たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

「らき☆すた」に流れている時間を、失いたくない自分がここにいる。

君がいた夏は遠い夢の中
空に消えてった打ち上げ花火
ジッタリン・ジン「夏祭り」)

聞いたら一発で覚えそうな二行。これ見ただけで曲が思い浮かんだ人も多いのではないでしょうか。
空に飛びはじける花火は、興奮するくらいに美しいのだけれども、一瞬で消えてしまいます。
それはちょうど、友人と遊んでいたときや、好きだった子といたときや、家族ですごした日々と置き換えることも出来ると思います。ああ、楽しかったあの瞬間。
そしてオタクならば、「好きだったマンガ・アニメが毎週見られていた日々」にも当てはまると思います。
…おおげさなのは分かっています。でも、好きだった作品の中で流れる時間をた時に、ぼんやりとそれを感じる瞬間って、オタクだったら経験あるんじゃないかと思うのですヨ。ましてや、それが永遠に終わらない気持ちでゆったりと見ていたならば、その時間の流れを感じたときの複雑な気持ちときたら。
ちょうど「らき☆すた」アニメ版15話がそのへんを意識していたので、それを交えてつづってみます。
 

●「らき☆すた」15話中で感じた「祭り」●

アニメ版「らき☆すた」は、基本的に全編を通して一本のストーリーというのが存在せず、小さな区切りでエピソードが詰め込まれてます。
その中で、今回は「涼宮ハルヒの激奏」を見に行く、という変化球な話が盛り込まれていました。もちろんマンガにはないシーンです。
このへんの見せ方はうまいなあ、というのはまあ置いておいて。
 
背が小さなこなたが、場所をかがみに譲ってもらった時に垣間見えた、その夢のようなステージ。
それはなんだかこの世のものじゃないようで、どこかはかなげに燃え盛る炎のようでした。
まわりがワイワイと大騒ぎしているのに、こなたはそれに乗らずただ見とれているんですが、これがどうにも見ていて胸を締め付けてくる。
自分も初めてライブにいったとき、多分こんな顔をしていたと思います。興奮しすぎて、飛んだり跳ねたりする以前に、まずその「日常から切り立たれた空間」に飲み込まれて、脳天から空気みたいなものがどんどん抜けていく感覚。

当然、それがどんなに楽しくても終わりはくるわけです。
終わってから何も言えず、ただうつむくこなた。普段からおしゃべりの口火を切るのがこなたなだけに、しゃべらないこなたはかなり衝撃でした。
「なんなんだろうね、この気持ち」
まるで、こっちの気持ちを代弁しているかのよう。
熱に浮かされたかのような一瞬は、花火のようにドーンとあがり、ぱっと散ります。その「祭り」の熱気が通り過ぎていく時の経過は、とても残酷で、とてもキレイ。
 

●終わらない時間はない。●

マンガのほうの「らき☆すた」はというと、気づいたらすっかり「サザエさん時空」になっています。しかしそれ以前はきっかり高校3年間に合わせて時間は進行しているんですよね。アニメはそれをなぞっていっています。

らき☆すた」空間は、ゆるい。すーんごくゆるいです。だからこそそのぬるま湯な感じの世界に浸ってのんびりと、オタクライフなこなたを見たり、ノタクタしたかがみ・つかさを見たり、みゆきのウンチク聞いててニヤニヤできるわけですが、それが「終わりのあるもの」だと言われた時に何を感じるだろう?


「出会えたことって奇跡かも」
次が楽しみになってしまうアニメやマンガに出会い、それを毎週楽しみにしているオタクならではの楽しい時間。ある意味、自分が心から楽しいと思える作品に出会えるのは、日本のこの時代に生まれて、わずかな確率で触れ合えたと言う奇跡。
しかしその作品内でも時間は流れていきます。作品も時間を経ていくことで、エンディングが近づいていきます。*1
今はこうやって「『らき☆すた』はゆるいな!つかさはオレの嫁」とか言いながら見ているわけですが、当然「らき☆すた」も、一定回数放送されたら、終わる。

「ここでこうしてすごすのも、あと1年なんですね」
このアニメの最終回を考えたくない・・・けど終わるんですよね、終わるんだよ。
自分の脳みそは、いまだに「うる星やつら ビューティフルドリーマー」で感じた恐怖とも共感とも言えないループした世界の中に飛び込んだまま抜け出せないようです。
 

●「卒業」しても「終わらない」高校生。●

時間が経過しない高校マンガとしては、「ぱにぽに」「絶望先生」他たくさんありそう。一方時間がきちんと経過していく高校マンガとしては「究極超人あ〜る」や「あずまんが大王」が挙げられると思います。

究極超人あ〜る」より。
この作品は長いようで、たった9巻で終わっていたりします。なんかもっと続いているイメージあったんですけどネ。
のんびりマイペースで歩む高校生の姿として、はたまたオタクの楽園のイメージとしてのバイブル的なこの作品。ちゃんときっちり3年という年月は流れているのがすごい。
卒業もして、就職もする。いつまでも高校生気分というわけにはいかない。…はずなんだけれども。鳥坂センパイもさんごも、卒業しても光画部に出入りしているし、あ〜る君は学ランのままなんですよ。
だから、それぞれ描かれていない部分ではガチで「大人」しているんでしょうけれども、高校時代が終わっている感はありません。「これでいいのだ」となるか「これでいいのか?」となるかは読み手次第。


あずまんが大王」より。本当に最後の最後あたり。
あずまきよひこ先生が天才だと思った瞬間でした。
このマンガも今は伝説と化していますが、実はたった4巻で終わり。短いです。連載中は「ずーっと終わらないでいてほしい!」と本気で思っていたものですが、時間通りにしっかり終わったことに驚いたり納得したり寂しかったり大変でした。
アニメ版あずまんが大王放映時も、最終回の時に各地で集まって、ファン同士で鑑賞会したりしたという逸話もあったとか。なんだかすごく共感できます。こういう作品は終わるのが本当につらい。
しかし、それをゆかり先生は「まぁそんだけの事だ、あんたらは大丈夫だろ」と一言でまとめるじゃあないですか。今考えると名言もいいところすぎる。感傷だけではなく、ちゃんとキャラに愛情を注いでいないとこの言葉は出ません。
これ、キャラに対して言ったセリフではありますが、熱狂的ファンである自分に言われたのかな、という錯覚に陥ったものです。
 

●「終わる時」を見るか、だからこそ存分に楽しむか●

定番絵本に「しろいうさぎとくろいうさぎ」という作品があります。
しろいうさぎとくろいうさぎ (世界傑作絵本シリーズ)
プレゼントなどでも定番なこの作品。出てくる二匹のうさぎは楽しい時間をすごしているんですが、くろいうさぎは遊んでいる時にそれが終わることをかなしい顔で思い浮かべます。
いつまでも続くといいな。それがくろいうさぎの望み。
その後どうなるかは読んでいただくとして、このうさぎが、楽しんでいる最中に終わりを想像して悲しい顔をする、というのが面白いのです。
 
ここできっと、「楽しんでいるときに終わりを考えるのは無粋だろう」という人もいれば、「楽しいことのあとの切なさを考えると胸が締め付けられる」という人もいると思います。どっちが正しいじゃなくて、感じ方の問題なのでどうしようもないです。
これが人間同士なら、「ずっと一緒にいることもできる」という夢ももてますが、マンガやアニメは終わってしまうんですよね。
では作品を愛でるオタクなら、どう感じる?

1、今を楽しむ
2、作品内の時の流れの切なさに身を任せ、涙を流して寂しさにおぼれる
3、ゆかり先生のように「大丈夫だろ」と受け入れる
4、思いの中で永遠のオブジェにする。
5、むしろ終わりを拍手でむかえる

自分は1や3でありたいと思いつつ、いつも2。好きな作品が終わる切なさを感じてしまって抜け出せません。
オタクと言っても色々な人がいるので一概には言えませんが、自分は溺れてしまう人種であるがゆえに、同じような気持ちで作品を愛でて、最終回を楽しむ人と話せるととても安らぎます。いや…1から5まで、すべて「いつかは終わるものだから」という気持ちを持っている人といることが、幸せだったりします。そういうのが手軽にできるからネットはすごいですよね。これが、周囲にそういう人がいない状態だったら、最終回はとても耐えられないかもしれない。
 
今は「らき☆すた」をどうのこうの言いながらも楽しんでいるわけですが、作品内で時間の流れが提示されたことで、ものすごい勢いで寂しさ楽しさetc…が去来しました。実際はそれすらも本当は楽しんでいるんでしょうね。それがオタクの覚悟かもしれない。
あとは、終わりを迎えるときに「ありがとう&あいしてる」って最終回に言えればいいな、と思いながら、今はただ祭りのような感覚におぼれていよう。

君がいた「らき☆すた」は遠い夢の中
空に消えてったこなたのオヤジ

まあ、まだまだ終わらないんですけどね。気が早いんですが、書かずにはいられなくなっちゃって。
 
〜関連記事〜
高校生が、明るくすごす作品につい、郷愁を覚えてしまう。
実は「ハレ晴レユカイ」を聞くと涙が出る。
ハルヒらき☆すたは、高校時代を思い出したり、手の届かなかったものに憧れたりするから、かえって時間の流れにリアルを感じて切なくなります。でもっ、好きなんだっ。

*1:サザエさん」「ドラえもん」級は別