たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

「百合的作品」群から見た少女幻想と、ネバーランド住人たち。

「マリみて」OVA発売カウントダウン!どこで何の特典がつくか調べてから予約しなきゃ(`・ω・´)真冬なのに真夏を見られるこの幸せ。ああ今の時代に生きていてよかったありがとうマリみて
OVAといえば「手に入らない」と大騒ぎになってる「かしまし」13話。ある意味予定調和的なエンディングが冷静なファンには「やっぱりあのね商法はあかんて」と色々叩かれるところもあったようですが、以前も書いたように「かしまし」ジャンキーとしては最高のエンディングでありました。やす菜超いらないビッチとか友人と話していたのが恥ずかしくなるくらいの、やす菜のかわいらしさっぷり。ごめんやす菜。
そしてはずむ君がヒロインであり続けたこともGOOD。
 
はて、そんなかしまし厨である自分でもふと複雑な気持ちになることもあります。
「はずむ(中身は男性)はヒロインで少女のままでよかったのか?」ということ。
アニメ版だけでいうと、はずむは終始「受身」としてのヒロインのままでした。これ男の子だったらきっと地団駄踏んで「はっきりしなさい!」と怒るファンも多かったと思いますが、女の子になっちゃったからなあ的にスルーされて、気づいたら「いい百合(?)だったね」という気分に昇華されました。自分は少なくともそれに感動したので、作り手のテクといえばそうなんですが、そうも思わない人もいるだろうなーと。
少年でありながら、自然と「少女像」のイメージに昇華された。これって見た目だけの問題なんでしょうかネ?この作品にとどまらず、「百合」的な作品と呼ばれるものたちのもつ「少女性」は特殊なんじゃないかなと思い始めました。

  • 少女という名前の幻想

まず、マンガ・アニメに登場する「少女像」の考え方について、自分なりに少し考えて見ます。
以前紹介した「二次元の人気女性キャラは4つの属性に集約される」が、実は非常にまとまっている気がするのです。
A+B、C+Dの二つに大きく分けると、よりわかりやすいかも。
「元気で活発な主体的少女」のイメージと、「人形のように客体化された少女」のイメージ。まあ分け方は大雑把すぎなんですけどネ。しかしこの二つが、大人の男女が持つ「少女」幻想に踏み込む第一歩だと思います。
 
「少女」という記号イメージがはるか昔から特殊であることは多くの人も認めるところだと思います。文学などでは少年愛作品の方が圧倒的に多いようですが、絵画・イラストに絵が描かれるモチーフや、漠然としたイメージ材料としての「少女」の破壊力は格段に高い気がします。それは男性中心社会であるから、というのを抜きにしても。
ある本にあった「なぜ少女イメージが際立って浮き彫りにされるのか」の一説をまとめてみます。あくまでも一説で、現実の女性ではなくイメージ化された「少女」の話です。

・同年代の少年に比べて少女の方が性的イメージを喚起させやすい。
 しかし同時に性的イメージを消失した記号ともなり得る。
・若さを描くことは日々変化する「生」のイメージととることができる。
 しかし、日々その少女性は失われ「死」のイメージを描くことになる。
・絵的な明るさ、天真爛漫さが安定感を感じさせる。
 しかし、精神的不安定さが、バランスを保てない構図を描きあげる。
・写真や人形に閉じ込められた少女像は受身で客体的である。
 しかし、時としてしたたかさを持ち合わせ、主体的である。
・少女の写真や絵画は「非現実」の象徴として描かれることがある。
 しかし、同時に男性の持ち得ない「現実」を表現することもある。

つまり、少女のもつ「二面性」が「少年」のイメージよりも勝っていた、という説ですネ。
必ずしもすべてが当てはまるものではないですが、少女をテーマにイラストや小説を書かれている方は、ちょっと脳味噌の端っこに引っ掛けておくと、「どういう少女を描きたいんだろう?」と考えるきっかけになるかもしれません。

  • キャラクターの中に見られる「少女性」

小説やマンガのキャラクターに置き換えてみます。まず極端な例で、エヴァ綾波レイ
彼女のような「完全に客体化された少女像」は、二種類の捕らえられ方をされると思います。
①物体に近づけていくほど性的イメージを喚起させるのに都合がよい。
澁澤龍彦の「少女コレクション序説」的な捕らえ方。あー、また引き合いに出しちゃったよこの本。男性にも女性にも内在する凶暴な性のイメージをぶつけるためには、少女という形式と存在が都合がよい、という考え方です。ギャルゲーの「女性ではない少女」や、エロマンガや同人誌の題材としての「少女達」を見ると、この点は興味深いかもしれません。
②少女の記号だけを残し「性」を失なったオブジェ化していく。
表現がいまいちしっくりこないですが。エロティシズムな存在というより妖精や天使に近いと言えばいいのかな?実は「綾波レイになりたい」という男女は結構多いんじゃないかなーと思います。今ならたとえばこういうキャラたちカナというのを自分なりに挙げてみます。
 
ハチミツとクローバー」の花本はぐみと、「マリア様がみてる」の藤堂志摩子
もちろん、それぞれに「性」を強く感じることもできます。しかし、「性」を失い「少女オブジェ」になったこれらに「なりたい」という男女は多いんじゃないかな、と思うのです。
極端な例ですが。大槻ケンヂは「オレははぐなんだよ!」と力説していました。ドーラー(着ぐるみ愛好家)には志摩子さんは非常に人気があるモチーフの一つです。
色々な思惑があるのだと思いますが、男女問わず人気のあるこれらのキャラは、「性的なイメージ」から切り離された、男性でも女性でもない存在なんだろうなーと思うことがあります。
(「そこに性が入るギャップがいいんだよ!」という方は、多いと思います。念のため。)

  • 第三の性「少女」になりたい男の子、女の子。

このエントリを考えるきっかけになった記事です。
「少女になりたい人たち」と百合作品(Something Orange)エロチック街道より)
少女になりたい人たち(少女漫画的日常)

でもあることにはたと気づいた。そこには良く探すと、ただ単にやりたいという欲望だけではなくて、「純愛」とか、中には「少女になりたい欲望」みたいなものがあるんではないかと思ったからなのだ。
(中略)
結局そういう人たちは、少女を少年よりも、全能感の強い主体として感情移入しているのかなあと思う。それはなにゆえ?てところがまだよくわからんのですが。
(少女漫画的日常)

「少女の全能感」に関しては、個人的には先ほど紹介したものが当てはまると思います。その上で、「少女になりたい」願望を持った男女が出てくると考えて見ます。
最近のマンガでは「少女になった少年」物がものすごい勢いで増えています。さきほどの「かしまし」は代表ですネ。
 
少女少年GoGoICHGO」のいちごと、「放浪息子」の二鳥修一&有賀誠。
どの子も望んで自分から女装している子です。んでトランスジェンダーかというとそうではないのもポイント。とはいえこの二つのマンガ、ベクトルがかなり違うので、そのへんは読んで個々で判断してください。
中性になりたい、ではなく「少女」になりたい、という願望は、一部の男性の根底にある気がします。案外心当たりある人多いのではないでしょうか。また、かなり回りくどいんですが、「少年になって少女になりたい女性」も多いのではないかと思います。このへんの思いは別の機会に。
この感覚は、男女の性ではなくて「少女という性」だと自分は思っています。
参考・マンガ・アニメに女装少年、ギャップ楽しむ

  • 「少女幻想楽園」としての百合

「少女になりたい願望」を抽出洗練していくと、男性がいない作品が出来上がっていきます。んじゃそれが百合ですか?と言われると、個人的には「そうかも」半分「違うかも」半分。
 
百合「的」作品をちょっと分類してみた。
以前書いたものです。下の方の「女の子だらけワンダーランド」は、特に男性の視点から見て「少女になりたい」「なって、横から眺めていたい」という願望の形だと思います。今流行の「萌え本」なんかは特にそういうのが強いんじゃないかな?とか。
女性しか出てこなくて、イチャイチャかしましくやってる姿は「少女になった男性」だろうな、と思うのです。
もちろん、そういうのは洗練されていき、すごく面白くなっていくと思います。作品として。まさに温室状態になるので、それを楽しめる人には最高のエンタテイメントになっていくんじゃないかな、と。逆を言えばあわない人には徹底的にあわないでしょうネ。好みに特化された特殊なジャンルだと思いました。
ただ、ややこしくなるのでこっちは「百合」じゃなくて「なんちゃって百合」としておきます。

  • 「百合」という空間の特異性

ただ、それはやはり、少女になって少女と恋愛してみたい、という想いではないと思う。むしろ野蛮な男性性によってけがされていない楽園を横から見ていたい、という願望に近い。
(Something Orange)

同性から見ても「かわいい」「こういう空間見ていて楽しい」という距離感。
ではこの空間で自分もそうなりたいですか?とたずねたら、答えはノーでしょうね。
百合「的」作品をちょっと分類してみた。

マリみて」は、Something Orangeさんのおっしゃるように「現実の少女の性」や「男性の妄想」に毒されてない世界を眺めていたいという願望を起こさせます。位置づけとしては桂さんになって出番のないまま山百合会を見ていたい一生徒の気分!桂さんゴメン。
もちろんそうじゃない人も多いでしょうけど、男女ともに人気がある根底に、その要素は眠っていると思います。
 
マリみては特にそうですが、百合好きな人は他の作品でも、性描写を極端に嫌う人は多いと思います。この「少女幻想」論が、リアル嗜好の人やビアンの人にしてみたらかなりうざったいものなのかもしれない、という危険も秘めつつ。
先ほどもあげた「藤堂志摩子」は男女ともにかなり人気の高いキャラですが、浮世離れした「こんな子はイナイ、だがかわいい」というキャラだと思います。こういうタイプのキャラはともすると男性の妄想になったり、女性の不安定さにつながっていったり、媚びを売っているように見えたりして、どこかしらイヤミがただよいやすくなるものだろうなと思います。しかし、うまくそこを切り抜けて「少女」をまとめているな、と感じます。乃梨子志摩子を見る視線の描き方が、また一役買っているんでしょうネ。
 

ちょっと「いかにも百合」な感じを抜き出してみました。「くちびるためいきさくらいろ」と「ふたりはプリキュア」です。
この空間に男の入る余地はほとんどないです。(プリキュアは厳密にはオスが混じってるけど。)
んじゃ女くさいかというと、それもまた何か違う気がします。BLの、少年達の空間が「男くさくない」のと同じ、じゃないかなと。
関係ないですがなぎさがほのかにパンツ見せてるように見えてなりません。あ、ほんと関係ないですはい。

  • 一部の百合作品と、切り離された性

BLが比較的エロ割合高いのに対し、百合作品はエロ割合は今のところ低め。BLと違って女性作家による百合作品が多いせいもあると思いますが、これまで書いてきたように「少女になりたい」男性・女性がそのファンの一部である影響もあるのかなと思いました。
ある人は「BLは男になった女性の姿で、性を男の中に閉じ込めることで自分から『性』を拒絶している」と言っていましたが、自分は妙に納得したことがあります。
同時に「一部の百合作品は少女になった男女の姿で、性から切り離すことで『少女性』の守られた空間を作っている」と言い換えれるのかもしれません。
「一部」と書いたのは、最近は「マリみてシンドローム」から抜け出して、性関係ありでも、また男性キャラのからみありでも良質な百合作品が増えていると思うからです。これはほんと、百合が閉じた空間から解放されはじめている気がして、個人的にすごくうれしいトコロ。
  
・「女の子しか出てこない、男性の妄想的百合作品」
・「温室のように保護された少女性を保つ百合作品」
・「豊かな人間性と広い視点の中で少女間の関係を描く百合作品」
・「少女同士の恋愛感情をリアルな主観で描く百合作品」
 
それぞれが作品として成長しはじめているかな、と思います。どれもこれも面白いですよね、それぞれを割り切って見られるならば。逆に、「これ以外は自分はちょっと」というこだわりもアリだと思います。
個人的には3番が一番好きですが、他のもまんべんなく好きです。時々女の子が好きなのか百合が好きなのかわからなくなることがあったりしますが、それぞれ別物として、と捕らえればどっちも好きなんだと思いました。これからますますそういう作品が、多方向に増えていくといいな。
その他、この辺に関してはなんかうまくまとめきれない上にまだ書きたいこと山ほどあるんですが、もう少し考えてからメモっていきます。
 
はて、自分はマリみて世界だったら「乃梨子」になりたいです。乃梨子になって志摩子さんを眺めながら、瞳子にちょっかいを出したり、山百合会を客観的に見たり、瞳子にちょっかいを出したり、由乃さんに突っ込みを入れたり、瞳子にちょっかいを出したりしたいです。
そんなわけで脳内で乃梨子になって瞳子にちょっかいを出すことにします。ちょっといってきます。