たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

オタクには、ゆずれない一線があるんだよ…。

●そうよそれが、カレンなオタクのポリシー●

人間は好きなものができると、心の中でそれを必死に守るようになります。
その姿は、ヒナを包み込む親鳥のようです。
とかかっこいいこと言ってみましたが、なんてことはありません。単に好きなアニメがあるので応援したいなあとかその程度のことです。
オタクじゃなくとも、何か好きな趣味ができると、そういう「大切にしたい」願望って必ず生まれますよね。非常に当たり前の感動でありながら、非常におくの深い感情でもあります。
しかし…それがまた厄介なんですよねえ。価値観バトル開始。
 

●どんなピンチのときも絶対(そのネタへの愛情は)あきらめない●

「今日の早川さん」けだもの目覚める(coco's bloblog)
早川さんは重度のSFマニア。SF小説に生きる魂をささげたかっこいい子です。
が、そうであるがゆえに「い、いえない…」という隠れオタ街道まっしぐら。あー、あるよね、あるある(自分の過去を思い出しながら)。
隠そうとしても本性というのは出るものです。その最も端的なのが、こういう場面でしょうね。まあここまではいかないけれども、気持ちとしてはあるよ!(やはり自分の過去を思い出しながら)。
 
目の前で好きなものの悪口を言われたときほど腹立たしいことはありません。もちろんそれが友人や恋人や家族のことなら殴り飛ばすのですが、これが「趣味」となるとなかなか難しいところ。

Aさん「ねえねえ、最近マンガで女の子同士でラブラブなのってあるよね。」
たまご「あ、うんうん、あるらしいねえ(白を切る」
Aさん「ありえないよねー、マンガでそういうのよむんだよ?」
Bさん「あ、でもほら、ぷりきゅあだっけ?あれってちゅっちゅするんでしょ?」
Aさん「そんなのやってるの?えー、日本大丈夫?」
たまご「…そんなシーンないぞ!そしてちゅっちゅだけが大切じゃないんだぞ!二人の心の部分を見るんだ!」

暴露完了。6割くらい実話です。
恥ずかしい人ですね。
でもそこで「そうだねえ」とは言えなかったですよ。言えませんよ。だって自分の中にとってとても大好きなところを、見てもいないのに意味のない偏見で変扱いされるのは耐え難い苦痛でありますよ。
だけどなんでしょう、このえもいわれぬ空振り感は。そしてズボンと一緒にパンツまで脱いでしまったかのような気まずさ。
 

●いつかほんとに出会う大事なマンガのために●

オタク生活を送っていて「これは譲れない!」という一線は、ある瞬間突然悟ったかのように生まれるものです。
そして、その心理が生まれるベクトルは二つあると思いました。
 
一つ目は、自分のプライドと絡む場合。趣味がアイデンティティの一部だったりすると、それをけなされることで非常に心に傷を負うことになります。特に好きであるがゆえに、深く深く掘り下げて調べるタイプのオタだと、これよくありますよね。ひねくれてしまうとこの作品は自分しか理解できないからお前らにはわからないよなんてことも。
二つ目は、そこに信仰にも似た気持ちが生まれていた場合。別に宗教ではないです。なにかものすごく感動して涙を流したとか、今までにない心の高ぶりを覚えた作品があるとかの場合です。こちらのほうが多いかもしれませんね。劇場で涙を流した映画について、ロビーで「あの作品のあそこが最低でさー、あの監督もダメな監督でさー」とかえらそうな口きいている人を見ると音速でロケットパンチぶちかましたくなりますよね。なりませんかそうですか。
 
どちらにしても、その価値観や作品をとても大切にしていることは間違いないです。そして、そこを踏みにじる人を「許せん!」という感情が少なからず生まれる人は多いことでしょう。
大人になると…その価値観とまったく相対する人の方が多いわけで、オタク心は時に、ガラスのように砕け散ることも。その破片がとんがることも。
 

●ツンと痛い胸の奥で オタが目覚めるわ●

価値観の対立によるショックは一種の通過儀礼みたいなもんだと思ってます。人間だれしもそのような怒りなしに成長することはないですし、ないほうが気持ち悪いです。
ただ、オタク生活をしていると、それがとにかく多いのもまた事実。
なんだかんだでメインカルチャーではないタイプのアニメやマンガを好む人ならなおのこと。サブカル領域ならなおのなおのこと。
時にはそれで口すっぱくして反論するのもいいのですが、大声で怒ったところでどうにかなるものでもないんですよね。個々の「これはゆずれない」ラインは、人にとってはまたどうでもいいことだったりしますし、言われたところでそれの価値が上がるわけでもない。
だから、心が痛みつつも「人は人、自分は自分。そして自分は百合作品が大好き。うん。」と納得するわけです。
ああ、なんか大人っぽいですね。
こうしてある人は隠れオタになっていくわけです。苦難の始まりです。
もっとも、自我がしっかりして、その上で大切なものを愛し、人も好きになれると隠れる必要もなくなるんですよね。そうなりたいものです。
 

●ときめくほうがいいよね、だからピッと凛々しく●

そういう意味ではネットは本当に偉大ですね。好きなものを「好きだ!」と大声で叫べる場所があるって、なんて気持ちいいのでしょうか。
確かに、大好きな作品に対して意味もなくバカにする声も多く入ってきます。それはとてもつらいことだし、感動を蝕まれるようで本当の涙に暮れることもあります。批評じゃなくて中傷に出会い、大切にしていた一線がすぐに踏み越えられることもあります。
だけど、同じ思いで「好きだ!」と叫ぶ声が遠くから聞こえてくるのもまたしかり。そしてそれに呼応するように「好きです!」と叫び返せるんですよねえ。
 
オタ生活を送っているのは「好きなもの」があるから。それを自分の中だけにとどめるのもいいですが、好きだと叫びながら共有する楽しさは何物にも代えがたいなあと最近感じます。
もちろん「好き」と叫ぶことは時には恥ずかしいこともあるし、反論されることもありますが、だからといって自分の中の価値観がかわるわけではないんですよね。自分はこれに感動した。それでいいじゃないか。
ときめくものはたくさんあった方が楽しいし、色々な人の好きなものを聞いて「どこに魅力があるのか」を探るのも新鮮で幸せな気持ちになれます。
ゆずれない一線は、ゆずらなくてもいい。ただ凛々しく立って、大きく風を受け止められるオタでありたいものです。
 
とかっこいいこといっていますが、自分の中の一線は「メガネ男子はメガネを直すしぐさがいいんだよ!」とか「ショートカットに貧乳は正義だろう常識的に考えて」とかその程度ですがなにか。
 
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