たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

どうしても「面白いよ」が言いたいから生きてる

 
オタクは……と言いたいところだけど、今回は「大勢」の問題じゃないので、「ぼくは」にしよう。
 
ぼくは、面白いなあと思ったら、どうしても人に言いたくなる。
音楽、マンガ、小説、アニメ、映画、ゲーム、その他なんでも。
「これ、こんなに面白いよ!」
まあ、タラちゃんがサザエさんに言うようなもんだよね。
 

                                                                                                                                          • -

 
でも、「面白いよ!」を言うのが必ずしもプラスとは限らない。
少なくとも「まるっきり同じ言葉」を誰かれ構わず話しても、絶対意味は無い。
この人はこういうのが好きなんだろうな、だったらここから話そう。
段階を積んでいかないと、プレゼンテーションはできない。
 
それどころか、言うことで腹をたてる人だっている。
いわゆる「地雷」。
そんな地雷どこに埋まってるかなんてわかんないからね。
踏んじゃったらごめんねーくらいですよ。
 

                                                                                                                                          • -

 
ここまで考えると、「これ面白いよ!」をいう必要ってあるんだろうか?と首を傾げてしまう。
 
そう、無いんだよ。
 
その人が必要としている情報をプレゼンするのは、意味がある。
でも自分が好きなだけだったら、「これ面白いよ!」はマイナスな場合のほうが実は圧倒的に多い。
 

                                                                                                                                          • -

 
話さなきゃいいんだよね。
そうすれば誰も困らないし、誰も傷つかない。
 
なのになんでかわからないけど、話してしまう。
「これ面白いよ!」
「あなたは好きかどうかわからないけど面白いよ!」
「こんなにも面白くてたまらないよ、我慢できないよ!」
 
心のなかで「ごめんね」と思いながらも言ってしまう。
自分が、その「何か」を好きで仕方ないから以外のなにものでもない。
 

                                                                                                                                          • -

 
庵野秀明は自分の作品を「オナニーショー」と言っていた。
うん、わかる。宮粼駿もそうだと思う。
ただ、彼らはそれだけの努力と才能を積んできているから、それは「オナニー」じゃなくて「ショー」になりえている。
むしろ、変に気を使うより、めちゃくちゃ弾けてオナニーしてほしいもんね。
 
「これ面白いよ!」も結局はオナニーなんだよなあ。
というか、そうじゃない提灯的なもの出しても、誰も面白く無い。自分も相手も。
その人が最高に気持ちよさそうなオナニーじゃないものは、惹かれない。
 

                                                                                                                                          • -

 
少なくとも、ぼくが好きなのはそういう、究極の自慰を求めるべく試行錯誤したものや、咄嗟にこぼれだした「好き」の我慢汁。
広げて言うと、「表現」の一部ってこれだよね。
 
このへんは人によって好みはわかれると思う。
「もっとサービスしろよ!」という人にはサービスしたものが必要だろうから、それは表現というより「技術」が近いかもしれない。
どっちがすごい、じゃなくてね。
 

                                                                                                                                          • -

 
で、だ。
ぼくはわがままなんだよ。
誰かが「別に聞きたかないよ」といっても、「これ面白いよ!」を言わないと生きて行けなくなった。
でも最初に書いたように、それが不幸でしか無いことは絶対ある。
 
だから、「表現」と「技術」両方がほしい。
どっちが先でもいいな。でもできれば「好き」にブーストかける「表現」が先で、「技術」でデコレーションできればベスト。
ただこれって、一旦自分の「好き」を止める必要があるので、こういうブログ以外ではなかなか難しい。
 

                                                                                                                                          • -

 
実は「技術」を身につけるのが先のほうが、楽だったりする。
楽は言い過ぎか。うまくいく、くらい。
 
たとえば三題噺みたいなのね。
あるいは「今日は赤いものを探そう」と言って町中を歩く。
意外と赤があって、それについて書くだけで技術はあがる。
視点の切り口を増やすってことです。
 
「表現したい思い」が素材なら、「技術」は包丁。
いきなり相手にトマトそのまま出されたって相手は困る。
包丁だけ出されたって困る。
包丁をもってトマトを切って渡すから「じゃあ食べてみるか」となる。
 

                                                                                                                                          • -

 
だんだんね、その調理自体が面白くなるんだよ。
 
最低限「表現したい思い(素材)」があるのが最初。興味のないものを表現することほど無意味なことはない。
最初は、ぼくは表現したい思いだけぶん投げていたので「いやつまんないし」と言われてどれだけへこんだかわかんない。
(ここでへこんだから、ああ技術って大事なんだなとわかったんだと思う)
 
同じトマト(好きなもの)でも、切り方や調理法(技術)で、色んなモノができる。
切ったトマトもおいしいし、ミートソースもいいし、焼きトマトもうまい。
これだけで3通り。もしかしたら好きな人が食いついてくれるかもしれない!
サラダ(別の視点)にいれたら、もっといいかもよ!
 
楽しいんだよ、調理が。
 

                                                                                                                                          • -

 
一時期はこの「調理」が楽しくなりすぎて、「好きなもの」を見失いました。
 
からっぽです。
 
鬱みたいなもんだろうね。
すっからかん。何をやっても楽しくないし何を見ても面白く無い。
やりすぎはよくない。
 
そういう時は調理をやめて、トマト(好きなもの)をひたすらかじる。
かじってかじってかじりまくる。
たまにきゅうり(別の好きそうなもの)や、あるいは肉(全く別ジャンル)をかじるのもいい。
ふっと、その瞬間に、好きなモノが蘇る。
 
ぼくは調理のためにトマトを集めていたんじゃない。
トマトが好きだから調理していたんじゃないか。
 

                                                                                                                                          • -

 
何度でも言います。
「これ面白いよ!」は、人のためにはなかなかならない。
けれど「これ面白いよ!」を表現するために、視点の切り口をいれて、読み物やマンガや音楽として表現したら、それはもう「作品」。
 
二次創作? そうだね。
でも二次「創作」なのを忘れちゃいけない。
 
それは、ぼくの「好き」だ。
誰にも犯されることはない。
ただし、食べてくれる人……伝えたい相手を必死にイメージして、出来る限り手を入れて、調理したい。
伝わったら最高だけど、伝わらなくてもいい。
「へー」くらいまでいければ儲けもの。なるべく深いりはしない。
もちろん興味をもってくれて、話せる相手がいたら、友達になりたい。教えてと言われたらいくらでも教える。
 
その時も、閉じた空間で「いいよね」「いい」じゃなく、もっとオープンに、多角的に見られてば、きっと好きなモノはもっと好きになれる。
 

                                                                                                                                          • -

 
最終的にたどりつくのは「自分が好き」だと思う。
 
こう書くと自分勝手に見えるかも。でも「自分が好き」って胸張って言える人なかなかいないよ?
ぼくはまだまだ無理。
自分のことは嫌い。好きになれない。精進しないといけないなって思う。つらい。
ただ、好きなモノを見つけた瞬間は「生きていてよかったな」って思える。
 
それを、ある程度年取って、何らかのカタチで伝えられた瞬間。
本当に生きていてよかったな、っておもう。
「これ面白いよ!」が料理になったら、嬉しいじゃん。
同じように「これは許せない」「これは耐えられない」を、悪口ではなくエンタテイメントとして料理して伝えられる人も、すごいんじゃないかな。
 

                                                                                                                                          • -

 
アスカ「またあんた、そうやって自分の傷をなめようとする。あんたの好きなものは、人が嫌いなこともある。あなたは他人じゃない」
 
ああ、アスカ、誕生日おめでとう。
そうだね、でもぼくはぼくで、他人は他人だ。もう傷はなめない。
 
アスカ「あんたより優れた人はたくさんいる。あんたよりうまく調理する人はたくさんいる。そんな中でなぜあんたは必死になるの?そんなにも自分の中にいる、他人という虚像にすがりつきたいの?」
 
そうかもしれない。
ぼくの前にいるのは虚像じゃないよ。生身の人間だよ。相手を傷つけるかもしれないし、自分が傷つくかもしれないけど、ぼくは表現がしたいんだ!
 
アスカ「自分を好きになれない人間が、どれだけ「これ面白いよ!」と言ったって、それは作品にすがっているだけ。まずは自分を好きになりなさい。でなければ、好きだと思っているだけのものと一緒に死になさい。私は、自分を好きにならないあんたとだけは、一緒に「面白いね」っていうのは、イヤ」
 
 
おわり。