たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

「百合的」というファンタジー

「最後の制服」2巻で百合分をあふれるほど補給して、今背中たたかれたら鼻血がブー!です。たまごまごです。こ、こんなとこで次回に続くなんて、生殺しですかー。
 
さて、以前「百合的」作品をやたらめったらに集めまくってみたんですが、その後「他にもないかな」と思って探していたら、非常に興味深いエントリがあったので紹介してみます。
 
百合の功罪萌えプレより)
 
ものすごく納得しました。まったくです!百合とビアンは根本が違う。
このへん自分でもきちんとおさえておかないと失礼に当たると思い、自分なりの考えを書いてみます。
 
現在、一ジャンルとして確立し、市場を広げている「やおい」。これが「男になった女たち」の、記号のみによって生まれたジャンルだとすると、百合作品もある一部は「女性という記号のネバーランドなんじゃないかと思います。男性から見た場合の百合風味女の子イチャイチャ物ならば、「女になった男たちの世界」と言ってもいいかもしれません。
しかし女性ファンもたくさんいる百合世界。百合の「美徳」や「感動」を求めようと視点をごっちゃにして現実に飛び出したら、残念ながら大やけどをするわけです。また、中高生の時期に自分がそうであると思い込んで、さっくり男に転ぶこともあります。
(百合作品の一部ではその「一瞬の儚さ」も含めてファンタジーなんですが、現実だと・・・傷つくだろうなあ)。
 
現実的な話、レズ世界は体の求め合いもあるし、ヘテロ(男女)の関係と同じじゃないですか。
ヤオイや百合スキー(自分含む)はそれを第三者からみて「ああいいなあ、ピュアだなあ」と思うわけですが、それはゲイ・ビアンとして生きてきた人には「なんじゃいこのあまちゃん」となるわけです。
憧れと、恋愛は別物。決して憧れを押し付けてはいけません。というか返り討ちになります。待ちガイルに飛び込むようなものです。違うか。
あるいは同性愛・性同一性障害の人に対して大きく傷つけることになるかもしれない。
「普通だよ」と言われること悪意のない差別への恐怖心は、他にもさまざまな人にあると思いました。自分も、やはりそれはいい気がしません。
 
実は自分「カーミラ」という女性向けレズビアン誌を購読しておりました。
正直なところ、興味があって買いました。ビアンの方が聞いたら怒るかもしれません。しかし、確かにそこにある彼女たちの生き方に心惹かれたのは確かです。
カーミラはちょっといきすぎ感もあるので、この本をビアンの方がどう見ていたのかはわかりません)
もちろん、背徳感や悩みもあるようですが、大事なのはそこではなく好きか楽しいか気持ちいいか。そこに惹かれました。男性同士とかヘテロでも同じですね。
百合の求める「壊れそうな一瞬」「超えてはならない思い」のような世界観は、何度も書いてますがあくまでもファンタジー
 
志村貴子「青い花」にこんなシーンがありました。
「気持ち悪いなんて思わないで・・・」と苦しみを告白するビアンの少女に対して友人はさらりと
「え?」「気持ち悪いなんて思わなかったよ?」とさらりと言ってのけました。言い訳でも偏見でもない「さらり」感。
なんかその、区切りのなさが新鮮でした。そうなんだよなあ、と。同じ志村さんの「放浪息子」のオカマのユキさんなどを見るとさらにそう感じます。(これらは先ほどの記事の「わかってるつもり」な人々とは別種だと自分は思います。もちろん捕らえ方はひとそれぞれ。)
なんてことはない。恋愛。
余談ですが、最近だと性教育の教科書のカップルのイラスト、ゲイもビアンも載ってるんですよ。何の解説もなしに。マイノリティな性を区別する時代ではないんですね。このへん自分も思い込みや知らずのうちの偏見がありそうなので、気をつけようと本当に思いました。
あとはよく知らないので、適当なことは言うと失礼になりますね。このへんにしておきます。もう少しきちんと考えてみたいです。
 

  • 百合的作品が好きな人間としてはこう思う。

はて。こっからは百合ファン視点です。
ゲイ・やおいは今明確に二分化されています。同じように時間と過程を経て、ビアン・百合は二分化されなければいけませんね。
そうやって明確化することで、「百合」という紋所を手に入れて、オタク文化は活性化するのではないでしょうか。

美しい少女ほど、コレクションの対象にするのにふさわしい存在はあるまい。蝶のように、貝殻のように、押し花のように、人形のように、可憐な少女をガラス箱の中にコレクションするのは万人の夢だろう
渋澤龍彦「少女コレクション序説」

ここに描かれている「少女」を、「本物の少女」だと思う人はいないでしょう。もしやったら犯罪ですし、それに腐敗してしまう。うわ、きもちわるいな。
しかし、それを人形や絵画に置き換えたとき、自分はなんとなく分かる気がします。この気持ち。ここで言いたいのはおそらく「少女という客体化されたイメージを育むべきだ」、ということだと思います。
百合・やおいも同じで、それを現実に当てはめようとムリをしちゃダメなんですヨ。バランスをうしなって、色々な人を傷つけたり、腐敗してしまったりします。リアルから切り離した記号としてそのイメージを描きあげたときにひとつの作品になるんだと思います。そこがいわゆる「線引き」なんでしょうね。
先ほどのエントリでも指摘されてますが、「百合姉妹」のレズAV特集や「お姉さまを作るための特集」はイタすぎでした。あれは百合でもビアンでもないよね^^;「百合姫」になってだいぶ線引きができてきたようですが、どうなるのかな?(あ、掲載されているマンガは素晴らしいものばかりです。
 
かつて魔術が化学ではなくファンタジーとしておさえられたときに文学などで作品となって広がっていくように、ミステリーが殺人ではなくフィクションとして確立されて人々に愛されたように、百合というファンタジーがどこまで客体化していくのかが、今後の大きな課題だと思います。今がそのときなのカナなんて思います。
 
実はちょっとね、意外とすでに分かれてきているとは思うのですよ。百合的っていう形式。
「百合っぽい」感じの、女の子しか出てこない作品、これらを見て「現実と違うじゃないかだまされた!」という人はいないでしょう。「マリみて」みたいな世界、あるわけないの分かってるから楽しいんですヨ(あったらゴメンナサイ。いや、ないよね、ね?)。
空想世界の楽しさとして「百合」があるなら、そういう意味では、女の子同士がちょっといちゃいちゃしてるってだけでも、それも「百合的」でいいんじゃないかな、と思ったりします。なぜなら自分がソレが見たいからなんだけどネ。
 
ちょっと自信ない意見なんですが、そういう意味では実は、「性」に向き合いすぎないほうが「百合的」文化を記号として作り上げやすいんじゃないかと思いました。
いや、もちろん「性」はあるんだけど、意識的な部分を「性」から解放しちゃった位置にあるんじゃないかな、百合やBLって。行為としての「エロ」が入っても入らなくても同じ。またそれが百合特有の背徳感や、または明るさにつながっていくのかなと思います。このへんは、作品ごとにかなり違うと思いますので、私はこう思う程度に捕らえていただけると幸いです。
 
BLもそうです。世界がBLという枠内だとわかっているから面白いし、こだわれる。百合はまだそのへんがほんのちょっとだけゆるいのですが、もうかなり分けられ始めているから、多くの人が偏見なく「これはこれ」として純粋に楽しめるといいな。素晴らしい作品はたくさん出てきてますしネ。
 
どんどん育て、百合文化。
自分も創作してみようかしら。

参考・現代百合の基礎知識Kaoristics
>「非レズビアンの立場から書かれた非ポルノの女性同性愛(もしくはそれに近いもの)のストーリー」
これはなるほど。人によって価値観は違いますが、線引きが明確です。