たまごまごごはん

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町田ひらくの描く少女の瞳は何を見る「三文病棟」

先日「酷い目に遭う女の子」の話をちらっと書いたのですが、友人と話していたところ「やっぱり町田ひらく先生の描く角度は特別だなあ」という話になりました。
ちょっとだけそのへんを、コミックLO二月号に載っている短編「三文病棟」から、表情を通して書いてみたいと思います。
 
ちょっとエグい話が続くので収納。
 
 
簡単に書くと、「命の水を買って性交をすると、ガンが性交相手に移って助かる」というのを信じている団体が、少女たちをその名目で犯していくという話。少女のガンを引き受けて救う、という名目で。
いかんせん大義名分が「ガン」と重過ぎるので、少女たちも逆らいようがないんですよ。そんな中ですから、少女が幸せになるなんていう幻想はすべて切って捨てられます。黙したまま、苦痛に歪むしかないのです。
この「尊い」という名義で男が犯す様が、もう痛々しくてなりません。
なんて男たちはだめなんだろう、性という業から逃れず、果てしなく罪深い男たちは救いがないじゃないか。
それ以上に、言葉を出すことすら許されない少女たちはさらに救いがないのですが、悲惨さはその痛々しさだけではなく、彼女たちの瞳に恐ろしいまでに描きこまれています。
 
途中出てくる父娘は病院に行こうとするんですが、その際にいった父のセリフが「ウチのはその、リアルにガンでして」
虚構で作られた性の宴を根本からくつがえして、読者を奈落のそこに叩き落します。なんだよ、男たちみんな本当に救いようがないじゃないか。分かっているのに少女を痛めつけ続けているのか。
うん、そう。しかもこの父親がガンだと思っていた娘は「私に移せばお父さんのガンは治る」とけなげに思っていたのにもかかわらず、実は娘がガンだったというどんでん返し。

その時の少女の顔が、頭に焼け付いて離れないほど強烈です。
少女の眼下には「貴方の苦しみを受け入れよう」と裸になった男たち。この位置関係が非常にインパクトがあります。
 
彼女の瞳はいったい何を見ているのだろうかと考えるだけで、一寸先が闇に包まれます。絶望というのは簡単なんですが、そんな言葉でまとめられないこの瞳。
この場で「いやだ!助けて!」と叫ぶこともできるわけです。しかし少女はこんな瞳で見つめ、黙るんですよ。
すべてを諦めて受け入れる境地。少女の瞳が濁れば濁るほど、性に翻弄される男たちの姿がみるみる歪んでいきます。
ここが町田先生の作品の脅威。わめき苦しみ痛々しい少女を描く以上に、どんよりと濁った瞳の少女がものすごい鋭さで、読者の心の一番イヤな部分をえぐりだしていくんですもの。
男たちは性にひざまづいて、幼い女の子に欲情するかもしれないけれど、少女側は、決して幸せになんてならないんだよ、と。

もう、見下ろすでもない視線。蔑むでもない視線。
諦念、というところかもしれませんが、この視線を言葉でどうこう表現できるものじゃないです。少女だけが持ちうる、最高度に何かを捨てた目です。そしてだからこそ、すべてを捨てきって少女性の抜け殻だけを残した偶像に昇華されていきます。
男たちは性という業にしばられている限り、決して彼女たちには手が届かない。そして女性から見て、搾取される彼女たちの姿は少女期の漠然とした不安を鏡に映します。
それでもなお、心が少女性を欲し続けるのは、業でしょうか。それとも純粋な渇望なのでしょうか。後者であると信じたいのですけれども。
 
町田先生作品に出てくる少女たちは色々いますが、彼女たちが描かれるほどに男たちの姿は小さく霞んでいきます。力でねじふせてその口をふさいで…そうするほどに少女たちの死んだ瞳は、爪をたてて何かをえぐろうとしてきます。酷い目にあえばあうほど、男の醜い姿を鏡で映し出していきます。
そんな瞳を見て、自分はどこに目を向ければいいのだろう?
 
詳しい内容は実際に読んでいただくとして。何が町田先生の恐ろしいところかって、これだけ想像を絶する内容の作品を、鋭い刃物を並べた中を歩くような少女の瞳にこめて描き続けていることです。
最後に、ありきたりな感想で申し訳ないんですが、もう好きで仕方ないのでこう書かせてください。
なんで描けるんだろう。
 
コミックLO 2月号(+18)(AA)
最近はLOの作家さんはみんなハイレベルでたまらないんですが、町田ひらく先生が載っている、というのがコミックLOがLOであるバランスを保っている気がしてなりません。
コミックLOオフィシャル
三月号は月吉ヒロキ先生の「独蛾 最終話」と、雨がっぱ少女群先生の「パジャマパーティー 最終話」が載るそうです。町田ひらく先生はお休み。
 
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「酷い目に遭う女の子たちの話」は、どっちの視点で見ようかな。
絶望が気持ちいいんじゃない、絶望を見ないと耐えられないんだ。