たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

男の観念にしか存在しない完全なオブジェ、少女。〜「仏蘭西少女」が描く少女性の脅威〜

えー、いきなり話が一年前に戻るのですが。
「LO」表紙の「母は、少女であった」の意味を考える
以前こんな記事を書いて「????」のまま1年経ったのですが、つい先日澁澤龍彦の著書を読みなおしていたら解答の一つっぽいのを発見。

エンプソンはさらに書いている、「ドジソンは、ある意味では自分を少女(性的な安全性をもった)になぞらえ、ある意味では少女の父(性的なものを包含しつくすことによって少女が父となる)になぞらえ、ある意味では少女の愛人(つまり少女は母であることになる)になぞらえている」と。
澁澤龍彦 「アリスあるいはナルシシストの心のレンズ」>

ドジソンとは「ふしぎの国のアリス」の作者、ルイス・キャロルのこと。
彼の産んだ作品中の「アリス」は現実の少女を離れ、観念化したモンスターとして存在している、という話です。
なんだかつかみ所のない話ですが、ルイス・キャロルの系列の血を引いた「少女」追究をした作品群を見るとき、性的な視線がどこにあるのは非常に重要なポイントになります。
その少女の性がどこにあるか。無垢なるモノにするか、神聖不可侵にするか、傀儡となるか、飲み込む支配者となるか。「作り手」と「受け手」の様々な視線が突き刺さったり、突き刺したり。
 

●究極にして至高の少女をあなたに。●

仏蘭西少女〜Une fille blanche〜
エロゲーは自分そこまで詳しくないので、作者が誰とか絵師が誰とかの話はできません、という前提の元で、「メガストア」のレビューでやらせてもらった「仏蘭西少女」の少女探求がとんでもなかったので書いておきたかったのです。多分これ、絵入り小説に近いと思います。
 
舞台は大正の日本「っぽい」ところ。主人公がある日、事情によってイラストにあるような金髪碧眼の完璧な少女を入手し「自由に扱っていい」と言われます。これだけ書くとものすごく都合のいい展開に見えます。どうとでも自由に扱っちゃいますよ、という選択も大いにありでしょう。エロゲーですし。
しかし、主人公めちゃくちゃ苦悩するのですよ。死ぬほど悩むのですよ。
別に主人公はロリコンという設定ではありません。そりゃもらっても困る、というのもあるでしょう。
ただこの少女の描写が、主人公を苦悩たらしめる要因を大いに含んでいて、加速をかけていきます。
 
この少女が何なのか、というのは非常にわかりづらいです。
海外から買ってきた少女?いいえ違います。人形?いいえ生きています。
食べ物はネクタル(※語源はギリシア神話に出てくる不老長寿の神の霊薬)というなんだかよくわからないものだけで、それを咀嚼して口移しで少女に与えなければ、少女はその存在を維持出来ません。
そして、まさに「何をしてもイイ」ために彼女は存在しています。それを悲痛に思いもしません。
彼女はなんなんだ?というのはプレイヤーと主人公両方の悩みになっていきますが、そういうのはどうでもよくなっていきます。
そこいるのは、見る物全てが魅了されるほどに美しい、彫刻のように整った、限りなく観念に近い存在としての「少女」なのです。
 

●「無垢」●

この少女の声を聞いたときの罪悪感と言ったら無いです。
誤解を恐れずにいえば、赤ん坊なんですよ。舌っ足らずな。言葉を何も知らない、赤ん坊です。
姿形は10代ですから、声と姿を見たときに産まれるギャップがとんでもない。そこから吹き荒れる、猛烈な罪悪感の重み。
 
別に病気とかではなくて、「極めて無垢」を表現した結果です。
そもそも「無垢」という語が漠然としています。
真っ白ってなに?と問われたら通常は「何もないこと」を指しますが、人間において「何もない」というのはあり得ないわけです。何らかの感情があり、個性のある姿形があるのですから、「0」はあり得ません。
 
しかし観念の中の少女においては「0」のラインが存在します。
実際は「0」ではありません。色々な人々の意志や欲望・願望の集大成の平均値です。
いつも笑顔。余計な知識を知らない。相手を全て受け入れる。平均的に肉付きの良い肢体。流れるような金髪の髪。透き通るような肌。
少女像に求める「無垢」というフラットラインは、無垢を謳っておきながら限りなく無限大に近い領域にあるのです。
現実の少女も持ちうる一瞬のそれらの「無垢」は、同時に一瞬のうちに破壊されます。実際の少女は「無垢」を持ち得ません。
人はそれを、絵画や文章を用いて表現しようとしました。またその一瞬を冷凍保存するために写真として切り取りました。
そして、究極の無垢を求めれば求めるほど、手の届かないところに、触れようのない存在になるのも分かっていながら。写真や絵画の少女に触れることはできないじゃないか。自分の手が触れたら、それは無垢ではなくなるではないか。
 

●人形愛とナルシシズム

少女性の持つ魔力は、主人公も飲み込んでいきます。
観念的な「少女」イメージが持つ無垢というのは、男性視点から見た都合のいい一方通行の視線です。

女を一個の物体に出来るだけ近づかしめようとする「少女コレクション」のイマジネールな錬金術は、かくて、窮極の人形愛にいたって行きどまりになる。ここには、すでに厳密な意味での対象物はないのだ。ポーのように、死んだ者しか愛することのできない者、想像世界においてしか愛の焔を燃やそうとしない者は、現実には愛の対象を必要とせず、対象の幻影だけで事足りるのである。幻影とは、すなわち人形である。人形とは、すなわち私の娘である。人形によって、私の不毛な愛は一つのオリエンテーションを見出し、私は架空の父親に自分を擬することが可能となるわけだが、この父親には、申すまでもなく、社会の禁止の一切が解除されているのである。まさにフロイトがホフマンの「砂男」の卓抜な分析によって証明したように、人形を愛する者と人形とは同一なのであり、人形愛の情熱は自己愛だったのである。
澁澤龍彦「少女コレクション序説」>

このへんの話は二次元の「萌え」衝動にも通ずる物があると思います。太古から少女という幻影を求め、人形や絵画にその夢を託しました。暴力的なまでの一方通行の思いを、少女イメージのコレクションという形で手元に置いて保存してきています。そこにあるのは既に「少女」ではない別の物です。
 
ここで「架空の父親」の話が出ていますが、この「仏蘭西少女」という作品では主人公が「ご主人様」として少女にとっていなくてはいけない存在(隷属ではなく、いなければご飯が食べられない、存在理由がない、という意味において)に置かれます。
ようするに、このゲームは上に挙げた澁澤龍彦の思想が、そのまま与えられて、かつ生きてこちらを愛してきたらどうなる?という実験室なのです。
 
割り切ってさくさくと手を出し、ぽい捨てする人もいるかもしれません。「そこにいるのが少女ではない」と認識した人の場合です。
しかし人間の心理の中に、少女の形をしたものに対して、自然に「少女」の人格を適用するシステムがあるようです。実際のそれは今まで読んできた物や体験から産まれる幻想にすぎませんが、少女が描かれた絵、少女をイメージさせる表現に感情移入をするのです。生きた存在として、オブジェを愛するようになります。ピグマリオン王のように。あるいはデカルトの少女人形のように。
愛する、という幻想の中で、それに性的な手立てを加えるかどうかは強大な壁としてそびえ立ちます。無垢なるものに手を出してはいけないという思い、何もかも自分のものにしてしまいたいという凶暴な自分の中の欲望へのおののきがぶつかりあいます。面白いのは作中で「かわいそう」という思いが罪悪感の中の優先順位としてはそれほど高くないところです。もっとも目の前にいるのは「少女ではない」と認識しようとする理性がそうさせているのかもしれません。
次第に、「かわいそう」という思いすらも自己愛の一部と化していきます。実際に触れることができ、言葉をかわすことができ、抱きしめることができる少女の生きたオブジェがそこにあった場合、正気でいられるのだろうか? 主人公とプレイヤーは、目の前の据え膳に対して、江戸川乱歩が描いた「鏡地獄」に入る魅力と恐怖に似たものを感じることになります。
それを手中に納められるのは永遠の夢であると同時に、自分の殻にこもったまま永遠に出られなくなる、少女という名の鏡地獄です。
 

●快楽と苦痛の楽園の中で●

このエディソンの説く性愛上の極端な主観主義、極端なイリュージョニズムは、ミシェル・カルージュが奇書『独身者の機械』で綿密に分析してみせたように、やがては近代的ナルシシズムに特有な「独身者の機械」、すなわち快楽と苦痛のオナニー・マシンに帰着すべきものであろう。ダダイストシュルレアリストの多くが、人体模型やマネキン人形に異常な執着ぶりを見せたのも、人形愛の形而上学の最後の燃焼ともいうべき不毛なエロティシズムを、そこに敏感に感じ取ったからにほかなるまい。
澁澤龍彦「人形愛の形而上学」>

この作品は「ゲーム」という形態であるがゆえに、ものすごい数のエンディングがあります。謎を解決していく道もあれば、なんだか分からないまま少女との生活に耽溺する道もあります。また少女は相手にせず他の生きた女性と歩む道もきちんとあります。だから一概にプレイヤー皆がその少女に狂うわけではありません。
しかし、目の前にある「少女のような何か」の持つ魔力に完全に飲み込まれ、『快楽と苦痛のオナニー・マシン』に帰着する道が不幸だった、と言い切れないわけです。その一瞬のために一生を投げ出す人もいるのです。この生きた観念的な少女オブジェのいる実験室は同時に、プレイヤーの思考の実験室でもあるのです。
 
少女という記号を目の前にして、古今東西様々な思考が行き交います。人により、性別により、生活環境により、それは全く別な物になりますが、少女オブジェがもたらす不毛なエロティシズムが多くの人間を虜にし、巻き込み、秩序の破壊と芸術の誕生の引き金を引いてきたのは間違いありません。
時代によって変化する表層部分もありますが、根源的には「少女イメージ」を見つめ続けることは、自分を見つめることに他なりません。それは快楽だけではなく、苦痛そのものです。
 
ならどうすればいい?
見なければいい。避け続ければいい。目にいれなければ、少女のイメージは脳内をかき乱すことはありません。
しかし多くの人は多大な労力と金銭と時間を費やし、架空の少女イメージにしがみつき、追い求め続けます。決して手に入らないと分かっていても。
マゾヒスティックな行動すらも少女性を巡る快楽の原動力でもあることを突きつけられたとき、人は畏怖するのです。少女というオブジェに。
 

少女コレクション序説 (中公文庫)
澁澤 龍彦
中央公論新社
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ここまで徹底して少女美と破滅の美学に腕を突っ込めるエロゲーというジャンルがすごい。性的な視線抜きでは絶対表現出来ない部分なので、描くなら18禁にならざるを得ない、というのもあるのかもしれませんが、逆にエロゲーの自由さを使って「少女」に挑んでみた、という手応えも感じました。
澁澤龍彦理論は今の時代にそのまま応用することは出来ませんが、それでもなお当てはめて考えることに大きな意義があると自分は思いながら、今の作品の中の少女に面と向かっています。少女を探して必死になる道化になっている姿が鏡に映って見えるのですが、どうにもやめようがない。
 

umeten
『少女漫画に『観用少女(プランツドール)』という作品があります。
特に、エロゲに限ったテーマではないと思えます。』

旧版の方を持ってるのですが、未詳録作品も全部入ってるのかな?
プランツドールは、同様の「観念化された少女」を手に入れんとする人々のオムニバスになっているので、角度が色々あって面白い作品ですよね。最初読んで、枯れる恐怖を感じつつもどれだけ欲しいと願ったことか!性的な部分がすっぽり抜けている感は少女漫画ならではでありつつ、少女に性を閉じ込めてしまうキャロルの描いたモンスターに近い気がします。そもそもこれも「少女でない何か」と割り切っているのがすごい。「自己愛」の面においては相当考える余地のある作品だとも思います。もっとも、もしこれが存在していたら、堕落していく人々の方が圧倒的に多そうです。自分とか。