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雨がっぱ少女群「夕蝉のささやき」に秘められた心理と謎

先に書いておきます。
LO8月号の、雨がっぱ少女群先生の作品、「夕蝉のささやき」がとんでもないことになってます。
エロマンガというジャンルだから出来る作品なんですが、ここまでとことん追い詰めていく物語はなかなかありません。とんでもなく強烈なものを見てしまいました。
前半簡単な紹介、後半ネタバレありで考察を書いてみます。
 

●母にうとまれて●


ページをめくっていきなり3ページ目から、どどんとお葬式のシーンが入ります。かなりしょっぱなから、陰鬱としたにおいが漂いはじめます。
主人公はこの少女。基本はこの少女と、まったくの第三者視点で進んでいきます。
 
お葬式で棺に入っているのはこの子のパパ。
ママは涙に暮れて大変なことになっているのに、この子は涙も流さず表情も変えません。それをママは「泣きもしない」と途方にくれます。まあ確かに言っていることはそのとおりなんだけれども。
しかしこのママ、少女のことをほとんど気にかけてきて育てていませんでした。この子は表情も変えず、何もしゃべらず…と、疎んでいました。
母親とこの少女の間には、葬式の際においてすらも亀裂があったことは間違いがありません。
その時点でこの話がいかにすごい方向へ向かっているかわかると思います。
 

●父に愛されて●

しかし、彼女にとって亡くなった父は、とてもよき理解者でした。
彼女のことを心から愛し受け入れていたから、少女はパパを本当に本当に愛していました。

といってもここで引っかかるのが、すべてがこの少女ビジョンで物語が進んでいるところ。
ここに出てくるパパはとてもやさしくていい人なんですが、あくまでも少女から見たパパです。
 
この子はパパが大好きで結婚したくてたまらない子です。
だから積極的にパパに寄り添うし、パパとなら何でも出来るといいます。
その中で迎える、突然のパパの死。
少女はその中で、表情をまったく変えることをしません。
暗い画面の中、彼女はそれでもパパを思うのです。
 

●母と父と娘●

以下、ネタバレを含む考察。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
なにがすごいって、通常マンガだと「END」と入って本の予告が載るとそこで終わりなんですが、そのページをめくったあとにさらにラストシーンがもう一度入るというトリッキーな構成になっています。
これは少女が望んだ世界と現実とが入り混ぜになってしまっているからなのですが、これが謎を多く残しています。
心理状態とあわせて簡単に考察してみたいと思います。
 
まず少女とママの間の確執についてです。
彼女は母親に対して強烈な敵対心を抱いています。これはパパが好きだから、という理由もあるのですが、発達段階的にエレクトラコンプレックスの色が非常に濃いです。
エレクトラコンプレックス - Wikipedia
参考までに。シンジくんとゲンドウの関係は「エディプスコンプレックス」です。
作品内でも、「ママなんかよりりかのほうが、いっぱいパパのことあいしてるんだから……」というシーンがあります。
幼い彼女にしてみれば、それは確かなんです。
しかし、あくまでもそれはこの少女視点です。もうママが嫌いで、あるいはパパの愛を受けているであろうママが嫌いで、自分の方がパパと一緒にいられるんだという強い思いの中からの視点なわけですよ。
だから、このマンガでママの顔は出ません。どんな表情をしているのかまったくわからないのです。
一応「ネグレクト(保護者の育児放棄)」という言葉が出ているので、母親に問題があったのは間違いないようですが…。
 
興味深いのは彼女の中で生まれる「ママよりも」というところです。
ようは、ママが敵であると同時に、自分がママの位置にいたい同一化させようとする意識も確かにあるんです。

そのため彼女の視界には、ママは頻繁に出てくるものの、一切そちらに焦点が向くことがありません。
おそらく意図的に避けているのでしょう。ストレスや葛藤がものすごく彼女にかかっている状態が続いています。ましてや父親が他界したとなると。
苦しみを押し殺すかのように、あるいはなかったかのようにするために、強烈な自我が彼女の中に発生します。
それが、彼女が父親に会うために、結ばれるためにとった狂気に満ちた行動でした。
 

●六茫星と少女の願い●


ここで使われている呪術(つかおまじない)の記号はダビデ紋、六茫星です。日本ではカゴメ紋とも言われ、昔からよく使われているものです。
神社の境内でこれを描き、その中で「血をたらすと願いがかなう」というおまじないですが、このあたりヘブライの「過ぎ越しの祭り」と似通っています。そちらは殺されるのをまぬがれるために羊の血を門に塗ったというもの。一部の説ではその時の門をヘブライ語の方言で「トリイ」というらしいからこれまた興味深いところ。
だとすると、鳥居をくぐった下で、父の死を回避(逃避?)するために生贄の血が必要だというこの作品の流れが妙にしっくりきます。
加えてこれもキバヤシレベルの推測でしかないんですが、篭目紋(六茫星)って上向きの三角が男性、下向きの三角が女性という説も。また関連して「かごめかごめ」の「鶴と亀がすべった」も一部では鶴=女性、亀=男性、すべるとは「統べる」という説もあります。
 
かなり性的な意味での類推をするだけの要素が、ものすごく詰め込まれているわけです。もっともそれが真実かどうかはわかりませんが、視点のひとつとして。
その中で少女が、性をも含んでコンプレックスと葛藤をすべてそこに注ぎ込んでしまったのは、想像に難くありません。
 

●あのラストシーンの視点はどこからのものか●

もちろんそれは実際にかなうような呪術ではありません。
しかし崩壊寸前の心をつなぎとめるには十分の魅力はたたえていました。
彼女が最初のシーンから、父親と性行為をかわしているシーンがフラッシュバックのように挿入されていくのですが、その父の顔もお面をかぶっていて見えません。途中からその仮面をはがすのは、おそらく彼女の中の感情のたかぶりと逃避行動が作り上げたものでしょう。彼女の作った幻影でしょう。
 
彼女が自らを追い詰めてその行動に走り、パパと結ばれると信じてやまなかったのは納得がいきます。
それで後追いをしたのかと思いきや、ラストで「母親を殺した」という衝撃の事実の中、昏睡状態の少女が発見されるという大どんでん返し。
 
まず先ほどのエレクトラコンプレックスの話もここは関連してきます。
その前のシーンでは不明確ではありますが、この少女が自らの血を無数の六茫星にかけています。それが最後の証言では「母親の血をばらまいた」となっています。
現実としては「母親の〜」なのでしょう。しかし彼女のビジョンでは間違いなく自分の血を撒いていたのです。
それは彼女自身が父親を愛し母親を憎むことによって、母親と心が大きく乖離していながらも、母親と同一化してしまったことをさしているのかもしれません。
ある意味、彼女にとって母親を傷つけることは、自らを傷つける(母親と同じ位置にありたいと思う自分)ことでもあるのです。
 
それがページをまたいで描かれることで、「少女の視点」「少女の願望」「現実」の3パターンが描かれることになります。
父親も母親も前者二つでしか描かれていません。現実はわからないです。
すべてはこの少女がネグレクトによって心がゆがんでいたのかもしれませんが、そんな短絡的にまとめることもまた難しい。そもそも「原因」がどこにあるかではなく、彼女の中に現在どのような心理が渦巻いているかが一番重要だからです。
 
少女の願望は「不意につまづいたとき、受け止めてくれる大地が柔らかければいい」「パパの腕が私の世界の地平線になる」という言葉に象徴されます。
つまり、世界のすべてがパパ、パパが世界のすべてです。ある意味において、彼女は救いのすべてをパパに託しているため、父と母の死に対して途方に暮れることなく、理想の世界へと逃避をします。
加えて、性的にほのめかされる出来事は何度かあったものの、彼女は幼い体ゆえに父親を一度も受け入れている事実がないこともまた興味深い点です。
彼女は自我を殺すことで、父を受け入れることの出来る母の体を手に入れようと、望んで選択しました。空想の中で。
現実的に死んだのは母親かもしれません。
しかしこの作品の中で、少女もまた心の面で死んでいるのです。自我の葛藤の中で。
 
読めば読むほどじわじわと謎と、少女の中の宇宙がにじみあがってくる、途方もない作品が出てしまいました。
以前の「家庭菜園」といい、雨がっぱ少女群先生はなにやら、とんでもないものを産み出し続けている気がしてなりません。
 
追記
ごめんなさい
雨がっぱ少女群先生の解説。
血についてのルールは初耳!そうだったのかあ…。そしてますます、ラストシーンについていろいろ視点が広まりますねこれ。
母親の存在がどんどん気になります。面白いなあ・・・。
 

正直、雨がっぱ少女群先生の作品に心酔してます。すげえよ、この作家さん。
 
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