たまごまごごはん

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「トラペジウム」何度でも君には嘘をつき続けてほしい

 

トラペジウム

トラペジウム

  • 結川あさき
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サイコパス」とか「脳を焼かれる」とか物騒なワードをよく見かける『トラペジウム』を観ました。

いい映画だったなあ。

特にラストあたり。ヒロインの東ゆうが大人になって、テレビの取材を受けている最中に言っている言葉が嘘っぱちなところ。

だよね!痛い思いをして成長しても性格の歪みは残るよね!そのままの君でいて

 

東ゆうというヒロインが好き。人間が時折心の中に浮かんで「ああこんなこと考えたらだめ」とチクッとなる思いを、そのまま出せちゃうキャラという印象。

4人そろってボランティアする姿を誰かに見せて、アイドル活動の布石にしたい、とほくそ笑むのは確かに不純。でもそういう気持ちが心にちょっとよぎって、ああいけないいけない、とブレーキ踏むことって、絶対ないと言い切れないと思う。そのブレーキがないのが東ゆう。

15歳だもんね、やりたいことに夢中すぎてボランティアに誠意を注げないのは幼さゆえ。わからんでもないよ。態度に出したのはヘイトを買うかもね。

 

崩壊にいたるまで、東ゆうという、中身が純粋すぎる子供のままで、知識だけ成長過程に伴って育っているちぐはぐな子のお話だと考えて観ていた。いたたまれないものの「痛い思いをして育ってよかったね」という、ぼくはちょっと距離を持った見方だったかもしれない。

だからこそ、最後に性格悪いところちゃんと残して「成長はしたけど根は変わってないよ!」と見せてくれて、いやっほう!という気持ちだったのよ。

それ、個性ですもの。失わなくていいもの。

 

君はプロデューサーにはなれない。アイドルになりたいという我が強すぎる。それでいい、キラキラした星じゃなくてギラギラした太陽になればいい。悪口言われも平気なタフさを持っているので、ガンガン突き進んでいただきたい。仮に何度干されても君は噛みつくでしょ。そういうのが見たかったから嬉しいの。

その割にプロデュースに夢中で自分の魅力出せていなかったんだから、セルフプロデュースに全ベットしたんだろう。いいぞー、嘘も才能だ。

 

問題は他の子たち、西の大河くるみ、南の華島蘭子、北の亀井美嘉。

『東西南北(仮)』という記号化された名前でデビューしちゃった。

でもこれ、東ゆうの目論見だけじゃなくて、大人が密かに仕組んでいたこと、既定路線だったことにぼくはひっくり返った。

なんだよ東!お前が大局を左右しているみたいな言い方してたけど、お前が大人の手のひらの上だったんじゃん!

この作品大人たちはいい人ぞろいだし、アイドルデビューまでのトントン拍子はご都合主義的なんだけど、そこはアイドルアニメあるあるなのであんま気にならなかった感じ。きっかけはあんまり詳しく書いてもおもろくないし。それよりトリガーが引かれてからの経過が興味深い。

東以外の3人もテレビ出演が決まってから、割と心の底から楽しそうだった。東ほどじゃなくても、アイドルデビュー前後くらいまでは間違いなく青春しているように描かれていた。

なんせこの3人、それまでまともな学生生活送れてきていない。散りばめられた伏線に込められていた、直接描かれていない部分での心の傷があまりにも大きすぎる。

蘭子は最初面白キャラみたいな立ち位置だが、実際はテニス部ではかなりバカにされている様子。友達がいない。学校でこの派手なお嬢様が孤立しているのを考えるとかなりしんどい。

美嘉は深刻。いじめにあっていて、整形手術までしている。なのに高校に戻ってきてからまた過去を掘り返されるとか地獄やんけ。東が子供の頃いなかったら、再会できなかったらどうなっていたんだろう…ああ、彼氏がいたわ。それすらも一回アイドル活動中に別れさせられたけど…。

くるみはそういう孤立はなく、逆に周囲の男子生徒にちやほやされすぎてしんどくなっているキャラ。目立ちたくないのにオタサーの姫に担ぎ上げられた、居場所が作られすぎて居場所のない子。ロボットの練習をしているプールがめちゃ汚いのが象徴的。

 

だいぶ淀んだ暗い気持ちの学生生活を送っていた3人。理由はどうあれ東に引っ張り込まれてつながって、東西南北(仮)としてテレビ企画をやっていたときの笑顔。あれは本物だった。高校生の青春送っていたと思う。TVアニメだったら3話までで集結、5話くらいまでテレビ企画のドタバタ奮闘、という感じ。きららっぽいやつ。4人でジャンプしたのが見える。

きっかけが東のねじれた情熱だとしても、行き着いた先が崩壊だとしても、案外この3人って「東のこと大嫌い!」ってなってない。やり方に不満はあっても、怖いと思っても、アイドルやめたいと思っても、東のことはもう見たくもない、ってなってない。過去の自分たちの孤立があったからかもしれない。

3人にとっては色んな意味で星だったと思うよ。東。

 

そりゃ、決裂前に宿題にしていた歌詞も、こっそり各々完成させもするよ。勝手に作詞を決めた東に文句あってもよかったけど、あの三人はそこまで反対もなかったし。

好き嫌いは別として、ちゃんと喧嘩をしたのがえらい。美嘉が「怖いよ」と言ったのは拒絶じゃなくて、信頼していたからこそなんだよなって思う。

 

どちらかというと、ファンの姿が文字情報以外で出てこないほうが怖い。初ライブもテレビ収録のステージで、観客がいない。ネットの意見、ファンの手紙等、人気があるのは間違いなさそうだけど、顔が見えない。全く出てこないので、多分意図的。

東ゆうが「アイドルになりたい」が強すぎて周囲が見えなくなっている表現なのかもしれない。目的と手段が云々というやつ。ファンの姿が描かれちゃったら、他の3人の追い詰められた状況も「でもファンの応援があるじゃん!」という踏ん張りに変わってしまうし。あくまでも4人の話にしたかったんだろうなって。

マクロな視線がどんどん削ぎ落とされて、ミクロな視点になっていくから見ていて息苦しい。今回別のアイドルグループが出てきていないのも視野が狭まる一要因。彼女たちは虚無に対してアピールしているように見えてしまう。そもそも彼女たちの人気ってどんな規模だったのかな。

東が主人公として描かれるため、アニメではいわゆるレッドのポジションに見えるけど、実は観客側からみたらそうではない、人気はおそらく最下位、というのはだいぶ面白い。

4人でセンターがいないというのはすごく大きい。彼女極端にファンレターが少なかったけど、ひとつひとつが重そう。どんな内容だったんだろう。

 

別のアイドルアニメに出てくるライバル側アイドルの裏を描くとこんな感じなのかも、とぼんやり考えた。東ゆうみたいにワンマンでエゴイスティックで、勝つこと目立つことばかり考えてチームメイトを思いやれ無くて…。そのグループの子の間でも人間関係があって努力があって失敗続きで…。

かわいいね。いい青春映画でした。

 

帰り道、ミクロな視点で見つかる楽しさと、見つからない恋がある「放課後帰宅びより」

 

 

ぼくは「お前ら付き合ってるんでしょ、えっまだなの?うそ?どうみても付き合ってるだろなにやってるの!」系漫画が大好きでして。

からかい上手の高木さん」をはじめとして「好きな子がめがねを忘れた」「今日から始める幼なじみ」「宇崎ちゃんは遊びたい!」等々。途中から付き合うのはもちろんOK!

 

その中でも最近ぼくの中でメガヒットなのが「放課後帰宅びより」

簡単にいうと「帰宅部」を真剣に行う「ハイパー帰宅部」の漫画。

足を痛めてスポーツ全般ができなくなった少年・佐藤瞬。全力で帰宅をするちょっと変な先輩の女の子・佐藤直希に誘われて、「ハイパー帰宅部」に入部して一緒に全力で帰宅をする、という作品です。

 

…っていうふうに書くと、あまりにも地味すぎて、この作品の面白いところが伝わらないんですよ。毎回悩む。すげー面白いしときめくしワクワクするのに、「帰宅する漫画」というまっすぐな感想だと、何にも面白くなさそう。面白さを伝えるために、あがいてみるね!

 

すぐに帰ろうとする直希こと、ついたあだ名は「直帰ちゃん」がかわいいというのは言うまでもなし。「君は◯◯なのか」「◯◯してくれ」「◯◯なのだ」という武士みたいな言葉遣いをする、ちっちゃくて子どもみたいな見た目のボブカットの女の子。そして先輩。序盤は瞬が男子ということを全く意識しておらず、かわいい後輩という距離感でぐいぐい迫ってくる。運動神経はゼロ。でもいつも楽しいことを見つけてニコニコ。

序盤は直帰ちゃんの視点のミクロさが、この作品の面白さに直結しています。高校生ともなれば、学校生活ってこうだよな、みたいな大きな視点で、今までの知識を元にうまくやるテクニックを身に着けているものです。しかし直帰ちゃんは純粋な子ども視点であるがゆえに、落ちている石や枝を見つける度に目をキラキラさせます。彼女の想像の中ではその枝は偉大なる剣のようなもの。

 

道草って、想像力で新しい発見をする楽しさが根底にあったと思います。それはマクロな視点で道全体、区域全体を見下ろしているとわからなくなるもの。地面をよく見て、近所の動物と触れ合って、初めて発見できるものです。なので直帰ちゃんのミクロすぎる視点は他の人が見ている視点と全然異なります。これを人は変人と呼ぶのかもしれないけれども、切り口が人と違うだけです。

この体験を、自身の子ども時代と重ねられる人は、この漫画めちゃくちゃ面白く読めると思います。

 

そんな体験ないよ?という方に、この作品のラブコメぇな部分をプッシュします。

瞬としては急にかわいい先輩女子に引き連れられて毎日ハイパーな帰宅をすることになったら、そりゃ意識もしますよ。男の子だもん。

彼は最初は直帰ちゃんの行動にツッコミをいれたりもしていたんですが、次第に彼女と一緒に視点を変えることを楽しく思うようになります。そして、自分がスポーツをやりたかったのに足の怪我でできなくなったことを、彼女に打ち明け泣いてしまうほどに心を開くようになります。これがふたりの大きな転機。

なので序盤は「瞬が見た直帰ちゃんの奇行と、新しい視点探し」というのがメインになっています。

 

ところが最近、直帰ちゃん側が気づいちゃったんですよ! 自分の方こそが瞬と一緒にいたいと、ふたりきりでいたいと願っていたことに! 気づいちゃった瞬間の超赤面がかわいすぎるので、見て!こっちまで顔真っ赤になっちゃう!

まあ、最初に書いたように周りからみたら「え、お前ら付き合ってるんじゃないの!?」案件なのですが。ミクロ視点で物事を素敵に切り取れる人間だからこそ、客観視ができていないのよ。

そこからは漫画も「直帰ちゃんが見た瞬との日々」に視点が変化していくのが、表現としてすごいうまい。直帰ちゃん自身も、自分が瞬を見て感じる胸の高鳴りがなんなのかわかっておらず、慌てるばかり。今まで笑顔で棒を振り回していた子が、自分を制御できず無意識に赤面しまくる様子があまりにもかわいらしい。

 

個人的に好きなエピソードが、美術の授業の話です。4巻収録34話「絵を描こう」。高校生活の思い出、自分の青春を絵に描いてください、というお題に対し、帰り道と野良猫のボスを描こうとする直帰ちゃん。

最初は題材として「道」「ボス」だけ、少し離れた位置から描く予定でした。でもそこはやはり、ミクロ視点でよいものを見つける直帰ちゃんなだけあります。どんどん好きなものに近寄ってしまう。

描いた絵は、ボスを撫でている瞬の大きな手、画面からあふれんばかりのボス。帰宅時の夕日に照らされて、ふたりの姿はオレンジ色で塗られています。彼女が自身の視点の切り口で描くと、好きなもの(瞬とボス)はとてもとても大きくて、それによって心が満ちているのがよくわかる話です。

もう一個、2巻のカセットテープの話も「今を切り取る」「ロマンを感じる」という点で非常によくできた話なので、おすすめ。今の子はカセットテープしらないよね。

 

帰り道に後輩の瞬と大好きなものをいっぱい見つけていたから楽しかった。瞬も大好きなもののひとつで、それはLIKEだったはず。でも気がついたら、瞬への意識が強くなっている自分に気がついた。いいラブコメだと思います。

と同時に、瞬と直帰ちゃんが恋愛方面に目が行き過ぎると、せっかくふたりが世界を楽しく切り取ってきたのに、それが鈍るんじゃないかという余計な不安も湧いてきてしまいます。4巻はまさにその瀬戸際だったのですが、絵の話をはじめとしてちゃんと世界は何もかも楽しめるワンダーランドである視点を忘れていなかったので、期待できると強く確信できました。

 

とても地味な話ですが、だからこそ読んで、かつて心の中だけで遊んでいたものと重ねて欲しいですし、ふたりの淡すぎる恋模様にキュンキュンしてほしい、素敵すぎる作品です。

これは個人的に感じる蛇足なのですが、この作品は男子と女子がそこまで極端に強調されていない、むしろ一部未分化ですらあるのが魅力だと思っています。男子はバカで、女子もバカ。高校生って子どもだし、子どもだから見える大切な視点がある。それがうらやましいんだ。歩こう歩こう私は元気。

 

僕は「紅の豚」が宮崎アニメで一番好きだけど君はどう?

 

 

 

僕は紅の豚宮崎駿作品の中で一番好きです。一番です。

 

と同時に、宮崎駿は「魔が差した」作品として、黒歴史扱いしているのも有名な話。

このあたりはだいぶ前に書いたエキサイトニュースの記事に「紅の豚」関連の宮崎駿周辺の発言や記録をがっつりまとめているので、こちらも是非読んでみてください。当時の自分頑張ったなー本買いまくってめっちゃまとめてるじゃん。

www.excite.co.jp

 

 

 

「僕は、政治的には再軍備も反対だったし未だにPKOも反対な人間なんですけれど、軍事的なことについて、一貫して興味を持っているんですね」

「魔がさしたんです……、ああいうのは……」

ミリタリー好きからは逃れられないもので、それを精算したのが「風立ちぬ」でしょうか。「君たちはどう生きるか」でもキャノピー作ってたり、ちっちゃい戦車出してたりしましたね。

紅の豚」については庵野秀明がくそみそにいっており「『紅の豚』はもうダメです。あれが宮崎さんのプライベート・フィルムみたいですけれど、ダメでした。僕の感覚だと、パンツを脱いでいないんですよ」とバチバチに叩いています。そこまで言わんでも、と思うけどこれこそが後の「風立ちぬ」につながる、ふたりの作家のものづくりへの愛だったんだなーとも。

 

人が死ぬシーンがなくて、ほんわかかっこよくて、主人公が豚で、ロリコンの夢みたいなフィオと、大人の女性の権化みたいなジーナに好かれて。…あ、確かにパンツ脱いでないわ。おっさん趣味丸出しでかっこつけすぎて「魔がさした」というところなのかな。

でもね、そこがいいじゃん。エンタメとしてはこういうかっこいいヒーロー、美しいヒロインたち、見たかったんですよ!ちょっと恥ずいから自己投影は豚っていうのも、共感できるじゃん!

宮崎駿の自己追求の芸術ではないかもしれないけれども、好きなものを詰め込んでみせてくれたわけでしょう、最高のエンタメじゃないですか。

 

その好きなものをもっとむき出しにして、グロテスクさにも目を背けなかったのが「風立ちぬ」なのも、わかりますが!ちょっとくらいかっこつけてるのも、いいよね。そこが大人だから、アーティストだから、恥ずかしかったのかもしれないけれども、観客のぼくは嬉しかったよ。

 

それまでの宮崎駿作品は子どもたちが主役で、見ていて爽快だったんだけれども、ある意味「カリオストロの城」に戻ったと言うか、かっこつけて理性で人間の本来の部分を隠しているのが「紅の豚」。

ルパンがクラリスを抱きしめなかったように、ポルコもフィオのラブには答えない。フィオはあらゆる宮崎駿作品の中でもロリコン度MAXだったと思います。「手を出さない」ことで豚のキャラを立たせるキャラでしたね。

 

そんなハードボイルド、あるいはハードボイルドごっこが、ぼくはたまらなく好きなんです。電話口で「飛ばねえ豚はただの豚だ」なんていうの、ださいじゃないですか。だから現実を見ているジーナにも怒られるんだけど、言っちゃうんだよ。男って本当にバカね! でもバカなミリタリー狂の男が夢中になって飛ぶところ、見たいじゃん。手に汗握って空中で赤い飛行機ひねる馬鹿男、見たいじゃん。

 

ぼくはそういう馬鹿野郎が大好きなので、夢中になって「紅の豚」を見続けてきました。何度見ても飽きない。

アクションシーンの描きこみは素晴らしいし、ばあちゃんたちや子どもたちの蠢きまくる命も素晴らしいし、ジーナのファム・ファタル感も素晴らしいし、真逆のようでそっくりなカーチスも素晴らしいし、マンマ・ユート団の馬鹿っぽさも素晴らしいし、男が夢想するであろう理想の少女像たるフィオの姿も素晴らしい。

ただ、人間そんなに完璧の積み重ねでできているわけではない、と指摘されると辛い。それはそう。

何より人が死なない。死んでいる人間はいるけど死ぬシーンはない。あんだけドンパチやれば誰かしら死ぬはずだけど死なない。「もののけ姫」はちゃんと死ぬのに。ここもずるいと言えばずるいんだけど、エンタメ作りとしては何の違和感もなくて安心して見られる。目を背けたとも言えるんだけれども……。

いいじゃんたまには。

 

家族向けハードボイルドごっこアニメとして完璧です。だから多分、刺さった人が大好きになるのは、仕方ない。ぼくは「紅の豚」を愛する自分を肯定します。

紅の豚」を「風立ちぬ」「君たちはどう生きるか」とあえて比較しながら見ると、人間ってそんな簡単にストーリー化できないことや、複雑に動く綺麗で汚い生命の描写そのものが全然違うので、発見が多いという点でも意義のある作品だと思います。飛び立つオウムの群れのうんちの雨は、「紅の豚」の輝く赤い翼やかっこつけたセリフとベクトルが違う美しさがありました。

 

ぼくは作中でポルコたちがカートゥーンアニメをぼんやり見ながらしゃべっているときのような格好をして、「紅の豚」を見て「いい映画だ」と全肯定するのが好きです。全肯定する自分が好きです。

ぼくのアッパー系脳内麻薬にしてチルアウト作品、おじさんの夢「紅の豚」は、誰がなんと言おうと、作者がなんと言おうと、一生の宝物です。ありがとう宮崎駿