たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

ロリエロマンガを読むときに必要なのは「なんらかの覚悟」だ。LO10月号より。

●性欲・罪悪感・不安●

今回だけとりたてて、ではないんですが、LO10月号の構成がちょっと面白いんですよ。
ラブラブハッピーエッチも最近増えつつある本誌ですが、常に漠然とした罪悪感もたたえているロリ雑誌、それがLO。
「ロリエロマンガで興奮しているのにロリに申し訳なさを感じるあなたは、偽善者ですか?」
「自分はロリコンであることを正当化しているのですか?苦しんでいるのですか?」

あああー、そうですそうですとも。
開き直って「ロリ最高!」ではなく常に自戒するLOの雰囲気は、いわば矛と盾。今回はそんな矛盾を指し示すような作品がずらりと並んでいるのが目をひきました。
 
まず、最初に後書きを引用いたします。ここから読むと今月号はすごく興味深いものになります。

セックスを甘く見るな。性的なものを軽んじるな。オナニーであれ、風俗であれ、ネグレクトしたツケをいつか払わされる場合がある。
LOをたかがエロ本、たかが漫画とおもうな。一度膨らんだセックスに関するイメージは、あなたの人生に何かしら作用し、時に楽しい人生を阻害するかもしれない。自己中心的性衝動はあなたの家族にも「罪人の血筋」という重い十字架を背負わせ、なにより世界でもっとも貴重な「少女」を深く傷つける危険性をはらんでいる。
そんな性的イメージを娯楽として楽しむこの本は、当然のことながらフィクションである。フィクションである以上、必要十分に楽しんでいただきたいのだが、このようなエロ漫画の端を読んでくれる知性ある方々には、改めて性的ファンタジーの危険性を警告したい。なんらかの覚悟が、この手のフィクションには必要なのだ。

苦いです。
少女に対する性衝動はいくら正当化しても何かを傷つけるかもしれない。ファンタジーであっても覚悟と心得をもって見なければいけない。そんな言葉を突きつけてきます。
読み方によってはいろいろ取れるのですが、ちょっとこれを念頭において、今月の作品の一部を見てみたいと思うのです。
 

●「ファンタジーとして少女と恋をするのは罪ですか?」●

まず、脅威の新人、バー・ぴぃちぴっと先生の「かよちゃん」より。

再婚した母が連れてきた義理の妹に対して劣情を抱く青年のお話なんですが、そりゃもうエロマンガ的にはおいしいシチュエーション、ばっちこーいなわけですよ。
話もそういうおいしい展開になっていくのですが、ここのセリフが恐ろしいほど刃を突きつけてきます。
「僕は犯罪者になった」
だがしかし、これはファンタジー。愛がればそんな壁は越えるよ!愛があれば少女をやさしく抱きしめるよ!
…おや、それは愛なのかね?
この後の展開がどうなるかは見てのお楽しみに。もう一度改めて「僕は犯罪者になった」の言葉を反芻しておきましょう。
 
次にEB110SS先生の「押入れ天使」より。

EB110SS先生は、少女売春や援助交際に出会い系という、PTAがものすごい勢いで顔をしかめそうな内容の話をすごくさらっと描きます。
それに対して「悪」とか「善」とかは一切出しません。ただ事実として「出会い系で会った少女です」で終わりです。そこに善悪を考えること自体無意味です。そこが前提としての「ファンタジー」。うん、もちろん顔をしかめる人は多いかもしれませんが、これも一つの表現方法。
しかしそんな中で、このようなセリフも出てきます。いつもどおり出会い系で会ったこと自体には感想を述べません。ただ、相手の少女と自分との関係に対して、漠然とした不安を持っていることで話が終始します。
そしてその不安から逃れるために、「今が楽しめればいい」という刹那的な考えに逃げ続け、そのまま終わります。
 
少女に対して激しく牙をむく性欲を、迷惑のかからない形で描き出す箱庭がエロマンガの世界。そしてそれをファンタジーと理解して楽しむからこそ面白いのもエロマンガの世界です。
しかしその中にももやもやとした不安と、「このファンタジーの中ですべてが正しいといえるのか?」という困惑も生まれるのが、エロマンガの世界。
もう少し、LOが言っていた「なんらかの覚悟が、この手のフィクションには必要なのだ。」の意味を探ってみます。
 

●可でも不可でもなく。●


茶倉和彦先生の「いちばんのなかよし」より引用。
何度見てもどう判断すればいいのか困惑してならない一コマです。
人見知りが激しくぬいぐるみのクマが一番の友人である少女と、ロリコンの青年がラブラブになっていく話です。この少女が変わっていて、無理に取り繕って話すことが嫌い、という大人びた性格。
青年側はうまいこと説明し、彼女の一番の親友のクマにはうさぎを与えた、というのがこのコマ。
少女側は青年に好意を持っていますし、青年も自分の性癖を満たすことができて満足しているのですが、どうにもこのコマが入る意図を考えるとそう簡単に納得はできなくなります。
本当に青年の行動はそれでいいの?これはハッピーエンドなの?
物言わぬくまの瞳が少女の仲の複雑な罪悪感を呼んだまま、答えなきままに話は終わります。
 

雨がっぱ少女群先生の「AWAKE II」。かなり今回は明るくキャッチーな話になっています。
兄と妹の関係は「AWAKE」という作品でも描かれていますが、やはりセックスなしでは成立しない関係として描写されています。今回もラストシーンでの「その後私達はいっぱいセックスをしました。」がやけに目に残ります。
この兄妹には罪悪感はありません。おそらくハッピーエンドを迎えたと思っていると言っていいでしょう。しかし崩れるようにセックスになだれ込んでいく様は、読者側にえもいわれぬ不安をも残していきます。
血のつながりがあるから。そして少女が壊れそうなほどか細いから。
 
どう読むか、というのは読者にゆだねられます。これをハッピーエンドと捕らえて心地よく眠るもよし。これからの崩壊の不安におびえていくもよし。
それを断罪せず、賛美せず。
 

●矛盾を肯定する。●


ゆきのゆきかぜ先生の「給食費 第一話」より。
先生と生徒です。いろいろわけあってこんなことになっているのですが、今回はまだ第一話。ここからどちらの方向に進むかさっぱりわかりません。わかるのが怖いです。
先生はこの後、泣くんです。相手が子供であること、この子が負ってきた苦しみのことを考えて。そこにからんでくる「セックス」はとても甘美で、同時に猛烈に痛いです。
それは愛ですか?彼女を救うことですか?それともただの自己満足ですか?
 
これらのことに関しては「思考を放棄しよう、ここはファンタジーだ」とするか、「突き詰めてその矛盾から性の中の業を知るべし」とするか大きな分かれ道でもあります。
答?
ないです。自分で選ぶしかないです。
だって、それが18歳以上の人間の持つ責任ですもの。
 

来月の予告に書かれていたLOのキャッチコピー。
なんとも意味深な言葉です。
性を快楽として描く場合、たくさんの矛盾が出てしまいます。倫理に即するか、遊びだと割り切るかは誰かが決めることではありません。ただ矛盾だけは出続けます。
「知性ある方々には、改めて性的ファンタジーの危険性を警告したい。なんらかの覚悟が、この手のフィクションには必要なのだ。」
多大なる自由には少しの責任が伴います。覚悟を決めたらファタンジーの中で新しい楽しみの世界に出会えます。
さて、覚悟して扉を開こうか。
 

個人的に天才の花がめきめき開花していると思っている、東山翔先生の「BEWITCHED」。題名はジャズの名曲からかしら。「魅了されて」という意味です。
少女は少年のあどけなさや元気のよい性欲を大人びた視線で受け止めながら、複雑な思いをひたすらに胸に秘めています。
だからこそとてもエロの脳幹を刺激します。そして同時に性と心のつながりが浮き彫りになります。
自分はまだ、この子のように覚悟が出来ていないようです。だからLOを読むたびに、心が行ったり来たりします。
だから、いつまでたっても子供な自分にこそ、LOは必要なんだろうなと思うのです。
 
なんてなー。こうやってうだうだ考えること自体逃避だったりするのよね。楽しい。
 

今月のLOは超絶少女描写のヒヂリレイ先生も復活しているし、個人的には大満足。来月はきのした黎先生が復活…ってこれはほんと驚いた!真のロリの巨匠が。
東山翔先生は回を重ねるごとにめちゃめちゃうまくなっている上に、エロ部分とストーリー部分が並行して深みを増しているのがすばらしい。絶賛しまくりですが、それでも足りないくらい少女の心理の機微を描いていると思います。少女のやわらかさと体温を感じる描写と繊細な心の様子は、ロリじゃない人にもオススメ。11月の新刊が楽しみです。
 
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