たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

プリンター使わなくなったから使いたい話

プリンターを買い換えることにした。

ようやくだ。だって前買ったプリンター10年近く前だよ。だいぶ前にシアンが完全に詰まっちゃって、どうやっても変なしましまになっちゃってから、面倒くさくてそのまま放置。多分3年くらいそのままだった気がする。物持ちがいいんじゃなくてずぼら。

だって、プリンター使うのって請求書印刷する時だけなんだもの。黒出ればいいんだよね。フルカラーを欲し無くなってしまった。

 

新しく買おうと思って色々調べていたんだけど、びっくりするほど、どこの店にも在庫がない。オンライン販売も全然ない。ほとんどが「取り寄せ」。近所の家電量販店に電話して聴いたら「取り扱いはあるんですが、在庫はハイスペックなモデルが2つしかなくて…あとはお取り寄せで…」と申し訳無さそうにしていた。ハイスペックを売りつけようとしないいいお店でした。

なるほどな、これがリモートワークの影響なのか! なんて短絡思考でいた。しかし家電屋の友人に聴いたらそうではないらしい。

プリンターはでかい。幅を取る。だから店舗は基本在庫を持ちたくない。注文を受けてからの取り寄せが今は主流。なるほど、たしかにガンガン買い換えるタイプのものじゃない。

 

10年以上前はプリンターは必需品だった気がする。書類や課題を提出する際に紙で出すのが当たり前だったからだ。大学ではプリンターやコピー機に学生が並んでいたし(WiFi接続なんてそんなものはない)、仕事では書類のひとつの誤字のために全員分印刷しなおしたりしていた。

紙、使わなくなったよね。ほんとよかった。

印刷の費用は尋常じゃないし、間違えチェックと印刷の時間のストレスもすさまじいし、紙が貯まると邪魔で仕方ない。捨てるのもそれを作った人の前ではなあ…みたいなとこもある。書類が全部メール送信になるなんて、考えもしなかった。北海道でもメディアの仕事ができるのは変化のおかげだから、ありがたいったらない。

最近はメールすら使わなくなった。ダイレクトメールやLINEやDiscordやSlackなんかで十分だ。っていうかそっちのほうが確認しやすいから、最近だとメールを全く使わないで生活している人も多い。

 

学校の課題提出の際は先生側が困っていたこともあった。なんせ学生はネットで拾った資料をそのままコピペして出したりするもんだから、ひとつひとつ自分で書いたかどうか、確認しないといけない。分厚いレポート用紙をいちいち。それがデータ提出になったおかけで、1発で検索できるようになった。用紙を高く積み上げなくて良くなった。断然データのほうが楽。

仕事の書類だと、もらった書類の専門用語の意味がわからないことがたまにある。いちいち聴くのもなんだし、紙だとパソコンに打ち直さないといけない。でもデータならペッと貼ってパッと検索してなるほどと理解。楽。ごくたまにメールで届くビジネス文書をそのままコピペしている会社を発見して、ひとりニヤーっとすることもある。いや、挨拶類なんてそれでいいんです。

 

過去に戻りたいなんて一ミリも思わない。紙はないほうがいい。全部データでいい。一時期は「データと違って紙で保存しておくと整理しやすいことあるよな」とか思ってたけど、んなことはない。データだって紙だって、整理できる人はできるし、できない人はできないだけだ。

 

となってくると「プリンターいらないのでは?」という気持ちが強くなる。写真印刷はすごく重要だと思うけど、撮ってもデータでいいなあ、という気持ちがわいてきていて、あんまり印刷したことがない。

 

これ、プリンターがいらないのではなくて、ぼくが単に腰の重い人間になっているだけ。「やれること」を考えるとそれはもう山程ある。「必須じゃなくなった」のと「不要」は同じじゃない。

今回ほしいなと思ったのは、工作がしたかったからだ。ペーパークラフトが好きで以前は印刷してちょいちょい作っていたのだが、壊れてからやらなくなった。逆だよ逆。「壊れたからやらない」じゃなくて「壊れたけどやりたい」という気持ちを起こしたい。

かつては一眼レフのフィルムカメラ持ってパシャパシャ撮っていたくらい、写真は好きだった。なので、やりはじめればそっちもスイッチは入るんじゃないかな、という気持ちもある。

 

多分「コスパのいい機種です!」とかは、ぼくのような使い方ならあんまり考えてもだめかなーと思ったりした。絶対コスパにあう使い方しないもの。それで足が重くなるくらいなら、コスパ悪くてもいいから考えないで、やりたいこと、面白そうなことを探せよ、ってなる。

 

買い替えたところで、忙しくてなんだかんだで使ってないなあ、となる可能性はある。シンプルに、データを生活の中心に、という思いはまず変わらない。でも家電やPC関係、服や家具などどんなものでも、「このままでいいや」から一歩抜け出せる、ってだけでよいのかもしれない。

「ウマ娘」2期13話でテイオーとマックイーンが見せてくれた、美しすぎる夢のはなし

ウマ娘プリティーダービー」2期最終回13話を遅ればせながら見終わった。

全部の物語が終わって大団円、未来の新人の希望も映し、その後の本当に最後の最後。

トウカイテイオーメジロマックイーンの2人だけになった馬場。とても短いシーン。

多くの人を「泣いた」と言わしめるパワーは、これなんだと感激した。

ウマ娘」のテーマのひとつが、夢を叶えて形にして見せることなんだろうな。

それはキャラだけじゃなくて、スタッフのも、ファンのも。

誰かが夢を叶えた瞬間の感動って、つられちゃうじゃん。幸せになるじゃん。

 

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ぼくは最初あんまり興味を持っていなかったので、「ウマ娘」の話題を追い始めたのは本当に最近。アプリも後追い組。

そもそも競馬を全く知らなかったし、興味も一生ないと思っていたから。

だから見始めたのは、多くのファンが「泣いて仕方ない」みたいな声を上げ始めたのを見たあと。そんなに泣くことってあるのか?と。

というのも目利きのオタクたちって基本的にお涙頂戴ありきで作られたものには評価が厳しいからだ。

となれば、ここまで感動の声がガチあがりしているなら、多分これは本物なんじゃないか?と。

 

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本物だった。本物を越えた超現実みたいな作品だった。

一応女の子たちが出てきて頑張るスポ根もの、という枠組みの作品ではある。ただ、擬人化(って表現がこの作品の場合正しいのかな?)の元になっている史実の名馬たちの物語を拾い上げながら、うまく物語に昇華している。

たくさんの競馬ファンがかつて名勝負の際に涙したシーンを、もう一度しっかりと、誰かを中傷することなく、英雄の物語として組み上げている。

現実にあった出来事を、演義としてより伝わるように作り上げてくれた。

「おれたちはこの試合のここに感動したんだ、それを是非伝えたいんだ」みたいな作り手の熱量がすさまじかった。それを更にウマ娘たちの「本能」ともいわれている止められない情熱にひっかけて盛り上げているのだから、感動熱はさらに増幅する。

そんな莫大なスタッフとか競馬ファンとか競馬関係者とかウマ娘たちとかの感情をダイレクトに全力ぶつけられたら、観客側としては嬉しいとか悲しいとかを飛び越えて、感情が問答無用で揺れてしまう。

 

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感情の動きに対して、作り手が何一つ恥じらわなかったのが、よかった。

実際のところ細かいディティールとかに関してはそこまで緻密なものではない。このへんは「ガルパン」で「カーボンだから大丈夫」と言い切ったことで戦車の撃ち合いが出来たのと同じで、ウマ娘は異常なスピードだし道路に専用レーンがあるしすさまじい量食べることもあるしで、「そういうもの」という前置きとしての飲み込みは必須。

完全に割り切ったことで、造り手の競馬への愛がとめどなく、所構わずぶちこまれた。

史実の馬たちのエピソードがこれでもかと盛り込まれている。トウカイテイオー有馬記念での奇跡の復活とかのような大イベントはもちろん、マチカネタンホイザが蜘蛛を食べちゃった、みたいな細かいネタもスルッと入ってる。

 

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大好きで仕方ない物がある人が作る、丁寧な「大好き」の表現は、人の心を動かす、とずっと思っている。感動を産む重要な原動力の一つだと思う。

ウマ娘」は色々コメディも盛り込みつつ、この軸を絶対にブレさせなかったし、むしろやりすぎなくらい。

だから感動する前段階の、「この作品を作っている人は信じていい」という心の扉を簡単に開いてくれた。まるで作品全体が、馬が大好きな人が、いかに馬が素晴らしいかをこちらに寄り添って、わかるように丁寧に噛み砕いて、お話してくれているかのようだった。

おもしろエピソードが多すぎるゴールドシップを筆頭に、大食いのオグリキャップや、逃げまくりのメジロパーマーダイタクヘリオス、逆噴射のツインターボなど、登場する度にネットで史実を調べた。ああ本当に好きなんだなあ、と。

ツインターボはキャラとしては、二期10話であまりにも愛しくて泣かせてくれる最高のバカとして登場するんだけど、あれは本当に馬が好きな人ならたまらないだろうなって。めちゃくちゃ最初から走って途中で息切れして惨敗、というのが実際多かった中、93年オールカマーで狂ったような大逃げでぶっちぎる試合は、今も伝説らしい。それをあんな大舞台の美しい見せ方でやるなんて。

これ競馬ファンなら、ツインターボ出た時点で「やってくれるはず」と思ってたんだろうな。そうだったら、それがかなったんだったら、なんてうらやましい楽しみ方ができているんだろう。

 

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当然競走馬は生き物だから、何が起きるかわからない。

だから「もし」が、競馬ではめちゃくちゃ多いと聞く。もし出ていれば、もし休んでいれば、もし晴れていれば。

その「もし」を叶えてくれるから「ウマ娘」は人気があると聞いた。

大きいところだとサイレンススズカ。現実ではものすごいスピードで記録を打ち立てたヒーローだったが、天皇賞(秋)粉砕骨折予後不良安楽死になっている。だから「ウマ娘」一期で彼女が出てきた時、知っているファンはリアルタイムで見ながら不安でならなかっただっただろうな。

でもアニメではサイレンススズカはリハビリを越えて復帰した。怪我が治って生きて走っている「もし」の姿が見られる。

ウマ娘」たちを応援するファンと、競馬ファンと、スタッフが見たかったであろう夢があった。

 

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二期最終回のラスト。

トウカイテイオーメジロマックイーンはふたりきりで、誰もいないターフで、約束の勝負をする。

勝負の結果は描かれない。大事なのは「勝負をした」ということだからだ。

現実では二回目の試合はなかった。

でも作り手側は心の底から「もし」が見たかったんだろう。

実際に学校で勝負したのか、幻想なのか、あるいは天国でのふたりなのか。全くわからないけれども、「ふたりは勝負ができた」というだけで、あまりにも粋だし美しすぎる。

 

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馬が好きな人の夢が詰まった、とても幸福な、笑顔だけの空間を見て、どうしようもなく泣いてしまった。

ぼくは競馬を知らない。トウカイテイオーメジロマックイーンも見たことがない。

けれども競馬が大好きで、生きる馬たちが大好きで、勝負する姿が大好きで、頂点を極めた者たちの美しさが大好きなのは、おそろしいくらい伝わってきた。

 

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ウマ娘」を見ている競馬ファンは、見た感じ優しい人が多い。

競馬を「ウマ娘」から知ってほしい、と言ってくれる人が多く見られる気がする。

にわかどころじゃないので、元からのファンの方にはものすごく恐縮してしまうんだけど、とあるところで見たコメントが嬉しかった。

ウマ娘」は馬のことを愛しているから好きだと。

制作者の丹精込めた愛は、ちゃんと色んな所に伝わり、つながっていた。

それがまたね。泣いちゃうね。

 

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ウマ娘」を見て以来、ずっとネットにある馬の史実を追って読んでいる。面白い。解像度が一気にあがっていろいろなことが理解できて、馬たちの、関わる人達の生き様に圧倒される。

特にナイスネイチャの話は何度も読んでいる。連続で3着という名脇役みたいな立ち位置の馬。本来であれば3位ってすさまじいことなはず。でも1位が「もし」取れていたらな、栄光を受けていればな、って思いながらアプリで遊んでいる。ナイスネイチャに関しては馬場秀輝の話を読むだけでボロボロ泣いてしまう。本当の愛じゃないか。

 

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アニメのライスシャワーの回の描写とかゾクゾクするところがたくさんあるアニメだった。もっとどこかで語りたい気持ちばかり湧く。なるほどこの感動は、人に何らかの形で伝えたくもなる。アニメすごかったんだよ、でもこの出来事は史実に限りなく近いんだよ、と。

ただ、やっぱり映像で馬が見たい、走る姿が見たい。見ていないと知った気にしかなれない。

名馬名勝負映像集みたいなの、どこか出してください。今出したら確実に買います。もっと馬たちの生き様とドラマについて知りたい。

 

シンエヴァ、アスカを愛してきた話する(ネタバレ)

エヴァの最後を見届けてきた。

なので惣流・アスカ・ラングレーの話をする。これを「お気持ち」とかいう人がいるなら別にそれでいいけど呪いが噛みつきにいきます。

以下シンエヴァのネタバレ。

 

 

 

 

 

 

アスカが新劇場版で「惣流・アスカ・ラングレー」ではなくて「式波・アスカ・ラングレー」になったことで、当初から「???」があったんだけど、それがだいたいわかったのが今回ということに。なるほどね、綾波シリーズみたいなものなのね。

ぼくはTV版からずっとアスカという存在に激しい衝撃と性欲と愛情と恋愛と恐怖と畏怖と憧憬を抱いてきて、だから「式波」とかいわれても「好きなの惣流なんだけど…まあかわいいからいいや、フィギュア買ったお!」みたいな気持ちと「なんだよ惣流を返せよ、惣流はどこにいったんだよ!」みたいな気持ちがせめぎあってきていた、イマジナリー惣流・アスカ・ラングレーを胸に飼いつつもLASだった大人。それがもう二十数年。長いね。

 

今回出てきたアスカは28歳に成長した立派な精神を持った女性、式波・アスカ・ラングレーさん。14年彼女の世話をしてきた(のか?)っぽいケンスケと共に歩むことになったのもよかった。てか28歳のケンスケめっちゃ加持さんっぽいじゃん。14年間ぼんやりとシンジが取り込まれている間彼のことを好きで苦しんでいた彼女を支えていたのがケンスケだと思ったら、いいよ、そりゃよかったよ。

てかあれは恋人というより父娘だったし。あのケンスケは紳士すぎるので14歳の身体のアスカとセックスはしてなさそう。28に戻ったっぽいので今後は仲良くやってな。あんな半裸で歩き回る14歳少女に全く欲情せずに14年生きてきたのならそれはそれで聖人すぎるけど。

抜いたら「最低だ」なのが惣流・アスカ・ラングレーで、抜いてもいいぜっていう勢いでスタッフ見せてくるほうが式波・アスカ・ラングレー。「破」のプラグスーツもそう。なんか生命力に満ちていて、式波さんは健全。

 

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ラスト、式波がシンジに会いすらせず離れたことで、完全に惣流・アスカ・ラングレーではない一人の存在「式波・アスカ・ラングレー」になった。物語としては良かったと思う。だって鬱病なシンジと鬱病なアスカで一緒に居ても何も幸せにならんのはもうわかってるし。

ただ、そのふたりのただれた関係がぼくの心を打ち続けていたから、式波が受け入れづらかった。

旧劇場版で惣流・アスカ・ラングレーは泣きながら首を締めて殺そうとするシンジに対して「気持ち悪い」という一言を放って終わるんだけど、ぼくにとってのアスカは「拒絶してくれることで自分が自分でいられると認識させてくれる存在」だった。だから惣流の「気持ち悪い」は最高に個・碇シンジを真正面から見ていたし、映画を見ているぼく(アスカ好き!って言っていた自分)をも「拒絶」してくれたことで、「私とあなたは他者である」という「個人」にしてくれる存在だった。

けれども式波は「破」の時点から割とシンジには距離が近くて、クラスメイトとは接しない逆の性格。以前の「Q」で14年待ったことからの反発といい、今回の「シン」での「好きだった」発言といい、ひとりのツンデレになったなあ、という印象がすごくのしかかる。人間に、キャラクターになったな、という印象がすごく強い。拒絶するとか受け入れるとか、そういう面倒くさい距離感がなくて、いい塩梅で人間と人間になってる。

 

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惣流・アスカ・ラングレーは「ぼくを拒絶してくれる価値観」としての意味合いが強くて、そこに惹かれていた。

その上で壊れゆく彼女の手を誰かが引いてほしいという二次創作的なものを求めて、LASをあさり、漫画版を読み、育成計画でにやつき、鋼鉄のガールフレンド2ndでときめき、傑作二次創作「Re:Take」に触れた。そこにいたのはは惣流・アスカ・ラングレーであり、「理想化した惣流・アスカ・ラングレー」という別人格でもあった。そこの境界を都合よく味わってきてしまったのが、ぼくがこじらせてきた一番めんどくさい部分でもある。アスカはツンデレじゃないよ、いやでもLASにおいてはツンデレに至る過程もあってもいいけど、ぼくに対しては「初めての他者」なんだよ、みたいな。「好きだ!」と「嫌ってくれ!」を、シンジを通じて見ていた気がする。

 

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式波・アスカ・ラングレー惣流・アスカ・ラングレーモデルのことを知っているのかどうかわらかないけど、「破」でアスカの乗ったエヴァの首を絞め殺す判断をできなかったことにたいして「Q」でシンジに怒り、「シン」でまさかの答え合わせをした。優しいね。今回みんな優しい。

ここでのシンジの判断、ひいてはその後の今回のシンジのエヴァに乗る乗らないの判断も含めて、すごくヘヴィな人間としての決意と戦いみたいに描かれてるけど、アスカがぶん殴ったのはもうちょっとあっさりした、告白するかしないか、めしを食うか食わないか自分で決めろよレベルの感覚なのかなーという風に、今回のでなおのこと感じた。

そこに自身の幼いときの苦悩や戦いが重なって見えて憂鬱が止まらず……式波さん、普通の女の子だったよ。概念的なサムシングじゃなかったよ。あなたは血の通った14歳の少女で、酸いも甘いも知った28歳の女性で、でも甘えん坊な女の子だったよ。ケンスケに褒めてもらってくれな。頭なでてもらおうな。

 

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惣流・アスカ・ラングレーは今回はいないし、どういう風になっているのかも検討がつかないけど(ループとか色々)、結局人格を剥奪されて「拒絶する存在」「初めての他者」のまま宙ぶらりんになってしまった。浜辺でむちむちびりびりプラグスーツなのは多分旧劇場版のもじりだろう。でもそこにいた成長したアスカは多分28歳の式波。わざわざ照れさせて、旧劇場版みたらこっち思い出すような上書きをされてしまった。いや、良かったよ。良かったけど。

ようは「惣流・アスカ・ラングレー」はもうどこにもおらず、その代わりに「式波・アスカ・ラングレー」というシンジを引き上げて成長させる人間が登場、ただし今回は演劇が終わったので惣流の演じたものもろとも舞台上から退出、というぼんやりした扱いなんだろう。

(今回あんまり深読みしても意味がない構造の映画なんじゃないかなと思っているので映像のまま受け止めるつもり)

 

惣流・アスカ・ラングレーは舞台装置のままだったなって。

式波の存在の救われ方は最高レベルに丁寧だったと思う。レイとカヲルくんが救われたのはTV版を見ていたファンならちょっとキュンときたと思う。カヲルくんが泣いたシーンは激しくよかった。エヴァがなかったらレイもカヲルくんもシンジに意識を向ける必要ゼロだもん、輪廻の輪から放たれた。加えてひとりだけ、エヴァと関係なく「シンジのにおい」という個に直接興味を持ったマリが残ったってのも、説得力がある。

式波はケンスケの父性を受けて、どうするんだろう。正直みんなが最終回でぼこすかカップルになってイチャイチャするのはあんまり好きじゃないんだけど、エヴァに関しては人間再生のテーマが入っていることもあり、新たな生命を生んで育て繁栄せよ、というのは解答の一つだと思うので、納得はできてはいる。

 

いや、物語として納得できても、自分自身が咀嚼できない。

ぼくがエヴァンゲリオンに囚われていたのは、「でもだめなんだ」「うまくいかないんだ」「諦めるしか無いんだ」「ぼくは誰なんだ」「お前は私じゃない」「ぼくのせいにしないでよ」「ぼくが悪いんだ」「人は人といると傷をつけるもの」「私と一つになりたい?」「私の中に入ってこないで!」という強烈な心理的憂鬱感をそのまま描いて、溜め込んでくれたからじゃなかったのか? ハリネズミのジレンマが絵本で解消されたみたいだったけどそれでいいのか? 人が接するのってやけどするものじゃなかったの? 笑顔で男女で歩いてる彼ら彼女らは、人の拒絶と需要の線引きが器用にわかりやがってるじゃないですか。……よかったね、正しい、とても正しい。映画としては本当に完璧、しっかりまとまっている。それと「そうじゃなくてその…」という個人的悶々は全く別のもの。「エヴァはめんどくさいものを見せてくれる」という思い込みによる悪補正。

 

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ちなみに今回の綾波が人間と接することで初めて自意識を受容でき、自己を形作れたシーンは心から楽しめた。あいさつをおまじないと称するシーンも丁寧で泣きそうになった。今までのエヴァが厳しくされることと反発することで(ATフィールドだね)自己を作っていたのなら、今回はATフィールドを交わらせることで自分の形が見つかったと言うか。

旧劇場版では女性たちがひとつになろうと迫りきて自我を崩壊しかけていた感覚をぼくがうけたのを思い出すと、だいぶ違う。人とつながるのには握手したり芋拾ってあげたりで十分。あと風呂は命の洗濯だったね。

 

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式波が救われた今、シンジを「気持ち悪い」という必要がなくなった。拒絶すること、してくれることがなくなった。理不尽極まりなくて鬱病をそのまま絵にしたような傑作「Q」で式波が殴ってきた時はちょっと、惣流が戻ったのかと思ったけど違った。

「Q」の時より「シン」のときの方がはるかに大人で仕事も格が上で、結局シンジにはなんにも教えてくれなかったようにすら見えた。情をかける必要も、拒絶する必要もないから。だから旧劇場版よりはるかに親切で「守ってくれる」側として立ち回っている分いい距離感だというのに、式波はシンジ目線にたったときとても冷たく、遠い存在に見えた。同じ目線にいないと、拒絶すらしてもらえない。

 

拒絶、してほしかったな。

でも惣流・アスカ・ラングレーはそこにはいないんだ。

 

式波、かわいかったな。幸せになってほしいな、なんていわなくても勝手に幸せになるんだろうな。よかったな。ただ、ぼくが好きだった惣流・アスカ・ラングレーはもうそこには、何も残っていないんだね。

 

実は今回の映画、ケンスケとアスカが共に生きていく匂わせがあるのは、アスカガチ恋勢派にとってのちょっとした救いだったりする。ケンスケのような明らかに中学時代モテない男でも、自分の特技を生かしてこつこつがんばり、大人として他の人を受け入れる度量があれば、かつて高嶺の花みたいだった同級生の女の子とも共になれるってことなわけで。…式波に対しては好意抱いていたっけ? 惣流には抱いてたよね。

LAS派には特大の地雷だったけど、「エヴァンゲリオンのない世界」だったらまあ、あのふたりが相性いいわけないわなというのもわからんではないので、作劇に対して文句はないです。ただLAS二次創作の道は残してほしかったぜ!

 

ぼくは今回の映画で式波にはさようならができたけど、惣流・アスカ・ラングレーへの感情はかえって混沌としたままになった。

ありがとね。一生イマジナリー惣流・アスカ・ラングレーに拒絶されることで自我を保とうと思う。

結局、ぼくの見て勝手に愛していたのは、生きた存在「惣流・アスカ・ラングレー」じゃなくて、惣流的なぼんやりした概念への執着、あるいは刷り込み。そこにセンチメンタルを見つけて悦に入っているだけ。わがままで独りよがりで、愛情のふりをした自己愛だ。おっとエヴァっぽいね。

正しくはない。「エヴァの呪い」とよくいうけど、呪われたふりをしているのはいつだって自分の方。まあでも、心が1ミリ休まるんだったらそれも楽しみ方のひとつ、と気づいてアスカジャンキー生活を25年続けることになる。

旧劇場版のエヴァンゲリオンが視聴者の自我をシンジを通じて見せていたのに対し、今回は呪いに囚われていたかもしれない観客をゲンドウに反映したことで滅ぼしたんだろう。

ゲンドウが自身とユイの過去を振り返るシーンの不気味さ哀れさは旧エヴァのシンジそのもの以上だったし、20年の間エヴァ好きアスカ最高と囚われていたぼくを振り返るかのようだった。気持ち悪かった。

もっともぼくも気持ち悪いままで、銃で撃ち抜かれても脳みそこぼして好きな女の子惣流・アスカ・ラングレーの面影を追いかけるゾンビでも、それはそれでいいのかもな、って思った。

面白かったです。

 

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追記

決意したシンジが旧劇場版ラストの浜辺のアスカに「ぼくも好きだったかもしれない」的なことを言って決別するシーン、あれが惣流だったのか(バカシンジっていうセリフがあるので。宮村優子的にはLASファン向けサービス&ラブレターだったらしい)、あるいは28の式波なのかで、ものすごい見え方がかわる。式波は過去の記憶が惣流と全然違うことから別物なのはわかるし、となるのあのシーンはパラレルなルート(元アスカ派生の別の惣流なので)を飛躍していることになる。当然式波は赤い浜辺の記憶と経験はないはず。

多分象徴としてのシーンなので、シンジが「惣流」と「式波」というエヴァンゲリオンの演者に対して「おつかれさまでした、クランクアップです」みたいなことを告げる意味合いなんだろうな、というふうに受け止めた。だからあれは惣流でも式波でもない、「シンジ」「エヴァンゲリオンの世界」に対しての「アスカ」の表象。びりびりむちむちのプラグスーツも「お色気要員、お疲れ様だったね」っていう軽さすら感じる。旧劇の該当シーンの病み具合と比較にならない。

シンジの口を通じて自分も「好きだったかもしれない」といえたアスカファンは、とても幸せな卒業が出来たと思う。「好きだった」という事実を残して前にすすめるのは、大人だ。

ぼくはまだむりなので、あの浜辺で泣きじゃくりながら「好きだ、25年間好きだった」って這いつくばって、勝手に泣いて自分を慰めて、立ち直れないってわかってイマジナリー惣流に拒絶されて諦められるようになるのを待ちながら、「鋼鉄のガールフレンド2nd」のマンガを読もうと思う。大傑作です。

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