「青い花」で描かれる、女の子が女の子を好きになることへの幾つかの見方
アニメ4話見たよー。
で、話的には原作でいうと、ふみちゃんとやっちゃん先輩がつきあい始めたところから、先生と図書館の君との話までです。
ここって、この作品においてものすごく重要な部分だと思うんですよ。アニメも漫画も。
というのも、この作品がいわゆる単純な「百合」ではなく、「女の子が女の子を好きになる」という事への様々な視線を一気に詰め込んでいるからです。
ファンタジーで終わらせない、シビアで温かい世界。
●杉本恭己先輩の場合。●
杉本恭己先輩。通称やっちゃん。
やっちゃん先輩は出てきた時から百合臭がものすごくて、いかにもな感じで「女の子に手を出しそうなキャラ」という怪しい魅力ばりばりに放つキャラです。
実際その魅力に当てられて反応してしまう生徒が多いので、なおさら「この子はガチだ」という雰囲気をかもしています。
しかし、確かに一見女の子好きなやっちゃんなのですが、ふみちゃんは流されつつもどうも彼女に対して不安というか疑念を抱き続けるわけですよ。
ふみ「先輩、図書館の君って誰のことなんですか?あだ名を付けた先生と、あだ名を付けられた生徒って誰のことなんですか?」
嫉妬混じり。同時に疑念混じり。まあ一言で表せるような簡単な感情ではないです。
ただ、信じようと、好きになろうとしてもなんだかスルリとすりぬけてしまうやっちゃん先輩に対して、何かしらの違和感は感じています。
セリフを追っていくと、確かに違和感があるんですよね。
親友のあーちゃんに、ふみちゃんが「私は恭己先輩のことが好き」だというのを伝えた後の会話。
恭己「すごいなあ。カミングアウトしちゃったのか。」
ふみ「ええ、まあ」
恭己「ふみはえらいな。強い子だなあ。これから、イバラの道だよ?」
一見、ごく自然な、いい感じの「女の子が好きな先輩」からの励ましの言葉に見えますが、ものすごく引っかかるんですよね。
これがもし「自分もそうだった」と言うのならまあ、納得はします。が、わざわざ告白したことについて、イバラの道だと言う必要はないんですよ。
自分と一緒に歩もうとしてくれている人に、「イバラの道だよ」と言うより先に、頑張ったんだから「ありがとう」じゃないの?と。
仮にあーちゃんに嫉妬しての発言だとしても、「カミングアウト」という言葉が妙に引っかかります。基本的には同性愛の人がそれを告白すること*1、なので使い方はあっているのですが、ちょっと取って付けたような会話になっちゃうんですよね。その前後の行動が、そして「図書館の君」の噂が引っかかる原因なのですが。
ヒースクリフを演じる恭己先輩。
もしこれが「女の子を好きな先輩」を演じているとするならば、どうでしょう。
彼女の言葉は「女の子を好きな女の子」を擁護する発言ではなくて、外野がおもしろがっている発言とほぼ変わらなくなってしまいます。
「かわいい後輩が告白してきたらどーするよ?」
「やーもー、やめてえ」
「ホラまたあそこでも、ガール・ミーツガーーール。」
(4巻のモブの会話)
なんてことない会話です。彼女達に他意はありません。
しかしあーちゃんはこれを聞いて顔をしかめます。人を好きになって、苦しみ悩んだ人達を知っているから。
恭己先輩が何を意図していったかは正確にはこの時点では描かれていませんが、「演じている」としたら、この子達と同じような位置と大差ありません。この子達だって、ばかにしているわけでも鼻で笑っているわけでもない。
ただ、「何か特別な物」として距離をおいてしまっているのです。
漫画を読んでいる方はこの後どうなるかはご存じだと思いますが、アニメではそのへんの機微がどう描かれるのか楽しみでもあり、ふみちゃんの気持ちを考えると怖くもあります。
まあ、原作でも正直、ふみちゃんが自分から怒り、あーちゃんも怒ってくれなかったら、救われなかったなあ。
一つだけ間違えたくないのは、「だからいい」「だから悪い」ではないということです。見ているこちら側だって、偏見0なんて事はあり得ないわけで。ましてや恭己先輩は、いっぱい苦しんで悩んでいる子だから。
それをどう表現すればいいかわからず戸惑う、青い花。
●ふみちゃんの場合。●
恭己先輩が「カミングアウト」と称したシーン。
ふみちゃんが、あーちゃんに、女の先輩が好きだと打ち明けるシーンです。
ふみ「杉本先輩が好きなの。つきあってるの………。あーちゃんに嫌われたくない………。気持ち悪いなんて思わないで………。」
漫画でのシーンも衝撃的でしたが、アニメだと涙がメガネにこぼれ落ちる繊細な表現が入ります。
女の人が女の人を好きになって「気持ち悪い」というのは、言ってみれば百合的作品においてのタブー中のタブーなわけですよ、この表現自体が。
たとえば女の子が告白シーンがあるとして。「あなたが好きなんです…変でしょ?」「気持ち悪いなんて思わない、普通のことだよ!」とか言ったらハッピーエンドっぽく見えるのですが、実は正反対。
わざわざそんなことを描いちゃった時点で、作者側が「女の子同士の恋愛は、『普通』ではない特別な物だと思っている」のが出ちゃうんですよね。そもそも普通かどうかは「好き」という感情に関係ないわけで。
諸刃の剣もいいところです。
しかし、志村先生はこのセリフを使いました。
これはふみちゃんとあーちゃんのキャラクターがあったからこそ、成立する第一歩でした。
二人は「隠し事をしたくない」という思いで向き合っています。
だから「私は女の子を好きで、気持ち悪いって思われるかもしれない」と言うのは覆い隠しのない解答なわけです。「変だ」ってふみちゃん、思ってるんですよ。それをストレートにたたきつけちゃうんです。
モブの子がこんな会話をしたときに、ふみちゃんが顔をしかめるシーンがあります。
「図書館の君と先生の禁断の恋とか!」
「禁断の恋ってなんかやらしい!」
「何想像してんのよ!」
漫画だと「上級生との禁断の恋」で、さらにストレートになってます。
彼女たちにとって「禁断の恋」は「普通ではない恋」を差します。
また「やらしい」ことをすることも、ふみちゃんはもう既に経験済み。
私は「普通」ではなくて「やらしい」子なんだろうか?
物語的には「普通」「変」というのは触れない方が安全に進みやすいと思います。
しかし、志村先生は非常に現実を厳しく、そのまままっすぐに見る作家さんだと思います。
ここで、みんなあーちゃんのように柔軟に受け止められるわけじゃない。当事者であればなおのこと。「変だ」「怖い」「気持ち悪いかもしれない」と思う人だって、勿論います。「青い花」や「放浪息子」を見ていて傷をえぐられる思いの人も多いと思います。
ただ、厳しいだけではないです。時には失敗もするし、不格好だし、痛いし、辛いけど、必ず受け止める場所を作ってくれます。そして「正解」と「誤り」を区別しません。
ふみちゃんは自分の感情がなんなのか、本当に好きなのかどうか、分かっていません。
そりゃそうです。高校生で自分の感情がなんなのか分かる子なんてそうそういませんし、大人になったって「好き」ってなんだかわかったもんじゃないです。
でも、それでいいよ、と言ってくれている気がするんです。あーちゃんの存在があるから。
●あーちゃんの場合。●
無論、あーちゃんだって「正解」を知っている子ではありません。
特にこの子自分の事になるとめっぽう弱い。だけど人の気持ちの受け皿になる度量は持ち合わせています。
あーちゃんにしてみたら、誰が誰を好きになっても同じくらい複雑な気持ちなわけです。
同時に「応援しなきゃ!」という使命感に燃えている子です。
ふみちゃんが、あーちゃんにどうしても伝えなければと意を決して校門で待っているシーン。この対比がものっすごく好きです。
ふみちゃんにしてみたら人生の一大事なわけですよ。だけど、あーちゃんはいつも変わらず、自分のペースでいてくれます。何があろうと「あ、ふみちゃん!」って言って駆け寄ってくれるのです。周りの目なんて気にせず。
あーちゃんはそんな自分を「シンプル」と言います。
あきら「別に女の人を好きでもいいんじゃないでしょうか。あたしの頭がシンプルすぎるのかな。でもさ、気持ち悪いなんて、思わなかったよ。」
常にニュートラルな位置にいるあーちゃん。
この「気持ち悪いなんて、思わなかったよ」の文、非常に難しいです。
元気に言ったら嘘くさくなってしまう。弱々しく言ったら自信なさげです。アニメのセリフの力の入り方がこれまた極めてニュートラルな感じで、これは本当に声優さん苦労しただろうなあと思いました。作品にとって極めて重要なセリフ、よくぞ形にしたなと思います。
ニュートラルな立ち位置だということは、必ずしも何もかも受け止められるという事ではないです。
どうすればいいかさっぱりわからない。
だけど、一生懸命な彼女がふみちゃんにとっての触媒になるのは、ふみちゃんのことを肯定も否定もしないからなのは間違いありません。ただそこで一緒にいて、一緒に接しているだけ。
ふみちゃんに「そのままで!」と言われて「それは気づかなかった!」と照れるあーちゃんの姿が途方もない安心感を与えてくれます。
実は「そのまま」が一番難しいんですけどね。
ふみちゃんの視線を通して、それが出来るあーちゃんを見ることができます。
あーちゃんも色々考えたり焦ったり悩んだりしますが、今は「あーちゃんがいるだけで安心」、それを画面から感じられるだけで十分だと本当に思うんです。
そういう人が、いるんだよ、と言ってくれるだけでいい。
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ふみちゃんも先輩も、時々視野狭窄に陥ります。あーちゃんだってそうです。
だけどそれぞれがいるから、痛い思いをして視野が広がり、一歩前に進む勇気を手に入れられます。それが正しいか分からなくても。
先ほども書いたように、志村先生は「正しい」「間違い」で物事を二分しません。すごく曖昧なラインにキャラクターを置いて、その子達に歩いて行かせるよう選ばせます。
上記のやっさん、モギー、ぽんちゃんはそんなにストーリーに絡みませんが、アニメでは漫画以上に出番が増えます。こういう子達がいて、読者・視聴者の視点が常にフラットに戻れるようになっています。ここがとても親切だと思うんです。感情移入をさせつつ、痛みだけを与えることはしない。冷静になって救われる場所をきちんと用意してくれている。「放浪息子」の佐々ちゃんとかもそうですよね。
厳しいけど優しい。優しいけど厳しい。読む度、見る度に複雑な思いがわき上がってならないこの作品にどうしても自分も「答え」を求めてしまうのですが、答えは無いことのよさを深く胸に刻まれます。
この悶々とした感覚は、一生続くんでしょうね。だから人生楽しいんだと思う。
「その感情」を、いかに「そのまま」受け止めることができるか。「放浪息子」のテーマでもありますが、自分の思いと周囲の評価とのすり合わせで悩み苦しみ困惑する様はこちらに対して「あなたはどうなの?」と投げかけてくるような気がしてなりません。どうなんだろうね。
にしても「青い花」のOPの入り方いつもずるいよ!泣きそうになるじゃん開始二分で!
*1:正しくは現在では病気やマイノリティな嗜好などあらゆることを告白する広義。あんまり厳密に考えない方がいいかとは思います。