たまごまごごはん

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夏の田舎の町に、彷徨い続ける性欲「キミの好きな女の子のカタチ」

1年前のマンガなんですが、MARUTA先生の「キミの好きな女の子のカタチ」が死ぬほどよくて悶えています。
表紙の絵柄のように、キュートでかつ生々しい感じの体を描かれる作家さんなんですが、性に対する視線がものすごく特殊なんですよ。
ちょっと今回はこの本から、4編の連作「椿」について書いてみたいと思います。
 
 

●花売りの少女●

花売り娘は 哀しいの…
いつも 仲よしたちに 囲まれて
いつも 夕暮れまで 遊んで
でも やっぱり ひとりぼっち
暗くなると ひとりぼっち…
 
みんなは うちに帰るけど
花売り娘は 帰らない
誰かが 来るまで
ずっと 待ってる…

誰かが来たら また遊ぶの
夕暮れまで また遊ぶの…
花売り娘は 花売り娘は
(「椿 -夏-」より)

この連作「椿」は、いかにも日本的なとある田舎の町が舞台。椿という名の少女を巡って、実に1964年から2006年までの40年を、夢とうつつの狭間を縫いながら描いていきます。
この椿という少女の存在はとても不明瞭で、はっきりとした解答が作品中で描かれていません。
とりあえず「花売り」というあだ名で呼ばれており、2006年の現代においても「何かの代わりにセックスをさせてくれる」という都市伝説になっています。
男たちはそれに対して、好奇心で見に行ってしまいます。ですよね、見に行きたくなる気持ちはとても分かります。どう見ても死亡フラグだとしても。

神社の古い家屋で、この少女はこの姿のまま、常に自慰にふけったり、ネコに性器をなめさせたりしています。
その描写がとても淫靡極まりないんです。男が見た性欲にまみれた「少女像」そのもの。
普段から下着を身につけていないため、性器が無邪気に丸出しなのも頭をぐらぐらにさせます。
読者もその男性同様、椿を巡る性の激しい情欲の流れに押し出されてしまいます。
 
何が恐ろしいかって、明らかにこの子おかしいわけですよ。40年間歳も取らず、美しい少女の姿で挑発的に男を誘うわけです。性器を露わにしながら。まるでけだもののように、理性もなにもない状態で。
どう考えても罠なわけです。どう考えたってこの子と情を交わすのは危険じゃないですか。冷静に考えれば。
 
たとえばニュースとかで美人局の話を聞いたら「いやはやばかだねえ」と言うと思います。冷静に第三者を見ているから。
だけれども、読んでいるとそんなことどうでもよくなっちゃうんですよ。
恐ろしいほどにこの子とセックスしたくなるんです。とてもきれいで、純真そうに描かれているのもあるんですが、ぼろぼろな神社の古びた家の、木貼りの廊下や畳の上で、ワンピースだけ羽織って下着を履かず、裸足で性器丸出しな彼女を見ていると「セックスしなければいけない」という気になってしまうのです。
まるで、光に向かってただひたすらに飛んでいく、蛾のようです。

最初の「椿-2006-」では彼女の中の少女性が爆発し、わけもわからないまま終わります。
本当に唐突に終わり、この時点では「彼女が何者か」「何かと交換、の『何か』とはなんなのか」「そもそも自分は彼女とセックスをしたのか」それら全てが謎のままです。
溺れるように性を請い求める椿、それにふらふらと飲み込まれる少年。
そこにある性には「幸せ」が欠片もありません。
 

●椿という少女の存在●

物語は2006年の次は1989年、そして1964年と椿の周辺をさかのぼり始めます。
少しずつ「椿とはなんなのか」が描かれていきますが、明確な答えは出されません。

表現として幾度も出てくる「引かれる」という言葉。これが何を指すのかは完全に読者にゆだねられます。
それがこのマンガの面白いところ。少女の存在が非常に曖昧な上、そこに必ず性が介在しているんです。しかも狂ったように、田舎の憧憬が目激しく焼け付き、心に傷をつけていきます。

彼女の過去を知るカギになる一コマ。1964年です。
この田舎の光景は時代を超えてもほとんど変わりません。そして少女の姿も全く変わりません。
1964年を見る限り、彼女は別に幽霊とかでもないんです。じゃあなんなのかと言うと…分かりません。「椿」という存在であるとしか言えません。
 
この作品で大事なのは、そこに「椿」が存在すること、そして「性」があらゆるものの媒介になって狂わせていること、それだけです。彼女がなんなのかを明確にする必要はないし、変に明確にすると物語は希薄になるでしょう。
男を狂わせる、でも魔性ではない、極めて純粋で気まぐれでわがままで、そして最後は寂しく一人慰めることしか出来ない、花売りの椿。
彼女を巡る性の様子は狂わんばかりにエロティックで、エロティックであるがゆえに哀しいです。
読者側も、緻密に描かれたセックスシーンの淫靡さに興奮しつつ、手を伸ばしても霞を掴むような感覚に困惑します。
それが椿という存在なのです。
 

●失われたものと、咲いた花●

花売り娘は 寂しいの
一緒に遊ぶ 仲よしもいなくて
退屈な毎日を すごして…
だから 花を売るの
まだ熟れる前の 開きかけた つぼみを売るの
おいしい 花の蜜を 使って 
一緒に 遊ぼうって 誘うの…
(「椿-1989-」より)

椿は、執拗に性を貪ります。
何度か見直すと、それは性欲というよりも「寂しさ」以外の何物でもないことに気付きます。
自分の幼い体は、男を誘って寂しさを紛らさせるための物体。
そう、その幼く露わな性器は、花。
 
花に集まる男達にも、好奇心のみの人、友達になりたいと願う人、便利な性欲処理とたぎらせる人、様々います。
いずれも、その中に「幸福な性」がありません。

このセリフの狂気っぷりが恐ろしいです。
恐ろしいけれど、それは分かっているんだけれども、読んでいて椿とセックスしたくなるから怖いのです。そのイノセンスな描写力と、少女の体温や体臭すら感じられるような生々しいエロティックさが、この作品の存在そのものでもあります。
 
エロマンガは性描写で人間の心情を描きます。
そういう意味では、この「椿」という作品は、性の持つ人間を狂わせる恐ろしさと同時に、それがなくては生きていけないくらいに欲してしまう寂しさをも描いています。
暗い話だとちょっと…という人でも、椿のイノセンスなエロさには思わず「引かれる」と思います。
怖いです。興奮して制御出来ない「性」がとても怖いです。
だからこの作品は面白い。

 

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その他の短編は基本和姦ハッピーエンドなので、明るく楽しく読めます。
が、MARUTA先生はそれらほぼすべてが、夏の田舎を舞台にして描いています。
加えて最初の連作「八月の一番暑い日」が複雑な後味を残す作品になっているため、性に対する見方考え方が脳天気にならず、様々な面で刺激されます。短編「無防備属性」なんかはそのまま素直に楽しめるんですが、興奮しながらも性って複雑だなあと感じさせてくれる一冊です。
個人的に、田舎や廃墟や雑多な町が舞台のエロマンガって、たまらないんですよねえ…田舎属性?
 
〜関連リンク〜
MARUTA『キミの好きな女の子のカタチ』(ヘドバンしながらエロ漫画!)