも見え方としてはありだと思います。
 

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読み終わって、ぼーっと考えていたこと。
ほむらとまどかがひとつの結末を迎えてよかったな、というのと同時に。
まどかとさやかが相互理解できる世界、お互いの気持ちを吐き出すもう一つの別の世界が、見たいなと。
さやかちゃんとまどかの二人が幸せになれる世界、見たくて仕方なくなりました。
ぼくは、ですけどね。特段さやかびいきな作品というわけじゃないですし、杏子とさやかもちゃんとぶつかりあってますし。上条君との話も小説版独自のいいまとめになってますし。
でも、だからこそ、友達がテーマな作品で、ひとつの彼女なりの解を見つけたからこそ、まどか・さやかの関係がもっと見たい!と感じましたよっと。