たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

戦ったり楽しんだりオタクって忙しいのかな。

●気づいたら時代に取り残されるオタ。●

以前「げんしけん9巻特装版の、篠房六郎のマンガはすごい」というのを書いたのですが、それが実話だというのは本当にたまげました。
学園祭の話(伊藤計劃:第弐位相)はてブより)

しかし、篠房氏はさらなる鬱屈を溜め込んでいるようである。部員がイケメン過ぎ、かわい過ぎ、つまりはフツーで、屈託がなさすぎるというのだ。いや、そりゃあなたは昔から鬱屈していましたから。しかし確かに、いまの部員の子を見ていると、とても高校まで人に分かってもらえないサブカルチャーな漫画文化に触れてきた子達とは思えない。

こんな自虐的な話し、まさかとは思ったけど、本当にあるとはこれはびっくり。今は「宮崎勤を知らない世代」ではあるものの、正直知らなくていいもんね。得しないし。
「オタクはつらいよ!」「オタクは迫害されてナア…」というのはついつい口にしてしまう話し。実際問題昔はつらかったわけだし、今でも十二分につらい思いをしている人もいるわけです。その中を耐え抜いてきた力は間違いなくあるんだけど、…あれ?
趣味なんだけどねえ。なんでこういう話題に事欠かないのかしらん。
 

●これは見ないと「ダメ」なもの?●

2006年は良くも悪くもおたくが死んだ年でした。(ラブラブドキュンパックリコ)
その篠房六郎先生のマンガを、岡田斗司夫オタク・イズ・デッド」も交えながら「世代論」について書いたかなり面白い文章。篠房マンガが心に残っている人は、必見。

それをおたくに当てはめれば、楽しくなければおたくではないということになります。それはまた今日の社会が、消費文化、消費社会の中でこのおたく達を後押しすることでも推進されます。楽しくないことはしなくていい、むしろするべきではないという風潮は、そのまま「楽しくないアニメは見る必要がない」ということになります。

世代のどうのこうのというのは実はあんまりわかりません。「読んだら分かれ!」とか言われると、うん、頭ではなんとなく。ただ世代の違うオタクに「お前はだめなオタクだ!」と言われても、うーん、ってなっちゃいますもんネ。好きなことが好きなだけだし。
これアニメやマンガに限らず、音楽や映画や云々かんぬんでも言えることだと思いました。スポーツもかな。
「これは見ておくべき」「これはたしなんでおかないとダメ」というものはないの?と言われると、正直自分にもあります。これを見る前にこっちを!とか、これを聞いて語る前にこっちを聞け!とか。自分の好きなものだから、人にもついつい口をはさむのは悪いクセ。最近では大人になったのか、文字にしたり言葉にしたりしなくはなりました。
これ、他人に干渉する、しない以前に、前提があると思うんですヨ。
・それについて論説ことで、お金を払ってもらう時。
・人前で自分の考えとして発表する時。
これらの時に相手が「見ておくべき物」を見ないでしゃべっちゃったら、恥をかくのは本人。たとえば同人誌作るのにそのマンガをちゃんと読んでない、とか。さすがにないと思いますけどネ。
それ以外で、相手のオタクが自分の好きなものだけ見ているのをどうこう言う理由ってないんじゃないかな。もちろん、よいと思ったものを人にすすめたりすすめられたりするのは好きです。人との交流ですし。ただ、上から見下ろしてエリート視点になり、自分の価値観を押し付けるのが本当にいいかどうかは、また別の話。押し付けられるとなんとなく拒否したくなっちゃうもんね。
そうしないと守れない壁があるのも確かだったのかもしれません。人によって違うのでなんとも言えません。が、指をさされた方はちょっと切ないネ。
 

●楽しめるオタク。●

「やらなきゃいけない」が多すぎると素直に楽しむのは難しくなります。そこを戦うか戦わないかが大きなカギなんだ、ドーン!と怒られるとこかもしれませんが、個人的にはこっちの意見の方がすんなり心に落ちます。
オタクは死にました。しかし、ぼくたちはまだ生きています。(Something Orange)

その意味では、なるほど、オタクは死んだ。アーメン。しかし、そこですべてが終わったわけではない。ぼくたちは既にポストオタクを生きているし、次つぎとあたらしい作品が生まれてきている。
そのなかには、たしかにどうしようもない駄作もあるけれど、素晴らしい傑作もある。そしてまた、この時代では、昔、「オタク文化」と呼ばれたものは、ほかの文化とまじわって、またあらたな文化を生み出していくでしょう。それでいいではありませんか。

嘆いていても仕方がない。怒るだけでも仕方がない。
んじゃどうする?結局自分は楽しいことを探します。趣味だもん。
何かを純粋に楽しむ、ってことは子どもの時は普通にやっていたことなのに、気づくとやたら面倒くさい考えに転がりがち。「何が面白いの?」「人と比べてどうなの?」「何の価値があるの?」…。あれあれ。自分はどこにいくの?本当に自分は楽しんでいるの?この作品がすきなのはなぜ?…。
そしてやれここがこう足りない、これは哲学的にこうだ、この作品はこれ知らないでわかるものか、と。誰ですかそんなことを言うのは!…自分でした orz
 
オタク・イズ・デッド」の区分でいえば自分は2.5世代だと思ってます。いや思うとか思わないとかどうでもいいんだけど、第二世代ほどこだわれないし、第三世代ほど開き直れない。半端ですねー。でもそれが楽しいし、自分のトータルの成長の一つにもなってるので、いいかなと。Something Orangeさんが書かれているように、新しい文化は決して捨てたもんじゃない。古いオタクに理解されなくても、いいものもいっぱいあるし、自分達はそれが好きで今もオタクやってるわけです。
この考えを誰かに押し付けるのも意味がないと思うので「自分はこう思う」でいいかな、と終わるあたり3世代目なのかもしれませんネ。論理的な話しが自分の脳味噌だとあんまりよく分からないのも原因なんですけどネ。
 

●戦うオタク●

kaien 「リアルなオタク」という存在そのものが「オタクはみんな似たような人生を歩んでいる」という幻想にもとづくフィクションに過ぎないのではないでしょうか?オタクっていったってようするに趣味(あるいは性的嗜好)の問題に過ぎないんだから、そのなかにはあらゆる人間が存在しえると思います。
統計的な見地から見た平均的なオタク像というものは想定できるかもしれませんが、例外は常に存在するわけで、個人的にはどんなオタクがいたって不思議とは感じません。
コメント欄より)

基本的に、趣味は趣味だから個人の自由でかまわないと思います。まさに十人十色で、それぞれ個性さまざまなオタクがいるはず。オタクの中の世代のカベのことを岡田斗司夫は語っていました。確かに全体的には流れがあるんだけど、必ず当てはまるものではないでしょうね。「オタク・イズ・デッド」については散々色々なとこで語られていると思うので、省略。
ただ、自分は「げんしけん」のようなオタク生活系作品のような物は、オタクが自分を映し出す鏡の役割を持っているので、意見の合う合わないは別として価値があると思います。解答にはならないかもしれないけど、自分を客観的に見たい時にはイイ。「ヨイコノミライ」みたいな痛いのを突きつけられて「痛い痛い」というのもまたよし。そういうことも実際にあることの認識になります。

マイナー嗜好な自分には痛い痛いコマ。でもマイナーなものって、ほら、なんつーかこう、愛でたくなるじゃない。ってフォローになってません。これこそサブカルの真髄かしら。ただ、ネガティブな気持ちがものすごいプラスに作用して動けているから、篠房先生のマンガが面白いわけで。

フォレイ 「オタク」は世間一般的にコレクター、そっち系の物が好きで、語り合うことそのものに意義がある、ザ・趣味! みたいな感じです。(まあ、エロ同人誌を作るの止まり、とかもこっちに入れるとして)んでもって、「エキスパート」はその道の専門家で、実際にクリエイターやってたり、仕事にしてなきゃ絶対知る必要ねーよ!っていう理論とか技術とか知ってて、知識がアートの領域までいっちゃった人ですね。
趣味を肯定する、っていうのはエキスパート全員に共通する……っていうか、そうでなけりゃそこまでやりませんし、無理解で馬鹿にされたら全力で語り出してしまう……
自分に誇りを持てるのがいい……とはいっても、根拠のない自信を持ってる人もいますし……区分けはやっぱり難しいです。でも、一番必要なのは、オタク、エキスパートにかかわらず、オタク文化から、自分に何らかのプラスになる影響を考え、取り込んでいけるってことなんでしょうね。
コメント欄より)

「オタク」と「エキスパート」について書いてくださった面白い文章です。
個人的には同人誌を本腰いれて作れる人も立派なエキスパートだと思います。ただ、それを自己満足どまりでいいや、楽しければいいや、といえるのならまだ自分の好きなことだけやればいいんですが、いざ「人に見せる物を作ろう!」となった場合、努力を放棄して生むことは決して出来ません。「げんしけん」で多くの人がひっかかるのはそこなんじゃないカナ?あんなぐずぐずな環境で完売する同人誌は作れないよネ。今思えば荻ちんの才能なのかもしれませんが。もし咲ちゃんと荻ちんがいなくて、と考えるとぞっとする。「いろはごっこ」の恐怖・・・。
 
最初に「見るべき、は押し付けることが出来ない」とは書きましたが、この道を頑張って一歩前に進みたい場合、妥協は許されません。妥協するならそこ止まり。いやもう、どの社会でもそうですが、オタク世界だったら「この映画は見ないとダメ」「このマンガはおさえておけ」と一風変わってくるから特に目立つのかも。義務感だけのオタク生活はイヤですが、人に見せる物を作るってのはそれらも含めて一つの生き方なので、努力は絶対必要でしょうね。
先ほどのラブラブドキュンパックリコさんが感じ取っていたのはそのへんなのかな、と思いました。楽しむ分にはいい、でも人と比較したときのことを考えていますか?そのままでストップしてもいいの?と。
人は人。自分は自分。ただそれを理解するには歳も必要。しかもそれを人に発信する立場になりたい(同人誌を作る、プロになる、バンドを組む、などなど)と思ったらどこかで歯ぁ食いしばって試練の道を行くが男のど根性な瞬間もあるでしょうね。人とのつながりを作るならどうしてもそれは避けて通れない。合う仲間もいれば傷つけられることもある。それでも「好きだから!」と大声で叫べる人は、立派な戦士です。スポーツや学問のように結果が見えずらい分、イバラかもしれませんネ。どこで妥協するのか、自分で決めなければいけませんもの。もうアートだなあ。そういう人がまた新しい文化の担い手になって、面白いものを作ってくれるんでしょうネ。
 

●切り捨てるオタク●

自分は楽しいことが一番大事だし、それでいいと思って暮らしています。のんきなオタです。
日夜戦うオタクもいます。がんばれ!と応援したくなります。
色々な人がいて、それでいいんですが、ちょっとびっくりするときもあります。「興味ない」「どうでもいい」という無気力タイプのオタク。実際は自分の中に楽しいものがあるんでしょうけど、自分だけ楽しければそれでいいのでコミュニケーションを嫌います。あるいは後ろめたさもあるのかもしれませんが。
今は別に人と接しなくても、苦労しなくても情報手に入りますしね。そういう人もいるんだな。今の時代とかにかかわらず、昔もいたでしょうね。
 

●根っこは楽しいかどうか。●

なんで趣味を持っているかと言うと、楽しいから。それ以外の理由ってあんまりいらないですよね。
なんでマンガやアニメや小説が好きなの?楽しいから。どうして映画みたり音楽やったりするの?ワクワクするから。
どんな人でもそれは変わらないと思うんです。あとは表現方法の違いとか、どこで満足するかの違いとか。ただ鬱屈した心の泥沼に身をゆだねると、それを見失ってしまうから怖い。趣味を嫉妬や恨みや苦しみにしたら、もったいないもん疲れちゃうもん。
というわけで、このブログでは楽しいと思ったら「楽しい!」と書こうと思ってます。
長々と書いたけど結局はそこに戻ります。楽しいものは自分で探しだすのも楽しみなんだなサブカル大好き。関係ないけど最近サブカルをモテるための武器にしている人もたまにいるよね。まあそれはそれで。
 
というわけで今日も世界の中心で乃梨子瞳子と叫んできます。ん?世界ってどこかって?二次元ですがなにか。
 
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