たまごまごごはん

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「俗・さよなら絶望先生」OPに見る躁の心とエログロナンセンス

さて、「俗・さよなら絶望先生」のOPにも絵が付きました。今回はどうくるんだろう?と不思議だったのですが、やってくれました。
前回が比較的、緊縛などを利用して「エロティシズム」に走っていたのですが、今回はそれに対して「グロテスク」でした。
なんせ画面が暗い。「まだ未完成?」といううわさもちらほら聞きますが、今のこの状態とOPソング「空想ルンバ」の親和性が妙にいいのです。
 

●躁のグロテスクと、鬱のエロティシズム●


いきなりNARASAKI作曲の重いギターのリフとともに入る「躁」の字。確かにメロディーもかなり躁なんですが、画面は真っ黒です。
これも脈絡なく飛び出してきたわけではありません。

前作「さよなら絶望先生」のOP「人として軸がぶれている」より。こっちはカラフルに「鬱」でした。
関連・「さよなら絶望先生」OPにみる、少女解体とオブジェ観
鬱という文字とともに踊りでる、緊縛少女たちのエロス。
今回は躁という文字ともに、人体解剖図が次々と放映されていきます。このエロティシズムとグロテスク、躁と鬱、カラーとモノクロは、対比してみると非常に味があります。
もしかしたらこの後躁の字にはじないカラフルなカラーになるかもしれない…のですが、現段階ではそれが比較的バランスがよく見える理由のひとつに、描きこまれた内臓があります。
 

●ターヘルアナトミア・内臓と筋肉と骨格のエロス●


文字でも表記されていたので間違いないと思いますが、今回は杉田玄白の「解体新書」がモチーフになっているようです。だから同じ解体図でも、レトロな味わいがあります。
新装版 解体新書 (講談社学術文庫)

執拗なまでに描かれる内臓・骨格・筋肉の数々。さすがにこの時点で「アウト」な人もいるとは思いますが、モノクロ風でかつ薄暗すぎる画面が、臭いを消していきます。かさかさと乾燥した、「人体」という感覚だけをうまい具合に残しています。
シグルイ」などでも結構生々しい臓器描写がありますが、あれは非常に汁っぽいため残虐さと緊迫感があります。しかしこちらはレトロ調を取り入れたため、妙に現実離れした感覚があるのが面白いところ。前回のOPの時に使った言葉を用いるなら、オブジェのようになっています。
 
はて、この絵を見てふと思い出したのが、多賀新ハンス・ベルメールです。
多賀新のページ
銅版画・江戸川乱歩の世界
多賀新さんは、春陽堂から出ている江戸川乱歩の表紙を銅版画で手がけた画家。江戸川乱歩の小説は色々な出版社から出ていますが、自分もこの絵にほれ込んで集めなおしたほどインパクト絶大な描き方をされる方です。なにはともあれ表紙を見てください。
 
ひたすらに人体の中の筋肉や内臓や骨格や性器を緻密な銅版画で描く画家さんです。これが江戸川乱歩の怪しくも美しく、時に突拍子もない世界にマッチしまくります。これから江戸川乱歩を読む人はゼヒ春陽堂版をおすすめしたいです、個人的に。
この方、内臓感覚まで引っ張り出して、その中の欲望をたたきつける画家さんだと思うのですが、そのような方向性で人体美をポップに描くマンガやイラストも最近は結構多いと思います。にしても、ここまでカサカサした空気で、昔の解体図風のエロティックさを描き出せるというのは魅力。やはり解剖図にはなんらかの刺激的なものが潜んでいそうです。
 
ハンス・ベルメールも人体の感覚をバラバラにして描き出す画家であり、人形作家です。
ハンス・ベルメールギャラリー
人体を解剖的に見て解体し、その内臓感覚を描くというのは極めてグロテスクな作業なんですが、同時にそこに生まれる感覚によって、極めてエロティックな感覚を生み出します。
それを形にしていったのが、ベルメールの作品の魅力。最初こどもの時頃見たときはトラウマ級でしたが、今だからそれを見て、むずむずするくらい感じてしまいます。
 

そしてもう一つ、絶望OPで描かれる筋肉を見て連想させられるのは、歌を歌っている大槻ケンヂ筋肉少女帯「月光蟲」のパッケージです。
月光蟲
「少女」と「筋肉」の組み合わせ、といわれるとやはりこのイメージが格段に強いです。
やはりグロテスクであることは間違いないのですが、バラバラにして組み立てることによるおかしなテンションの高さ、性的な連想が見事なパッケージです。曲も筋少の中の名盤中の名盤なので、必聴。
筋肉、内臓、骨格。実際に見ると滅入ってしまうそれらも、色のない絵という段階を経ることで抽象的で鈍い光を放つ物体へと変わっていくのが面白いところです。だからこの「俗絶望OP」は「ずいぶん思い切ったなあ」というのと「内臓絵と少女・青年を並べるとはなんとエロいのか」という気持ちが津波のように押し寄せるパワーをもっている気がするのです。
 

●ライチ絶望クラブ●


途中から切り替わって入るこの絶望先生の服装で「はぁ!」とため息を付いた人も多いはず。
そう、東京グランギニョルの香りがもうぷんぷんしているじゃあないですか。

第一なんで先生が学生服、とかいうのはまあさておきです。だって一番似合うんだもの。
しかし少女たちの間でこの服装をしていると、やはり真っ先に思い出されるのが「ライチ☆光クラブ」です。
ライチ☆光クラブ (f×COMICS)
耽美と少年エロスを描いたマンガです。もう幼いがゆえに破壊し続けていく狂気を描いているのですが、少年達は攻撃的であるがゆえにすごく弱いんです。そこが「少年こそ一番美しい」という言葉とともに面白くなっていく作品です。東京グランギニョルの演劇の方は見ていません。見たかった・・・っ。
 
学生服のエロスは確かに存在しています。絶望先生のマンガもアニメも、確かに基本的にはネタメインのギャグマンガなんですが、そのへんの日本人の好むフェティッシュを、ある意味あざとく、ある意味巧みに盛り込んでいるのが興味深いです。どこかで別で書きたいのですが、マンガ版の表紙の影絵なんて、よくあれだけセンスのいいものを毎週描けるものだと心から感心します。

ライチ☆光クラブ」より。少年期独特の色気に包まれた廃墟の帝王ゼラ様です。
もっとも、少年至上主義の彼には少女の美しさは目にも入らないのが違う点ですが、学生服によって描かれる色気と幼さはこのOPでも「耽美のパロディ」として含められているのが面白いところです。
ああ、そういえばライチでも、もっとも醜いものとして臓物が描かれていたなあ…。
 

●そして、まといと堕ちて行く●


エウレカセブンのOPのパロディのようなシーン。ものすごくよく動く秀逸なカットなんですが、アニメ版での常月まといちゃんの優遇っぷりが非常に目をひきます。
そもそも絶望先生という作品自体、望先生があらゆる女の子(千里・まとい・あびる・霧等々)に理不尽な好かれ方(喜ばしくない位)をしているんですが、アニメ版でのまといと望の関係の描かれ方は極めて特殊です。
簡単に説明を入れておくと、このパッツン前髪の「常月まとい」ちゃんなんですが、いわゆるストーカーです。恋に恋する少女で、執拗なまでに絶望先生の周りをうろうろしています。気づいたら後ろに描かれているトンデモさん。そこが笑いどころ。
笑いどころなんですが、アニメはこの久米田先生が拾い集めてきた様々な少女像をうまいこと耽美方面とギャグ方面で形にしているのが面白いところ。エンディングを見るとさらにその少女イメージの耽美性をうまいこと魅力的にまとめているのがよく分かります。

ちなみに前回のOPだとここ。
完全にまといちゃんひいき度高しです。
が、このシーン自体どこまで本物か分からないのがクセモノ。これが糸色先生のイメージのなかのものなのか、あるいはまといの中の願望なのか、でかなり視点が変化します。
空想・妄想でルンバしながら、おいて行かれる様を歌い上げている「空想ルンバ」にあわせてのシーンだと深追いするなら、もしかしたらみるみる何かを失っていく絶望先生の中での、「この人なら受け止めてくれる」という二人の救われない転落相互依存模様なのかもしれません。
このあと可符香が映って、先生自殺しちゃうし(いつものことですが)。
 
絶望先生自体ドタバタしたギャグマンガですが、改蔵の時の衝撃や、そこかしこにはられているイメージ系のネタの数のせいもあって、どうにも色々なもののパロディを探したり、モチーフになっていそうなものや連想させるものを深読みして考えるのが面白くてなりません。
それも一つの楽しみ方、ですよね。
ハンス・ベルメール 〔骰子の7の目 シュルレアリスムと画家叢書〕 (シュルレアリスムと画家叢書 骰子の7の目) 
  
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「墓場鬼太郎」OPに見る、漫画のエクスタシーと、懐かしのナゴム魂
今年はもうはやナゴムイヤーですか?次あたりOPで、有頂天再結成したら漏らすんですが。
 
〜関連リンク〜
「グミ・チョコレート・パイン」
原作オーケン。OP電気グルーヴ。監督ケラさん。
恐ろしいほどのナゴム布陣です。