たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

それでも、それでも、光画部はパラダイス。

以前書いた「戦ったり楽しんだりオタクって忙しいのかな。」の記事でいただいたコメントに非常に感銘を受けたので、とりあげさせていただきます。
 

光画部さえあればいい。●

ドニー 『私たち第1世代にはげんしけんは必要ない。光画部さえあればいい。アンドロイドは自分がアンドロイドであることに疑問も疑念も後ろめたさも抱かない。ただ自分が人間ではないと知っているだけ。人間の皆さんに対しては、アンドロイドのノブリス・オブリージとして炊飯器とお米を常備し、おなかが空いたらそれでご飯を炊く。それだけのことです。おわかりですか?
「うるさい、お前なんかロボットだ」
とほほ。』
コメント欄より)

文章めっちゃうまいなあ。ものすごい納得のいく文章なのです。
以前も書きましたが、自分が人生で一番最初に買ったマンガは「究極超人あ〜る」でした。連載中にリアルタイムには買ってないんですけどね。確かパトレイバーが始まってた頃だと思います。
もうね。この空間に心の底から入りたかった。今でも入りたい。
確かに「げんしけん」もいいなあと思うし、ああいうサークルになってのほほんと暮らしたいと思います。が、光画部に入りたい気持ちとは比較するベクトルが違うんだな。
ちょっと光画部についての思いを書いてみたいと思います。
 

光画部の魅力ってなんだろう。●

一応簡単に書いておくと、ゆうきまさみ先生のマンガ「究極超人あ〜る」に出てくるグダグダ写真クラブが、光画部です。アンドロイドもいれば幽霊もいます。でもそれらがいても違和感がなく、なんか妙に生々しいぐだぐだ感のあるマンガでした。もう20年も前のマンガなんだなこれ。今でも全然色あせていません。

究極超人あ〜る」と言えば、まずはこのぐだぐだ感と、鳥坂先輩
傍若無人、自己中心的。ものすごく強そうで、そうなのかどうかもわからない。けど多分強い。強いって何に?
とにかく面白そうと思ったことはなんでも行い、絶対に後ろを振り返らない。ポジティブというか暴走というか、めちゃくちゃなんだけどやっぱり彼を見ると「先輩!」「鳥坂さん!」と叫びたくなる。なりませんか?
先輩と言われたら「鳥坂さん?」と応えるのが宇宙の法則世界の基本。とっくのとうに卒業しているうえに、彼よりも上の代の先輩もいっぱいいるのに、「鳥坂さん」は誰よりも「先輩」です。
彼は光画部のことを絶対否定する方向の形をとらないです。自分の行動も間違いを認めるなんてことはありえません。彼の辞書からは「不可能」「否定」「過ち」「失敗」「負け」なんて言葉がことごとくすっぽり抜けているんでしょうネ。
そして、自分たちは鳥坂先輩にあこがれるわけです。裏表のない性格と機関車みたいな頼りがい(?)のせいもあるのかもしれませんが、自分を考えるなんてことすらしないその姿が本当に気持ちいいんですよネ。

そして、そこにナチュラルに、アンドロイドのあ〜る君がいる。このコマ大好き。
ドニーさんの意見を読んで「自分の存在意義や価値なんかをぐだぐだ考える必要すらないのが「この場所にいたい」という魅力なんだ」と気づかされました。あ〜る君をはじめ、どのキャラも自分のことをどうこう考えたりせず、ただ楽しんでいます。だけど「光画部」の誇りは、どの部活にも負けてないんです。

かといって、過大評価しすぎるわけでもないんだな。
「自分達は光画部である。それ以上でもそれ以下でもない。」
 

●時々落ち込んだりもしたけど、オタクは元気です。●

あつのしん 『もうちょっと強く言うと、「第一世代が貴族で第二世代がエリートだと言うなら「オタク・イズ・デッド」じゃない、「オタク・デモクラシー」だ! やっと我々平民の下にオタク文化が届けられる時代になったのだ(Amazonの箱に入れられて)。」』
コメント欄より)

これもまた面白い文章。最近コメント欄にステキ文章書いてくれる人が多くてうれしくなっちゃいます。本当にありがとうございます。
平民ってのは面白い表現で、特になんらかの意識を持っているわけでもない、サブカルチャーが大好きな人たちがいるってことだと受け取りました。
特に義務や責任は特に感じてはいない。そこまで苦労することはできないけれど、手軽に楽しみ元気に暮らせるオタク文化が広がっているんじゃないか、と言われると確かにそんな気がします。何回も書いてる、篠房六郎先生のマンガの後輩達がそれに当たるのかな。
なんだかんだでそんなに捨てたもんじゃないオタク文化。決して活気がないわけではないです。在にこうやって楽しんでますしね。自分。ただ、時々「自分オタクだよなあ」と認識しながら、楽しいことをひたすら探しているだけ。
なんだかこうしてみると、やっぱり光画部みたいですね…ん?あれれ?
なんだか「オタク・イズ・デッド」で語られていた「貴族・エリート」の世代区分がだんだん曖昧に見えてきました。
 

●世代を超えて楽しみたいもの●

オタクのなりそこないであるところの俺がオタについての話に対して抱くもの(瀬戸風味@はてな)

というか、上だろうが下だろうが押してようが引いてようが「作品語り」をするあるいは聞く、読むのが俺はものすごく好きなんだけど、それは異端で、今はそんなことよりも上下や押し引きのほうが優先度高いのかあ、と思わざるを得ない。

非常に納得させられたお話。なるほどなあ。自分も「語る」人が大好きなんだけど、色々余計なことを考えすぎていた気がします。素直に「語り合おうじゃないか!」という人にとってみれば、世代とかあんまり関係ないんですよね。それこそ1世代から3世代とかありましたが、どの世代も多くの人は好きなことを楽しくやりたい気持ちには変わりないかな、なんて思いました。
実際のところ、世代を超えたオタク論議はやりたいものです。もちろん2.5世代くらいのあんまりたいしたことなく脳のよろしくない自分なので、上の世代の方の話を聞いてみたいというのもあるし、「いまこんなに面白いものあるんですよ!」と語りたい気持ちもあるし。
はて、世代を超えてみんなが共にいた場所といえば、・・・光画部じゃないか。
 

光画部よ永遠なれ●

終わらない日常なんてないわけで、いつしか年をとり、世代も交代し、好きなアニメは別の波にとって変わられるかもしれないなあ、なんてぼんやり考えたりしました。なんかロマンチストだゼ。そうですか?
だけど、そのとき楽しかった気持ちは本物なわけだし、きっと大事にとっておくんだろうなとも思います。世代を超えて話を聞きたいし語りたいなあなんて思うのでこうやってブログも書けてるし、見てくれている人が自分より年上か年下か分からないのもいいよね。
ただ、それにかまけてしまうと視野がせばまる可能性もあるので、時々ぴしりと引き締めなきゃナと思ったりもしますが。このへんが義務感ってやつなのかなあ?
オタクをやめるという選択肢はもう諦めました。生まれたときからオタクです。
ただ、これだけは間違いない。

分かったよ鳥坂さん!そうやって生きてく!
魂の部分が光画部にあれば、一生オタクを楽しめそうな気がするのです。
 
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