たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

ちいさくてカサカサに乾いたぼくの世界はもちがってる。「なにかもちがってますか」

鬼頭流自転車マンガ「のりりん」も面白いんですが、「ヴァンデミエールの翼」ショック以来ずっと鬼頭作品に魅了されていた身としてはやはりなにかもちがってますか」の手に負えない感は最高に窮屈で気持ちいいです。
人の死や体の破損がすごくペラペラに軽くて、なのにかっさかさに乾いたこの感覚。読んだ後のもう後に戻れない絶望感。
不思議とこれが精神的に疲れているときに心地いいのはなんでなんだろう。
 

●もちがっています●

タイトルといい表紙といい、すごく凝っているんですよ。
詳しいことを書いてしまうとネタバレになるので避けつつ、ちょっと説明を。
アマゾン書影ではわかりづらいんですが、表紙カバーの「なにかもちがってますか」の部分、ここ切り抜かれているんです。文字が印刷されているのは本表紙の方。
タイトルが「なにかもちがってますか」というのもわざと。「なにもかもちがっていますか」でも「なにかまちがっていますか」でもなく「なにかちがってますか」で正解。
サブタイトルもズれているんです。
「ぼくらはっすぐ歩けない」
「こんなはずじゃなかったに」
っぱりったのぼくです
クゴンリョウ」
「うそつきはどぼぅのはじまり」
「雨降って、死がたまる」
なんかもう、もやもやするでしょう。最後のは割と意図的に間違えている感じがしますが、それ以外が気持ちの悪さすら感じさせられます。
なぜこんなことになっているのか、それは読めばすぐ分かります。なるほどこれは凝っている。
凝っている上に、仕組みがわかったとしてもやはり違和感が気持ち悪い。
例えるならば、右に進んでいると思っていたら左に進んでしまっていたかのような。なんせ主人公の最初のセリフがこれですからね。

中二病的、というのは簡単ですが、リアル中二〜三年の話なのです。
そして、この「なんだかよくわからない違和感」が今作のテーマでもあります。
 
世の中には違和感なんて感じずに生きてきた人もたくさんいるかもしれませんが、自分は違和感を感じて生きてきた人間の側です。
「自分は人と違う、人より優っている」ならまだ笑えるんですが、逆でした。
みんなこの世の中はぼくの見ている世界と違う部分にあるんじゃないだろうか。
みんながぼくに嘘をついて、騙しているんじゃないだろうか。世界は壮大な偽りなんじゃないだろうか。テレビは全部録画なんじゃないだろうか。そんな妄想ばかりしていました。
大人になった今でも時々そんな事に悩まされます。
 
この作品の主人公光は、その点において「なんだかよくわからないけれど居心地がおかしい」というすごく中途半端な感覚で描かれています。
実際どうだったのかを言葉にして書いてしまうのは簡単なんです。彼が感じている違和感はなんなのか、そこからどんな事件が起きるのかはそれほど難解なことじゃないんです。
違うんですよ。この作品がすごいのは、読者をも光の不安の中に閉じ込めてしまうことなんです。
理屈とか、現実とかどうでもいいんです。光の見ている「世界」が描かれているからこの作品恐ろしいんです。
 

●でかくて小さな世界●

鬼頭作品はスケールがものすごくでかいものが多いです。「なるたる」とか「ぼくらの」とか。
しかしどの作品も、ものすごくでかいのに強烈な圧迫感を感じさせます。
描いている空間はでかい。でも捉えている世界の幅が目の届く範囲レベルに小さいんです。

この作品を象徴するコマだと思います。
光があることに気づいてしまって、もう引き返せなくなってしまったシーンです。
彼が気付いたものは、使い方次第で世界を変えかねないほどのものです。
同時に規模は信じられないほど小さいです。
正直自分も最初読んだ時、「たかがそれだけの違和感」が「とんでもなく恐ろしいこと」になるとは思いもしなかったので、読み終えた後に光のこのコマみたいな顔していました。
そう、世界なんてちょっとしたことでコロっとひっくり返る。
人なんてちょっとしたことで死んでしまう。
ちょっとしたことで。
 

●カサカサに乾いた世界の中で●


光を煽るのは転校生の高蔵でした。
この感情のないキャラ描写はヴァンデミエール時代から鬼頭作品に欠かせないインパクトそのままですね。お家芸的になっているとはいえ、いつ見ても心臓が握られるようなイヤな感じを与えてくれます。
最初にも書きましたが、この作品での死はすごく薄っぺらいです。語弊がありそうですが、「どうでもいい」薄っぺらさではなく「死んだかどうかすらも分からない」という薄っぺらさです。
実際には強烈に物語は重いですし、キャラクターの死は薄っぺらくもなんともありません。
上のコマのように光は自我が崩壊しかねない勢いで困惑しますし。自分が「なにか」してしまった事に対する感触もちゃんと持っています。
けれども、実際にナイフを握って突き刺すわけではなし、バットで頭を殴るで無し、銃を相手に向けて撃つでもなし。なにをしてどうなっているのかの、感触がすごく曖昧なんです。それこそ「自分がやったんじゃないかもしれない」レベルの曖昧さです。むしろ、相手に向かって弾丸を打ち込んで「殺した!」という感触があったほうがどんなに楽だったことだろうか。
 
高蔵は、違和感の中で苦悶する光に対して、ガンガンに言葉のボールをぶつけてきます。
この会話の流れがページ単位ですごいので抜粋。

「おまえが一番なわけないだろ そんなに特別な存在なのかおまえは」
「おまえ程度に自分が間違ってると思ってるヤツなんていっぱいいる」
すごいこと言うね。本当に。大人の意見だ。
でもそれを同じ年の中学生に言われるのでは、意味合いが全然違うよ。
光は自分の行動に対して苦しんでいるんです。曖昧な自分の行動に対して。実際彼のしたことは強烈なこと、のはずなんです。
しかしばっさりです。中学生独特の「ぼくは特別にずれているんじゃないか」感をざっくりと切り捨てます。
 
かといって高蔵も決してまっとうな思考の持ち主ではないです。
二人とも世界に違和感を持っている。だけれどもそこに怯えている光、だからこそ世界を変えて「こっち側」にしようとする高蔵。
そもそも「まっとう」って何よ。
「正しい」「正義」って何さ。
 
この作品に描かれている舞台は、非常に広いです。
そして同時に、中学生から見た視野の域をでません。めちゃくちゃ狭いです。
広い街を描いているのに、小さな立方体の中に詰め込まれているような窮屈感溢れているのはこの作品の持つ不思議な魅力。
一度読んでしまったらもう「読まなかった自分」に戻れない。だからこそ読んで欲しいけど。
読んだあとに「読んだ自分はもちがってしまった」と言われても保証はしません。
でも読まないと体験出来ない物の詰まった、とんでもない作品です。
 

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アマゾンのレビューで「鬼頭さんは希望を与えてから思いっきりへし折るのが上手いですね」という文章を読んで、なんて的確なんだろうと膝をたたきました。
そうそう、そこなんだよ。
「ぼくらの」も最初の死のシーンは、ほんと最高まで持ち上げておいた後に思いっきりへし折りましたものね。

物語前半に、主人公光を慕う幼なじみの新瑞橋さんという子が出てくるんですが、この子がめちゃくちゃかわいいんですよ。
あんまりにもかわいくて、モテなさそうな光ともいい関係なもんだから、気を抜いちゃったね。
ぼくにとってはこの子が「希望」なわけですが、この世界本当に簡単に死ぬから出番が増えるのが怖いです。
むしろ、もういい、出ないで!
……といいつつ「そういう」展開を望む自分は結構サディスティックかもしれません。
 

以前のジャンプSQの短編といい、インナーな視野をいかに描写するかに鬼頭先生は向かっているのかも。
この作品を大人になってから読めてよかったです。中学生の時に読んでたらきっとこじらせてた……あれ、中学時代からずっとこじれっぱなしだぞ?