たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

子供に感じる異質が怖い。「誰かがカッコウと啼く」

●実は私、赤ちゃんが抱っこできないんです●

実は最近まで、私赤ん坊が苦手でなりませんでした。
泣くからとかおむつ面倒だからとかではありません。
赤ん坊ってね、ぷにぷにしてるじゃないですか。アレを見ると芋虫思い出しちゃうんですよ。で、芋虫って針とかさすと、プチューって汁が漏れてくるじゃないですか。あのいやな感覚を思い出しちゃうわけですよ。赤ん坊をぎゅってしたら、じゅるじゅるって汁が出そうで、もうほんと怖くて仕方なかったです。すっごい力いれたらつぶしそうで怖いんですよ。
自分だけ?
元々自分も赤ん坊だったわけですが、もうその頃のことなんて覚えてないし、自分に赤ん坊がいるわけでもないから感じることなんですが、赤ん坊に対して「違和感」を自分は時々覚えます。実際に子供できたらそんな感情は消えるんだろうけどなあ。まあ、うん、変なのはわかってます。
 
子供達の世界や会話がわからない。そんな風に感じる瞬間がある人も多いようです。もし感じたことがある人がいるならおすすめしたいのが、イダタツヒコ「誰かがカッコウと啼く」です。
 

●子供が怖い●

子供達の会話は、大人となった今ではそのテンションについていけなかったり、ふとした瞬間の気まぐれっぷりに翻弄されたりして、強烈なカベを感じることがあるかもしれません。
子供らしさ。子供の視線。
もちろんそれらは今までも持っていたのに、なぜか大人になってからだと理解しえないこともあるかもしれません。それが、この作品の主人公作馬先生です。

子供はかわいい。
「かわいい」という表現はある意味自分とは「異種である」と言う風にも置き換えられます。
もちろん、「子供怖くないじゃん、大好きだよー?」という人の方が多いと思いますが、ここであえて、この作品では「でも、もし子供が自分とは別のものだったら?本当に子供の視点があなたには見えるの?」という仮定で話が進んでいきます。
普段気にしていない子供の目。仮に、仮にでいい、その視線が見ているものが自分と違うのなら、どうだろう?
子供は純粋だというけれど、その純粋さが自分には理解できないとしたら。気まぐれだというけれど、それが全て歪みだとしたら?
 
人間の恐怖は、ふっとした「if」で生まれます。特に子供という存在は身近でありながら、二度と自分が手にすることの出来ない過ぎ去ったものであるゆえに、それが抱かせる畏怖の念は半端ではありません。
「もし」十人以上の子供達に、感情が読めないような視点でじっと見つめられ続けたら?自分は多分発狂します。大人ならまだ意図があるんだろうって思えるのに、子供だとそうかどうかすらわからない…。

誰も死んでいない。誰も殺意を抱いているわけじゃない。誰も恨んでいるわけじゃない。
なのに学校から作馬先生を見る視線はうつろで、この世のものではありません。
「怖い」という感覚を超越したこれはなんだろう?
夢なのかうつつなのか。自分の住んでいる世界なのか、別の世界なのか。境界線がどんどん曖昧になるには「学校」という舞台はあまりにもよくできすぎていますよね。この作品はその「なんだか怖い」という感情をギリギリのラインまでひっぱりだして描いています。
読む前に、作馬先生のように「if」に視点を移しておくと、「子供達」という異質な存在が、本当に異質であるような錯覚にとらわれるから面白い。
 

●子供は強い●

子供の存在に恐怖を感じると、次に感じるのは子供の力です。
物理的には大人が屈服させるのは簡単な、子供の力。
しかし、「もし」子供の力が自分よりもはるかに上なのを隠していたら?自分よりもはるかに優れた知恵を持っていたら?自分よりも…

何のためらいもなく凶器を振るう少年少女たち。すでに「自分が知っている世界」のものではないわけです。
このマンガで、作馬先生という大人は子供達にまったく手も足も出ません。持っている力が違いすぎます。とあることがあって自分の意思とは別に子供を襲うこともありますが、それは読んでのお楽しみ。いずれにしても、トータルして子供の力に振り回され続けるはめになります。
運命すらも。
子供の漠然とした強さの恐怖です。
 
ふっと思い出したのは寺山修司の「トマトケチャップ皇帝」
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関連・日本映画の感想文 トマトケチャップ皇帝
子供っぽい犯罪、ではなく、子供が支配する世界。それがこの映画です。大人たちもいっぱい出てくるのですが、それらは本当にチンケなものでしかなく、無邪気で何も考えていない少年達のほうがはるかに支配者として力を持っています。
無垢だと思われているからの恐怖。その力がもし開かれるものとなったらそれは単独の大人には太刀打ちできないものかもしれません。
 

●子供達の、違う世界●


ではさらに。子供達は実は大人と視点だけではなく、住んでいる世界すらも違ったら。
大人が寝ている時間に子供達は集会を開いているかもしれない。大人が見えない死角で子供達は何かを食らっているかもしれない。
気づかない方が幸せかもしれない、そんな事態に気づいてしまったら悲劇以外のなにものでもありません。ましてやその子供達の活動にひとりだけ巻き込まれたならば。どんなに泣いても、わめいても、もう戻れなません。

なら、笑ってればいいんじゃない?
 
いや、実はコレも子供の悪意によるちょっとしたいたずら。どんなに感情が激しく動こうとも、笑顔しかつくれない体になってしまいました。
ヤンデレなんかが好きな人なら分かると思いますが、実は一番怖い顔は「笑顔」なんですよね。どんなに嘆こうと、どんなに怒り狂おうと、笑顔の怖さには手も出ません。それは恐怖を超えた狂気があるから。
なんとも悪趣味な話ですが、どれが子供達の気まぐれ。だって、子供だもの。
この作品ではこうして、大人のしらない子供達の狂気の宴が繰り広げられるわけですが、それに巻き込まれた作馬先生はもうただのイケニエ状態です。抗う手段なんてありません、翻弄されるのみ。
 

●子供になって食らうか、大人になって食らわれるか●

なぜこんなことになったかは、読んで見て確かめてください。
とにかく子供達は強大な力を持っています。大人は何も持ってません。そして作馬先生はその中で、何もすることが出来ません。
非常に絵的にもストーリー的にもクセの強い作品ですが、二つの方向ではまりこむことでぞわぞわするほどの快感にもだえることの出来る作品だと思います。
一つは、作馬先生になって、子供の恐怖と絶望感に翻弄されること。
もう一つは、子供になって疾風のごとく食らい尽くすこと。
そう、二回楽しめるマンガだと思うのです。
 
作者のイダタツヒコ先生は、以前「美女で野獣」という非常にエキセントリックでアドレナリン駄々もらしの強烈なキャットファイト作品を描いていたので、その印象が強い人はびっくりしてしまうかもしれませんが、元々オカルトホラーのジャンルに強かったイダ先生が再びその力を発揮している作品だと思います。
作品世界にとっぷり浸かった後に、窓の外を見る時に「恐怖」じゃない何かに襲われて泣きたくなる、でもどうすればいいかわからなくなる、そんな作品だと思います。
 
あ、もう一つの視点がありました。
「子供の時から、世界は滅びればいいのに、と思っていた」という視点。
その視点で見た時、この作品はどう映るでしょう?
 
誰かがカッコゥと啼く 1 (サンデーGXコミックス) 美女で野獣 8 (サンデーGXコミックス) 
怪奇ものもいいけれど、「美女で野獣」のガチンコバトルっぷりは必見。特にりりかの激しすぎる感情には打ち震えました。これが愛か!
BLADE 上 XBLADE(1) (シリウスKC)
今検索して初めて知ったんですが、BLADEの新装版でてたんですね。それを新たにアレンジを加えて士貴智志先生が描いたのがXBLADE。未読ですが、面白いかな?さがしてみよっと。