たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

「楽しい」を共有したがるオタクパワーに敬礼

WEB拍手より。

たまごまごさんは「オタとして最高の瞬間」って何だと思いますか?
 
素晴らしい作品に出会った瞬間?
好きなクリエイターや作品が日の目を見た瞬間?
同族同胞と魂でわかりあった瞬間?
 
私は「誰かに最高の景色を見せれた瞬間」だと思っています。
自身には及びもつかないような素晴らしい情景があって、それが好きで好きでたまらなくて、誰かと一緒に見てみたくて。
だけど言葉で伝わるもんじゃないから何とか興味を持ってもらって、そこに至るルートを熟考して、道中で放り出されないよう気を使って。
そしてかつての自分と同じものを見て「すげー面白いよこれ!」と目を輝かせながら言ってきて、「だろ?最高だろ!?」と返す。
その瞬間に感じる少しの優越感と大いなる多幸感、それこそが一番の快感なんじゃないかな、と。
勿論これはオタ趣味に限った事ではありませんが、我々は元より大きな声では言えない事が好きな日陰者だけにその傾向が強い気がします。
例え半径85センチで完成された世界を持っていても、そばには誰かがいる方がいいもんです。
そのための方法が人によって「布教」であり「レビュー」であり果ては「創作活動」になるんじゃないかな、なんて事を思いました。
 
いや、何でまたこんな事を抜かしたかといいますと。
サナギさんみつどもえ、全巻揃えました。これで冬スルーした同人誌も買える……!
特に笑ったのはダイナミックな「ぬ」と「パンツ見て!」「この変態が!」。
あとたまにあるフユちゃんが本気で動揺した時やみっちゃんがお姉さんらしい事をした時がもう大好きです。
俺……このアマガミが終わったらP4も買うんだ……!

さりげなくダブルラリアットなのがいいですね。P4はやったら人生が一つ豊かになるのでやったほうがいいです!
はて、このお話興味があったのでちょっと自分なりにも書いてみます。
 

●「好きだから批判もする」と「面白いことしか話したくない」●

オタク、というか「趣味人」には3通りあると思います。

1・自分だけでも楽しければ満足できるタイプの人。
2・誰かと共有することで面白さを倍増させたい人。
3・批判や批評を繰り返してしゃぶりつくす人。

いやまあ、まだまだいーっぱいあるんですがー。
自分は色々行ったり来たりして、今は完全に2です。
もうね、オタク会話するんだったら「面白い」ことしか話したくありません。だって世の中に数え尽くせぬほど面白い作品があって、人がそれを知って教えてくれるというのに、つまらない作品や嫌いな作品の話なんてしてイライラするヒマなんてないです。そんなヒマがあったらその分好きな物を楽しみます。
きちんと納得させられる批評は好きです。読むのが。それは愛だなーって思うので。しかし愛なくしての批判は「それを好きな自分」が泣きたくなるくらいに辛い思いをした経験ばかりなので、見ないようにしていますし、自分も言わないようにしています。それでも漏れちゃって、ごめんねーって思うんですが。
 
そしてそういう枠をすべて無視して、自分だけ楽しければいいやという完結型の人も最近増えていると言うのを聞きました。あまり自分の周りにいないのでわからないんですが「好きな物を追求する」という学者肌なら確かにそれは一番効率がよさそうです。
 
なので「オタクの幸せ」というのは一概には言いづらいだろうなあとは思います。
逆に言えば、コメントくださったように「ああ、これが好きでよかった!」という瞬間があるから、オタクなり趣味人なりをしているわけで。
さてはて、自分にとっての「幸せ」は一体なんなんでしょう。それを見つめ直すのは絶対価値あるでしょうね。
 

●表現の形態●

「表現したい」というのはとても熱い動機になります。
それが「0からの創作」なのか「ある作品へのリスペクト」なのかは形態は変わります。でもどちらも根っこは同じでしょうね。
同時に「0からの創作」だって、元は何かに感動したから「表現したい」と思ったはずです。
 
はて「人に薦める」という「表現」はとても難しいです。
的確に「批評する」という「表現」もとても難しいです。
「新しい作品を作る」という「表現」は多分一番難しいです…というかセンスの問題になります。
こんな言葉を思い出します。

「評論家があつまると絵の意味や価値、 画家の動機を議論する。 芸術家が集まるとどの店でテレピン油を買うと安いかという話題になる」
パブロ・ピカソ

色々な意味が含まれている言葉ダナーと思いますが、真意がなんなのかは自分にはわかりません。
とりあえず評論家たちと、クリエイターの温度差みたいなものはよくわかります。で、どっちがいいとか悪いとかではないんですよね。
 
じゃあ自分はどうなんだと言われると、芸術とか難しいことは分かりません。テレピン油の値段も知りません。
見たいのは出来た絵画です。それを見て「すげー!」って声をあげたいんです。
そして「すげー!」を誰かに「おいこれすげーよ!」って伝えます。伝わればもう幸せです。誰かと一緒に「すげーなー!」って言えたら、もう幸い。
その「すげーなー!」を言うために尽力したいなーとほんのり考えたりもするんですが、そのうちその行動自体が楽しくなって、目的も行動もひっくるめて「幸せ」になっちゃったりします。
 

●後ろめたさの産む力●

「オタクはそういう素質が強い」というのはまったくもって同感です。
いいとか悪いじゃないんです、表現したくてたまらないわけです。
そりゃ確かに優越感とか、自慢とか、色々人間的に幼い部分がいーっぱいつまってはじけちゃっているのもその通りなんですが、それ以上に「ほんのりとした後ろめたさのドキドキ」が後押ししまくるのがオタク趣味。
 
無論最近では胸をはって自慢できるようなオタク文化もたくさんあります。しかし「オタク」って言葉自体がサブカルチャー的な意義が強いため、そこまで立派になるとすでに「オタク」の領域を脱して「ハイカルチャー」扱いする人を時々見かけます。
ハイとかサブとか分ける意味なんて無いんですが、すっごいその感覚わかるんですよ。
かつてX-JAPANのライブで「おしゃまさんしてんじゃねーぞ!」と叫んだ、というのは有名な話ですが、まさにそれ。自分たちの立ち位置が(たとえメジャーでも)斜めであるんだ、という不思議ながらも安心感のある欲求です。
 
メジャーにメジャーに脚を踏み入れる「オタク像」も増えているので一概に言えることじゃないですが、「マイナーなものを好む」志向はオタクや趣味人には強いと思います。
実は「マイナー志向」自体がもう立派な表現だったりするんですよね。
自分は人と違いますよー、新しいこと知ってますよー、っていう。弾けないヴィンテージギターを持っているのも、使わない車のパーツを持っているのも、マイナーアニメを絶賛するのも、根っこは同じ。
同時に、何らかの形で圧迫された「好き」がばねのようにはじける瞬間でもあります。
まあギターは人に文句言われないかもしれないけれど、エロ漫画だと電車の中で読めないくらいの圧迫はありますもん。
人に批判されたり後ろ指指されると、逆に「ここがすごいんだよ!」と擁護したくなるのは、気付いたらそれが愛しくなっているから。
人間の感情はころころ変わる内に愛着がついてしまうから不思議です。
 

●ギブアンドテイク●

人に教える「表現欲」もありますが、同時に「人の好きな物を知る」のも楽しいから大変ですよね。
だって、その人が「好き」ってことは、なんらかの理由があるわけですよ。それだけの魅力があるんですよ。自分がそれを知らないだけで。
その魅力を教えてもらうのは本当に楽しい。そして自分も「こんなのもあるんだぜ!」って話すのはもっと楽しい。
共有型オタクの「幸せ」ここにありです。コミケ会場なんかはまさにそのるつぼです。
 
ネットをみてると知識量があって、人に魅力と熱意を伝えられる人が時々いるんですが、そういう人は是非ブログとか同人誌とかpixivとかどんどんやるといいと思います。
多分1年くらいで、好きな物をけなされるなど、辛い目に必ず会うと思います。でもね、「幸せ」なのですぐ乗り越えると思います。
 
なんでそういうことを言うかというと自分がそれを見たいからです。
その作品が大好きでたまらない人の叫びが聞きたいのですよう。
みんな田中ユタカ先生の「愛人」復刻版の話書いてくれよう。道満晴明先生の「性本能と水爆戦」の話しようよう。自分が気付かなかった魅力を教えてくれよう。どうしてぼくがこんなに好きなのか誰か教えてくれよう!
 
やっぱり「好き」な話をするのは楽しいですね。
人に伝えることは、最初は色々な動機があるかもしれませんが、実は「それを更に好きになるための行為」だったりするんです。
 

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ほんと、なんで自分はこんなにも田中ユタカ先生が好きなのか誰か教えてください。いや、そりゃ「しらねーよ」だろうけど、なんか、なんかあるはずなんだよ!