たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

この手はその少女に触れることが出来ないんだ。〜オタク世界の偶像少女達〜

WEB拍手で面白い話題があったのでサルベージしつつ雑記。

ふと思ったのですが、男性作者の書く少女と、女性作者の書く少女、どちらがお好みですか?

もう考えれば考えるほどいろんな話が頭を駆け巡るネタですねこれ。
おそらく突き詰めたら絵画とか文学の話にもなるんでしょうが、自分はそんな難しいことは分からないです。ただオタ文化内で、少女性をぎりぎりと突き詰めていくときにどう見えるのか、自分も興味があるので少し書き留めていきたいと思います。
とはいっても、作家の個性が大きく、一概にまとめることは出来ないので「あくまでも自分がどう見ているか」「男性作者の描く少女を、男性としてどう見るか」を中心にします。
  

●「すてきな少女」と「萌え」●

女の子って なんでできてる?
女の子って なんでできてる?
  おさとうに スパイス
  すてきなもの いっぱい
そんなもんで できてるのよ

何度見てもよくできたマザーグースの一節。
少女性を描く際に一番気になるのは、やはりその手に届かない感覚。
どんなに憧れてもどこか遠い所にいるんです。すぐ側に腰掛けていても、なんだか別の世界を見ているようで違和感があるのです。
そんな微細な違和感から、巨大な溝まで。自分が男であるということを意識すればするほど、なんだか「少女」という別の種族と平行線をたどっているような錯覚を覚えます。
もちろんこれはあくまでも空想の世界で。それを渇望して文字にしたり絵にしたりするわけですが、そこで視点が最初の分岐をしていきます。

1、少女の王国に住まう、神聖少女
2、人間ではないもののように切り離してしまう人外少女
3、自分の中のイメージや欲望で切り貼りした偶像少女

まだまだ細分化できそうです。
もちろん、娘のように見守る、慈しむ視点もあります。しかしとりあえずそこまで広げるときりがないので、オタク文化圏の「少女性」という特殊なモチーフの場合としてのみ夢想してみます。
 

●求めれば求めるほど、遠く離れる少女たち●

1のタイプで作品を見るとき、もっとも気になるのは「ニンフェットっぽさ」。
響きがいいですよねニンフェット。性があるのかないのか分からない、性格が全く理解しきれない。「生」の激しさと「死」の静けさの両方を持ち合わせている少女像。二律背反の塊で、壊れそうなほど魅力が増します。エッセンスとしては、少女期の瞬間だけだからよい、失われ行くもの、というのもあるかもしれません。
別にこれ美形とは限らなくてもかまわないと思います。もちろんマンガ・アニメだと、ミステリアスな感じの少女として描かれる場合が多いでしょうが、元気極まりなくつかみ所のない少女として描かれる場合もあります。
もうこちらと違う世界にいるんですよ。限りなく女性で、限りなく女性じゃない存在への得体のしれない憧れと、「そうなりたい、けどなれない」という距離感が、透き通ったような少女像を生んでいきます。もしかしたら女性から見てもそうかもしれません。
具体例に関しては、あえて挙げないでおきます。ある人にとっては神聖少女でも、別の人にとってはそうではない場合が多いからです。
 
ならば、いっそのこともう人間であることすら切り離して「別の生き物」にしてしまう2番。
異種族交流の名目を借りて、なんだかんだで「少女と男性の距離」を詰めていく話に置き換えている名作は多い気がします。
うる星やつら」のラムちゃんしかり。今で言えば「ローゼンメイデン」しかり。少女は彼岸の存在だから、もう人間じゃなくていいのかもしれません。妖精みたいなものです。
 

●幻想と欲望の、偶像少女像●

はて、3がもっとも、男性が描く少女像としては多いのではないかと思います。いわゆる「萌え属性」という言葉もいい具合に使い古されているようで、なんだかんだで永遠に抜けない気がします。逆を返せば言葉が違うだけで、昔から記号的な少女像に惹かれてはいたんじゃないかな、なんて思うこともあります。
男性が描くとき、少女の影絵だけでも萌えるんですよ。そのラインで。
「少女」という言葉から連想するパーツや性格を、できるだけ自分の中で受け止めやすい記号に置き換えて行きます。
それは「メガネ=まじめ」という記号かもしれません。「ツインテールツンデレ」というイメージかもしれません。
髪型・体型・慎重・仕草・服装・声のトーン・口癖・色彩・好きな食べ物などまで、限りなく細かく分けて、その中で自分がつかみやすい物を分類して箱にしまっていきます。これが「萌え属性」の見方の面白いところだと思います。
いや、乱暴な行為ではあるんです。結局はイメージをバラバラにして、強引に自分の都合に合わせていくことにもなりえるからです*1
しかし同時に、視点の一つとして新しい楽しみ方が生まれることもあります。「これはツンデレでしかない」ではなくて「これはツンデレ、として見たらさらに魅力が増える」という見方。「奪い去る」のか「愛を高らかに叫ぶ」のかも、人によって求め方の違う部分です。
それらの様々な切り口をデフォルメして増やすほどに、少女性は多様化を見せていきます。時に極端に、時にテンプレート通りに。場合によってはとめどない性欲のフィルターを通して。
そして気づけば、偶像の完成。うむむ、自分たちが受け入れやすいようにするはずが、結局少女にひざまづいているのはこちらの方じゃないですか。
もしかしたら。ギャルゲーで女の子を攻略しているとき、攻略されているのはこちら側なのかも。
 

●時には奇異に、時には美しく●

なんだかんだで。
少女になれないのが悔しいわけですよ。その感覚が分からないのが悲しいわけですよ。
本当の意味での架空少女には、女性もなれないのですが。男性はさらに遠く、どうあがいても、いやあがけばあがくほどに距離は離れていってしまいます。
だから、少しでも手元につなぎとめる努力をしたい。自分の中に写真のように収めておきたい。それが心の中で走りすぎて、他人から見たら理解の出来ない「不思議なデフォルメを施された少女」になる事もあります。
それすらも含めて、切なる崇拝のような気持ちを作品の中で見るときに、たまらなくなってしまいます。
それは、作者の真摯な気持ちに対してかもしれませんし、自分がやり切れないほどそれに耽溺していることに対して、かもしれません。
「すてきなもの いっぱい」
その「すてきなもの」は永遠に分からないんだろう、なあ。
 
オマケ。 
今回女性の描く少女性については全く書いていませんが、男性にはない視点として「身体感覚を交えた生々しさ」や「攻撃性」があるかも。あとは昔の少女漫画が湛えていた「キレイ」への憧れ。
必ずしも性差が生まれるわけじゃあないんですが、男女間で少女に対して視点の違いが生まれていくのは興味深いところ。
自分はかなり崇拝型の少女観なんですが、男性の方、女性の方、それぞれどう見ているんだろう??

*1:そこがいい!という楽しみ方もあります。時には凶暴に楽しみつくすのも二次元ならでは。