たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

『こどものじかん』と、少女幻想の終わり・スティルナハト2

こどものじかん、ついに完結。
 
あとでちゃんと書こうと思うんですが、これ忘れないうちに、と思ってメモしておきます。
卒業と、心身の成長と、おとなになること。
こどものじかん」は、こどもではなくなることで、完結です。
青木先生も、りんも、レイジも。
 
で、九重りんに色々あって、その最中初潮がくるんですが。
その間のページの描き下ろしがこれですよ。

やられた!
私屋先生、やられたよ!
 
まっさきに思い出したのは、ブラザーズ・クエイ『スティル・ナハト2』でした。

どうとでもとれる作品なので、解答はないんですが、暗闇の中に眠る少女のエロティシズムが引き立つ作品です。
「似てない!」っていわれたらまあそれまでなんですが、もうぼくはこれしか思いうかばない。
 
「スティルナハト2」自体が、少女時代の混沌の感覚と、それを大人が覗き見るエロティックな感覚の作品です。
それって、表立って描かれなかった「こどものじかん」の内容そのものだと、僕は思うのです。
どうすればいいかわからないりんがいて、エロい目と保護者視点の両方で読む読者がいて。
 
また、「スティルナハト2」の少女はどんどん膨らみ、成長します。
この感覚が不気味でもあるのですが、妙な生々しさ、生きている感覚もあります。
「成長するから少女は少女たりえる」という部分だけを切り取った短編映画。
 
こどものじかん」もまた、成長するからこそ少女が少女であることを、最終巻ではっきりと描きました。
ラストのりんに関しては賛否両論ありそうですが、物語としてはもう、心から祝福できるものでした。
9年間(掲載期間)だもんなー。感慨深いですよ。
 
「スティルナハト2」との決定的な違いは、足元のバラの花。
間違いなく生理を表現しています。これはスティルナハトにはない。
「スティルナハト2」が人形を用いて、少女が「成長」で失われる、少女幻想を描きました。
私屋カヲルはこの絵の中で、比較的ストレートに、もっと女性的感覚で「身体が変わる」ことを表現しています。
人形ではない、一人の人間であることも。
ようは、……これはラストシーンのりんの表現にもつながりますが、「少女」をつなぎとめておきたい、という男性の「少女」への感情に対して、「こどものじかん」は、少女はいつの間にか大人にもなるし、いつまでも少女たりうる、というのを示唆しています。
もし「スティルナハト2」で血が流れていたら、完全な少女の消失に見えますが、マンガとして続く「こどものじかん」は、スイッチオンオフみたいに簡単に少女でなくなるわけではないです。
 
このへんはあくまでもぼくの感覚なので、この2つの構図を比較し、描かれている感覚の違いを見て欲しかったのです。
おそらく100人いれば100通りの少女像があって、この1枚の絵だけでもいろんな捉え方があるはず。
物語自体は前と変わらない熱血教師ものですが、最終巻ということもあって、色々考えさせられます。
私屋カヲル先生のこの絵を、「スティルナハト2」と比較することで、りんがいつまでも「少女性」という第三の性をもっていることを描きたかったんじゃないかな、とふと考えてしまうのです。
 
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そういや、『仮面天使』とか『放課後チルドレン』と改めて比較してみるのも面白いかもしれない。