たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

ロボットとの恋愛感情って、本当にありうるの?「時計じかけのシズク」

未来のイヴへの高まる感情●

ロボットとの結婚が2050年までに可能に?「俺の嫁」が実現化 2ch
この記事、ラジオでも話していたのですが、ほんっと面白いですよね。
何が面白いって、それが実現されるかどうかはさておき、こういう感情が現実のものとしてあることが認知されているということと、それを聞いて自分達の感情が揺さぶられることですよ。
おそらく古くはピグマリオン王の伝説にはじまり、未来のイヴ達は創作の世界で次々イメージされてきました。オタク文化内でいうと、「ToHeart」のマルチや「ちょびっツ」のちぃ、ぼくのマリー、まほろさん、GS美神のマリア、ペルソナ3のアイギス…うん、山ほどありそうですね。
しかしまあ、この手の話が出るとき、スルリといきずらい点があります。それはどうしても「性欲」がからむところです。
それを汚いと言ってはいけない。けれどプラトニックな感情論だけですますこともまた難しい。そういえば「セイバーマリオネット」もあっけらかんとしてましたが、あれセクサドール出てましたね。「イノセンス」にもセクサロイドが出てきています。
一方的に奪い取る形の「性」、あるのかないのか分からない「自我」と「人格」、ロボットの「権利」。これを現実的な「問題」というには、あまりにもまだ科学的な溝が深すぎますが、これらを考えること自体がなんとも興味深いじゃないですか。うん、結論は出ないのは分かってるんです。人間の意識が、作られたものに対してどう感情を働かせるかが面白いんです。
 

●時計じかけのシズク●


ここで、自分がすごく好きな漫画家、海野螢先生の「時計じかけのシズク」を紹介してみようと思います。
 
先に書いておきますが、この作品は18禁で、セックスシーンがあります。なので残念ながら18歳未満の方は読めません。が、この作品で描かれているセックスは必要不可欠なものなので18禁にしてしっかり描きこまれていることにこそ価値があると思います。
「ロボットとの恋愛」がテーマとなると、やはり性の部分はスルーしちゃだめなんです。「それだけが大事」なわけじゃないけど、「それも大事」です。そして、ロボットのAIに自我が芽生えるかどうか、ただこちらの挙動に反応しているだけかどうかと、性は大きく絡んでいます。

どうせ作るならかわいいほうがいいじゃないか、という工学者の父親がプロジェクトで作ったロボットシズク。確かにかわいいです。かわいらしい女性型ロボットというのは、今後現実でも研究され続けていくであろう永遠のテーマ。
女性的なフォルムというのは、性とか云々を抜きにしても、見た目のしなやかさや、医療介護などでの温かみの感覚も含めて研究されている部分。たとえばこんなのとか。

「ロボットらしい女性らしさ」というべきでしょうか。
この作品でも確かにその点が重視されているのが描かれています。

シズク以外の量産型は、こんなフォルム。ええ、かわいいかと言われると、かなりかわいいです。そして、これなら現実的にがんばれば、近々の間に見ることが出来そうな気もするあたりがミソです。
しかし、これはあくまでも一個人ではなくて、「かわいらしいロボット」の域です。そこに一種独特の愛着はわくものの、相互恋愛関係な感情は生まれていません。
 

●AIの方向●

このへんは、この作品のキモになっているAI(人工知能)の、二つの方向が絡んできます。この設定が非常に面白いので簡単に紹介してみます。

チュリング(情緒反応)回路…周囲の環境、人間の脳波を元に、データベースの中から一番適切なものを選択して行動する。人間がいて、反応するという形式。
フラクタル(自己相似)回路…1からデータを集めつつ、学習し育っていく。小さな分岐を重ねて複雑な感情を自律で作っていく形式。

つたない説明しかできず非常に申し訳ないのですが、このへんの描かれ方の機微は是非作品を見てくださいということにしておきます。どう反応するのかが明確に描き分けられています。
前者は、まさに人間のために動くロボットです。常に「人間にとって最善」を選択するので、忠実で、ロボット三原則からはずれることはありません。その分イレギュラーに対応できずパニックになってしまう危険もありますが。
シズクは後者。あらゆる経験を無限と思えるほど莫大な労力をかけて重ね、分岐分岐でフラクタル模様のように絡み合いながら自我を作っていく・・・なんだか想像を絶するような回路です。
ですから、何が恐ろしいかって、「主人を好きになる→YES/NO」の選択も、経験の蓄積次第では「NO」になるんですよ。自我ってくらいだから、そりゃそうですよね。権利があるかないかはともかく、選択は出来てしまうわけです。

もっともそれが求められているかどうか、というのもまた微妙なライン。やはりロボットは人間に忠実で仕えてくれるからこそ、と思う人もいるでしょうし、完全自律で喜怒哀楽の感情のあるロボットを夢見る人もいますから、どちらが優れているとは言えません。
しかし、ロボットにまで振られる、とかとなると確かに切ないなあ。

だからこそ、この問いかけは非常に生々しい気がします。
どんなに頑張っても、結局は真似事の域を抜け出せません。ならば、感情…特に恋愛感情なんて意味があるんだろうか?
 

●ロボットに対する愛情と性欲●

人間側の感覚とロボット側の感覚が触れ合い、お互いの好き嫌いを決めるとしたら、やはり外見だけではなくて、触れ合った時間と経験が重要になります。
この人は○○だから好き。この人は○○だから嫌い。
人間も数多くの経験を重ねてきて、その人を好きになるかどうかの基準も生まれてくるとするならば。ロボットだって同じ流れで、計算ではない、正誤で決め付けられない感情が生まれる可能性があるかもしれない。
その経験の一つとしてセックスが描かれていきます。それも感情です。
が、それが本能的に受け入れられるかどうかは別なのを描いているのがこの作品のすごいところ。

開発者の父親が、シズクとセックスする声を聞いて、主人公の和泉にはものすごい嫌悪感が生まれるんですよ。
ロボットが人間的な感情を持つには性の感覚や感情の経験も必要。それは分かっている。分かっているけれども、やはりロボットは無機物で、抵抗が生まれるのはもっともです。言葉でどうこう説明できる類のものじゃないですし、それが正しいか間違いかも答えはありません。


逆に、ロボットを車や家電のような位置づけで見れば、この意見が間違っているとは言えないんですよね。
道具なんだから壊れたら変えればいい。性欲を抱くとしてもそれはあくまでも一方通行で恋愛とはなりえない。
こちらも、間違っているとも言えないし、正しいとも言えない。
しかし、自律していくシズクとの触れ合いが描かれていくのを見たとき、和泉が困惑し、ひかれていく様をとがめることは自分にはできませんでした。自分も、きっと同じ立場だったら、シズクを好きになってしまう可能性が否定できないからです。それがAIと分かっていても。

ならば、そのシズクの記憶を残しつつ回路を変えたら、それはシズクなんだろうか?あるいはシズクの知能だけを残して本体がない場合、それはシズクなんだろうか?
そして、体と心を求めるシズクの反応は、ロボットのものなんだろうか、「シズク」のものなんだろうか?
 

●機械を愛する歪みと、機械と共に生きる時間と。●

自分がこの作品をたまらなく好きなのは、そのような問題提起が性の問題と絡めて行われているから、というのもあります。が、それ以上に、ロボットを愛する姿が受け入れられるとは限らないのをきちんと描いているからです。

友人たちは「たかがロボット」とつい言ってしまうわけです。周囲の目も奇異なものを見る目なわけです。確かにマンガ的にはかわいらしいシズクですが、それを愛し行動する姿は「ちょっとおかしい」という視線で見られる可能性があることを明示しているのです。
そこがすごいですよね。いて当たり前、みんなに愛される美少女…じゃないんです。
海野先生もあとがきで書いていますが、実在したならばどんなにリアルでも…いやリアルであればあるほど違和感のある存在になってしまうのがロボットです。
これをロボット工学では「不気味の谷現象」と呼びます。
不気味の谷現象(wikipedia)
先ほど紹介した女性型ロボットは、ロボットであるがゆえにかわいいです。が、人間のかわいらしさに近づけると気持ち悪くなってしまうのがコレ。どうしても越えられない大きな壁の一つです。一番最初の記事でも写真でていますが、確かにかわいいはずの造形なのに、妙に違和感あるんですよね。
じゃあ仮にシズクがそんな、不気味の谷を越えられない存在だとしたならば(実際、顔に入っている縦線がそれを象徴してます)、愛することはできないのか、というと…どうでしょう。
この作品の中で和泉が感じていたのは、愛情なんでしょうか。それとも勘違いなのでしょうか。
というか、そもそも人間の感情はそんなにはっきりと線引きできるんでしょうか。
ええ。答えはないです。しかし、それを考えることは、ひいては人間の感情について知るという価値を含んでいる気がしてならないのです。

相手はロボット。しかし和泉とシズクが心と体で触れ合った時間が確かに存在し、そしてシズク側も和泉という人間に触れて感情を積み重ねていきました。
それがお互い擬似的なものか真実なのかは、二人にしか分かりえませんが、二人(?)の行く末は作品を最後まで読んで見届けてほしいのです。人間の感情の、一つの視点として。
 

●機械のカラダ、有機体のカラダ●

先ほども書いたように、ロボット対して愛情を抱くことは美談だけではすみません。「火の鳥復活編」や「荒野の蒸気娘」にも描かれているように、痛々しさや滑稽さも内包してしまう可能性があります。いやまあ、愛していれば基準なんていいじゃないか、というのもあるのですが、みんなが認めるべき、という意見を押し付けることもできかねる部分。

その部分についてはこの「シズク」でも書かれていますが、関連して海野先生の「空想少女綺譚」の一編でも語られています。こちらは結構キツめ。
 
現実的にはまだまだAIの問題も不気味の谷の問題も、動きや重量の問題も全然クリアできていないので、マンガ的なロボットなんて遠い未来の話なのですが、空想やSFの世界でこれらを考えることは有機体のカラダに精神を宿した人間側を捕らえる道しるべになる気がします。また、それに対して瞬間的に生まれる自分の感覚や、さまざまな人の見方そのものも、興味深い部分だと思います。
 
ええ。もちろん現実的にロボットは出来てほしいですけどね。とりあえず美少女の形だけでも…っ!て思う自分は割りとダメだと思いました。
 
めもり星人 (ミッシィコミックス)空想少女綺譚 (ミッシィコミックス)

「空想少女綺譚」は18禁じゃないのでオススメしやすいです。が、この方の作品はエロシーンでの感情の動きあってこその思想が強いので、できれば抵抗がない方ならぜひ成年向けの方も。ノスタルジックを駆け回る貧乳ショートカット娘(略して貧ショー)があまりにも魅力的なのです。

また、海野先生のコマ割は非常に特殊で、「時計じかけのシズク」ではS字型に切られています。他の作品もかなり独特で、流れるように読ませてくれるので、そのへんも一見の価値ありですヨ。
 
〜関連記事〜
エロマンガ家海野螢の描くSF思考世界で、ショートカット娘と戯れよう。
「わたしはあい」に見る、ロボットと人間と、権利のハザマ。
機械の自我と権利に対する意識は、ひいては「作る側」の意識の根っこへの重要な問いかけのような気がする。うん、答えはないんだけれども。
ロボットへの感情移入についてしらべてみた。
 
〜関連・参考リンク〜
海野屋(公式)
アンドロイド少女は電気羊の夢なんか見ない(N.C.P)
「ロボットが人と持ちつつある関係」
メイドロイドラボラトリー