たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

「暴れん坊少納言」に見る、自由な感受性のカタチ。

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
 
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
 
(茨木のりこ「自分の感受性くらい」より)

こんばんわ、日々何かのせいにして逃げ回っているたまごまごです。
ぱさぱさに乾いてゆく心、って表現が妙にインパクトあって、いつも何かを見るたびに「ああ、おいらの心はぱさぱさだぜ」とつい思い出してしまう詩です。なんかいやなことあると、どうしても人のせいにしてパサパサしちゃいますわ。
確かにここに言われているように「みずから水やりを怠って」いるのは確かなので、グゥの音もでません。しかし、そうそう簡単じゃないぜ、時には気分で感受性もにぶるぜ、っていうか感受性ってなんだよう、という疑問がまず首をもたげるわけですよ。
ちなみに「感受性」と聞いて思い出したのは「プリンセスメーカー2」でした。あれ下手に感受性あげすぎるとグレるんだよね。
それはさておき、「自分の感受性」っつのがどこから生まれて、どういう基準なのかはさっぱり分かりません。それどころか今はネットで情報が簡単に手に入りすぎる時代なので、すぐに多数意見にだまされてしまいます。それがダメなわけではないんだけれども、ちょっぴりシャクに触ります。みんなが作品に下したいい・悪いの評価に流されて、好きなものを好きと言えなかったりする自分に自己嫌悪。
今回、かかし朝浩先生の暴れん坊少納言が再開したという話を聞いて歓喜しているので、ちょっとこの本に描かれている「感受性」について書いてみます。
 

清少納言の右ストレート●


基本的にこのマンガ、ドタバタコメディです。別にマジメに何かを読み取ろうとつとめるよりも、単純にゴタゴタ→清少納言暴れる→爽快感という流れを楽しんだ方が面白いのではないか、という前提で、あえてここで描かれている清少納言のキャラの魅力に光を当てておきたいのです。
清少納言というと「春はあけぼの。」と死ぬほど短く単純明快な文章が印象に強い人。「Q,この後に入る言葉はなんですか?→A,をかし。」なんてのをよくテストで見たものです。ここ試験に出ます。
また、「○○なもの」と延々書いていく「ものづくし」も、極めて分かりやすくよく暗記させられたものです。その物の描き方がすごくはっきりしているので、頭にイメージして覚えやすいんですよね。
そんな清少納言をかかし先生流に解釈・アレンジしたのがこの作品ですが、清少納言の周囲の人間関係を詳細に描く…というよりは、清少納言がいかに竹を割ったような性格ではっきりした感覚を持っていたか、という部分にぎっちりスポットをあて、そのキャラの魅力が存分に引き立つような描かれ方をしているのが面白くて仕方ない。
本文に「この少女、いとツンデレなり。」という文章があるのですが、本当にツンデレかどうかはさておき、言い切っちゃった方が面白いんじゃないか?というノリで、現代の感覚に即した感覚の持ち主であることをうまく一言でまとめきっています。だからとっても感情移入しやすいです。言葉だけではなく、キャラも現代流に訳してみた、という感じです。
そういえば枕草子も色々現代語訳出てたような?色々な形で現代語訳されるだけのテンポのよさと世界への視点がある、ってことなんだろうなあ、としみじみ感じます。とは言っても、自分は無知なので「枕草子の風流は理解しきれないなあ…」という、どんよりした不安もあります。
そこを、このマンガはばっさり斜め切りして切り逃げしてくれるから、爽快でたまらん。
 

●世間の正しい理解=自分の感覚、とは限らない●

もちろん、枕草子なりなんなりに、ある一定の「正しい読み方」ってのはあって、それを完全に無視してもよいわけではないです。しかし、そもそも本を読むときに「正解」ってあるんかな?
「これって当たり前」という感覚に流されるのは自分にとって大きな不安です。あれだ、クラスで一人だけ答えが違ったときのおびえ。あれはあってるかどうかわからないけど負けた気分になって恐ろしい。
さて、このマンガの清少納言さんはそのへんどう感じている人かというと

"歌"というのがミソだと思いました。ここで言われているのはすべての歌のことではなく、「恋愛をこねくりまわす流行」のようなもののことを指しているのかもしれません。
あら、なんかそのまま現代にも持ち越せそうな。
「こうでなければいけない」と言うのが正しいかどうかは時と場合によるのですが、このマンガの主人公らのように「自分はそれとはあわない。これが好きだから!」と言えるのは、その人の魅力になると思います。実際、清少納言をはじめ、バカ一本槍のキャラとして描かれている橘則光も非常に魅力的です。
マンガの中での「流されないキャラ」は、好感が持てます。それは物語を迷わず進めてくれるだろうという安心感。迷い悩む苦悩キャラもステキですが、たまに自分の心のままに進むキャラに身を任せて引っ張っていってもらいたいときもあるのです。
清少納言さんは、そういう面では間違いなく「引っ張るキャラ」だと思います。
 

●ただ感じるままに●

 
16歳のこの子、とにかく自分が「感じたもの」をそのまま直球で返します。
信じる、とか、理解する、とかそのへんのややこしいことは全部スルー。技巧をこらすことも特にしません。
しかしそれってすごくうらやましい!よくできた作品を見ていると小手先の技を磨くことに精を出したくなるものですが、そういうのをすっぱり切って自分の感受性のままに進めることができるキャラなのです。
もちろん、それが他の人に受け入れられるかと言うとそんなことがあるわけもなく、彼女も嫉妬やらいじめやらを買います。コメディタッチなのでさらさらっと流れていくのですが、確かに感覚が噛み合わなくてそういうこともあるだろうなあ、という感じは受けます。むちゃくちゃないたずらも結構繰り返しているし。

それでも自分の「面白いこと」だけを受け止める彼女、とってもマンガの主役らしくて輝いています。あ、このへんがツンデレ
そういうのが現実社会ですべて通用するわけではないけれど、こうありたいという理想を投影してくれるのは、読者側としては非常にうれしいところ。とても貴重なキャラだと思います。
彼女は、自分の感受性は何かに左右されるものではない、という信念で動いています。ただ感じたことを素直に「感動した!」と言いたい、それだけです。
 

●自分の感受性くらい。●

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
 
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

(茨木のりこ「自分の感受性くらい」より)

割と時代のせいにしてしまうたまごまごです。
自己主張を通すわけではないけれど自分の思いは大切にしたい。自分が感動したことは素直に受け入れたい。
そんな自分の尊厳をあっけらかんと笑って保てる清少納言が本当にうらやましい。
この「うらやましい」と感じた自分の今の心が、きっとこのドタバタコメディ作品に感じた一番の感想なんだろうな、と思いました。
楽しい、面白い、好き。そんな気持ちをただストレートに出せる彼女のようでありたいものです。…と、もうこの時点でまねっこなんだけれど。
感受性ってほんと難しいなあ。それは清少納言が作中で言うように、小賢しく考えるものじゃないのだけど、愛でる心を表現できるようにはなりたいのです。
 

他にも色々なキャラが登場するのですが、その個性が非常にすばらしい。この構図や服装を平安時代から想像できる作者の能力がすごすぎです。
時代考証的には結構適当なところも多いのですが、そのへんも深く突っ込まず、ただ清少納言の突っ走る姿を楽しむのが一番な気がします。この作品、いったん終了した後再開されるのですが、このキャラの特性を生かしてどんどんムチャなことでも自らの感性で切り開く爽快感あふれる物語になってほしいと願います。もう読んでいてすっきりするのですよほんと。
 
 ふぁにーふぇいす(1) (Gum comics)
「ふぁにーふぇいす」はゆがんだ暴走っぷりが痛快。あと「エロ研」とか「ブッ契りラヴァーズ」とかエロの方も(なんか色々意味で)開き直った疾走感が気持ちいいです。
 
〜関連リンク〜
しばた@OHPの「暴れん坊少納言1 (ガムコミックスプラス)」レビュー
かかし朝浩『暴れん坊少納言』(Krafty)
キャラがしっかりしている上に、名前を聞いたことがあって親しみやすいので、誰でも楽しめる敷居の低さも魅力なのです。